釣野伏[3]
「又兵衛様! まんまと敵が追ってきてますぞ!」
隣を駆ける騎馬武者が叫んだ。
振り返らずとも分かる。
蹄の音が、すぐ背後まで迫っている。
土煙が舞い、怒号が山道を震わせていた。
杉浦仁兵衛の手勢、二百の騎馬と四百の足軽。
六百の兵が、逃げる又兵衛を喰らおうと、まるで獲物に群がる獣のように殺到している。
距離は、もうそれほどない。
だが、又兵衛の顔に焦りはなかった。
やがて大牧村の先に、荒谷川が見えてくる。
荒谷川はその先で荘川へ合流する。
いわゆる川の合流点。
この時代、このような場所は「落合」や「川合」と呼ばれていた。
そして、その荒谷川には橋が架かっている。
白雲城へ戻るには、そこを渡らねばならない。
橋へ至る道は比較的平坦だった。
だが、その両脇には深い森が広がっている。
さらに、その森の中ほど。
まるで道を無理やり広げたような、小さな広場があった。
又兵衛は、その場所へ入ると馬を止めた。
「ここで良い!」
百騎ほどの騎馬と百五十の足軽が、一斉に足を止める。
馬が荒い息を吐く。
兵たちも肩で息をしている。
だが、誰一人として慌ててはいなかった。
又兵衛が、ゆっくりと馬首を返す。
その視線の先。
森の向こうから、敵が姿を現した。
最初の一騎。
続いて二騎、三騎。
やがて後ろから、途切れることなく兵が現れる。
二百の騎馬。
四百の足軽。
六百の兵が、勢いを落とすことなく広場へ雪崩れ込んできた。
「いたぞ!」
「追いついた!」
「逃がすなぁっ!」
怒号が轟く。
仁兵衛もまた、馬上から敵を睨みつけていた。
ようやく追いついた。
あと少しだ。
ここで一気に踏み潰す──。
「うおおおおおっ!!」
誰かが吠えた。
それを合図に、騎馬と足軽が一斉に突っ込んだ。
その勢いは凄まじい。
だが──。
又兵衛は動かなかった。
逃げもしない。
槍を構えることすらしない。
ただ、迫り来る敵を静かに見つめていた。
そして。
「──今だ」
次の瞬間。
大地を揺るがすような轟音が、左右の森から炸裂した。
轟ッ──!
轟ッ──!
銃煙が一斉に噴き上がる。
左右から飛来した弾丸が、広場へ殺到した。
先頭を走っていた騎馬が弾けるように倒れる。
馬が崩れ、その上から武者が投げ出される。
後続の足軽が避ける間もない。
さらに銃声。
また銃声。
人が倒れる。
馬が倒れる。
倒れた人馬に後続が突っ込み、次々と地面へ折り重なっていく。
「な、なんだ!?」
「敵はどこだ!」
「左右だ! 森の中だ!」
叫び声が飛び交う。
だが、どこを向けばいいのか分からない。
正面の又兵衛は微動だにせず、その場に留まっている。
森の中だ。
左右から。
逃げ道を塞ぐように、弾丸が降り注ぐ。
「おうっ! おうっ!」
森の奥から、野太い声が響いた。
「撃てっ! 撃てぇっ! ひとりも残さず、血祭りに上げっど!」
七郎だ。
率いる鉄砲隊、およそ百五十。
広場を挟むように左右の森へ潜み、敵が殺しの間へ入り込む瞬間を、じっと待ち続けていたのだ。
ここは、あらかじめ選び抜かれた場所だった。
敵が逃げる側だけを追っている限り、正面しか見ない。
そして両脇の森には、敵の姿を完全に隠せるだけの木々がある。
そこから放たれる鉄砲。
左右から交差する弾道。
逃げ道すらない。
まさに──殺しの間。
しかも広場そのものが、贄玉の射程に合わせて整備されていた。
敵が足を踏み入れた瞬間から、そこは死地となる。
「しまった……!」
仁兵衛の顔が歪む。
背筋に、冷たいものが走った。
「釣野伏かっ!」
気付いた時には、もう遅い。
釣野伏──擬装退却によって敵を誘い込み、包囲して殲滅する。島津家が得意とした、あまりにも危険な戦法。
そして今、その術中に自分たちは完全に嵌まっている。
また銃声が轟いた。
仁兵衛の身体が大きく揺れる。
全身に衝撃が走り、馬上から崩れ落ちた。
地面が迫る。
その直前、仁兵衛は悟った。
自分たちは追っていたのではない。
追わされていたのだ。
最初から──。
又兵衛は、ここへ自分たちを連れてくるために逃げていた。
だが、釣野伏には弱点がある。
敵との距離を保ち続けなければならない。
近すぎれば追いつかれる。
遠すぎれば敵は追撃を諦める。
一歩間違えれば、こちらが殲滅される。
だからこそ、囮を務める者には並外れた胆力と戦術眼が必要になる。
七郎は当初、自らその役を買って出た。
だが、今は鉄砲隊を率いる身。
ならば──と、その役を又兵衛へ託した。
そして又兵衛は、見事に囮役を果たした。
「追うぞっ!」
銃撃が止む。
又兵衛が短く下知を飛ばした。
広場には三百を超える兵が倒れている。
息のある者もいる。
だが、もはや戦える状態ではない。
銃撃を辛うじて逃れた者たちは、我先にと大牧村へ向かって逃げ出す。
二百数十。
槍を捨て、弓を捨て、ただ生き延びるために走っている。
その背後から、又兵衛率いる騎馬隊が襲い掛かった。
逃げる者には、もう戦う意思など残っていない。
叫び声。
悲鳴。
馬蹄。
そして血飛沫。
混乱の中で百を超える兵が討ち取られた。
命からがら逃げ延びた者は、百にも満たない。
六百いた兵が、ほとんど消えた。
もはや全滅と言っていい。
生き残った者たちは恐怖に駆られ、大牧村の門を抜け、そのまま後方へ駆けていく。
だが、彼らが逃げ込もうとしている場所もまた、すでに戦場になっていた。
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