二撃[1]
人海戦術による突貫工事で築き上げられた白川郷の砦は、飯田覚兵衛の采配によって、ついに完成の域へと達した。
山を削り、木を伐り、土を盛る。
昼夜を問わず人が動き、槌音と掛け声が途切れることはなかった。わずか半月余りで築かれたとは到底思えぬほど、砦は堅固な姿を見せている。
兵舎などの生活設備には、なお未完成の部分も残ってはいるが。
だが、砦に求められるものが何よりも防御力であるならば、もはや不足はない。
幾重にも巡らされた土塁、深く掘り下げられた堀、敵の動きを誘導する柵と曲輪。
山間の狭い平地を利用して築かれたその姿は、まるで大地そのものが牙を剥いたかのようだった。
すでにこの砦には一万一千の兵が駐屯している。
甲冑を身に着けた兵たちが各所にひしめき、槍が林立し、鉄砲が整然と並べられ、あとはただ、出陣の号令を待つばかりだ。
ここは単なる砦ではない。
敵地へ踏み込むための最前線基地であり、兵站拠点でもある。
後方の城端本陣には六千。
そして、後続の三千が加われば、白川砦には一万四千の兵が入る。
総勢二万の大軍が、いよいよ飛騨の奥へ牙を伸ばそうとしていた。
*
城端から白川砦へ至る道は、険しい山々に挟まれた難路である。
だが、その道もまた、人の手によって変えられつつあった。
伊奈忠次の指揮の下、大勢の人夫が投入され、崖を削り、木を切り、道幅を広げる。荷駄が行き交えるだけの道を、一歩ずつ、一歩ずつ切り開いていった。
かつては人一人通るのがやっとだった山道を、今では牛馬を連ねた荷駄隊が進む。
完全とはいかぬ。
それでも、軍勢を支える物流路としては、もはや十分に機能するまでに改良されていた。
兵糧が届く。
矢が届く。
鉄砲と弾薬が届く。
そして、傷ついた兵を後方へ送り返すこともできる。
戦において、兵の数だけが力ではない。
その兵を食わせ、戦わせ続ける力こそが、大軍を大軍たらしめる。
その目処が、ようやく立った。
ならばもう待つ理由はない。
小早川の本格的な侵攻が、始まろうとしていた。
*
「忠右衛門」
陣幕の中で、井伊直政が静かに口を開いた。
その声には、戦を前にした昂ぶりなど微塵もない。
ただ、これから始まる戦を確実に勝ち取ろうとする者だけが持つ、冷徹な落ち着きがあった。
「此度の戦は、まず大牧村の確保だ。ここを足場として、さらに敵陣へ切り込む。くれぐれも抜かるでないぞ」
「ははっ!」
直政の前に膝をつく渡辺忠右衛門重綱が、力強く頭を下げる。
「お任せくだされ! 必ずや、ご期待にお応え致しまする!」
重綱は三十歳。
武将として、まさに脂の乗り切った年頃である。
父は渡辺守綱。
徳川家譜代の家臣にして、槍の名手としてその名を轟かせた男だ。
関ヶ原の後、守綱は直政の仲介によって小早川家に仕えることとなった。
だが、金沢で齢六十を迎えた守綱は隠居し、今では重綱が渡辺家を背負っている。
父ほどの華々しい武功はない。
それでも、小田原征伐、そして関ヶ原、徳川の将としてその名に恥じぬ働きを見せてきた。
若さだけではない。
実戦をくぐり抜けた者だけが持つ、確かな自信がその顔には浮かんでいる。
「敵は寡兵と言えど、六左がおる。恐れることはない。だが、侮るのは禁物じゃ」
「この肝に銘じまする!」
重綱の目に、鋭い光が宿る。
「必ずや、六左殿の首を取ってご覧に入れまする!」
「うむ」
直政は短く頷いた。
その一言を受けた重綱の胸中に、熱いものが込み上げる。
六左こと水野六左衛門勝成。
天下にその名を轟かせる、あまりにも眩しい武将。
重綱にとって六左は単なる敵将ではない。
妻の従兄妹。
つまり、親戚である。
幼い頃からその武名を聞き、いつしか憧れさえ抱いた男だった。
あの六左のような武将になりたい。
その背中を追いかけたこともある。
だが、戦国の世に生きる武士にとって、血縁や親交は戦場では何の意味も持たない。
親子が敵味方に分かれることさえある時代だ。
まして、従兄妹同士が刃を交えることなど、決して珍しいことではない。
それでも胸の奥のざわめきが止まらない。
(六左殿を、この俺が……)
恐れではない。
むしろ、その逆だ。
かつて憧れた男を、自らの手で討ち取る。
これ以上の名誉が、果たしてあるだろうか。
もし成し遂げれば、渡辺重綱の名は一気に天下へ轟く。
父、守綱の名に並ぶどころか、それを越える武功となるかもしれない。
重綱は湧き上がる高揚を抑えきれず、口元をわずかに緩めた。
「……参るぞ」
立ち上がる。
その声に応じるように、背後で一千八百の兵が動き始めた。
旗が翻る。
槍が揺れる。
甲冑が擦れ合い、軍勢が山間の道へと流れ込んでいく。
白川砦を出た重綱は、振り返った。
そこには、巨大な要塞が聳えている。
この砦を起点に、いよいよ戦が動き出す。
そして、その先には六左がいる。
重綱は前を向いた。
胸の奥で燃え盛る昂ぶりを、もはや隠そうとはしない。
一千八百の兵を従え、渡辺忠右衛門重綱は大牧村へ向けて進軍を開始した。
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