出鼻[1]
白雲城は、山の頂に本丸を置き、その裾野へ向かって二つの曲輪を連ねている。
中腹に二の丸。
そして、ふもとに三の丸。
畝のように刻まれた竪堀や堀切、斜面を利用した空堀など、山城として最低限の防御施設は備えている。だが、所詮は小規模な城だ。曲輪そのものが狭く、兵を収容するにも限りがある。
これが大軍に取り囲まれれば、ひとたまりもない。
だからこそ、城に集った男たちは知恵を絞った。
白雲城から白川郷へ通じる細い道。
山肌を縫うように延びるその通路そのものを、一つの曲輪に見立てた。
道を塞ぎ、柵を築き、要所に兵を伏せる。
敵が一気に押し寄せられないよう、地形の一つ一つを利用して防御の線を幾重にも張り巡らせていく。
だが敵の数は圧倒的だ。
どれほど策を巡らせ、どれほど地の利を利用したところで、それだけで勝てるほど甘くない。
しかし、勝つ必要はなかった。
必要なのは、時間だ。
小早川秀秋が惣無事令を破り、飛騨の地で戦乱を引き起こしたことは、すでに大坂にも伝わっている。
ならば、いずれ大老衆による調停が入る。
政を預かる者たちが、この事態を見過ごすはずがない。
だからこそ、それまで持ち堪えればいい。
敵を打ち破るのではない。
敵を退けるのでもない。
ただ、調停が届くその日まで、生き残る。
それが白雲城に籠もる者たちに与えられた、唯一にして最大の勝利条件だった。
その意図は、内ヶ島の武将から足軽に至るまで、城にいる者すべてに徹底されている。
兵はおよそ一千。
帰雲城の崩壊によって主家を失い、行き場をなくしていた内ヶ島の家臣団。それを金森長近が糾合し、あらためて氏頼の家臣となった者たち。長近に預けられた与力衆もいれば、新たに召し抱えられた兵もいる。
出自も立場も、それぞれ違う。
だが今、この城にいる間だけは同じだった。
小早川の大軍を前に、誰一人として逃げ出すことなく、同じ城を守る兵である。
籠城戦を戦い抜くために必要なのは、兵の数だけではない。
むしろ最後に物を言うのは、互いを信じる心と、主君のために命を懸ける覚悟だ。
そのことを、政宗も慶次郎も理解していた。
又兵衛も、六左も、七郎もまた同じだ。
だからこそ、戦が迫るにつれて、彼らは兵たちの心を何よりも気に掛けていた。
恐怖は、伝染する。
一人が怯えれば、十人が怯える。
十人が怯えれば、やがて百人の足が竦む。
逆もまた然り。
一人が立ち続ければ、それを見た者はまた立ち上がる。
*
「ふんっ! ふんっ!」
夜が明けきらぬ三の丸。
まだ東の空が薄青く染まり始めたばかりの頃、冷え切った山の空気を切り裂くように、槍を振るう音が響いていた。
吐く息は白い。
大地には夜露が残り、足を踏み込むたび、湿った土がかすかに沈む。
その中で、一人の男が黙々と槍を振るっていた。
後藤又兵衛である。
小早川家と戦うと決めたあの日から、又兵衛は毎朝、この場所で鍛錬を続けていた。
一本。
また一本。
槍を突き出し、引き戻す。
踏み込み、身体を捻り、薙ぎ払う。
額から汗が流れ、肩が熱を持ち、息が荒くなっても、手を止めない。
戦が始まれば、この槍一本に己の命を預ける。
ならば、今のうちに身体へ叩き込んでおくしかない。
迷わず動けるように。
恐怖に呑まれた瞬間でも、身体だけは動くように。
それが又兵衛なりの戦支度だった。
やがて、その姿を見ていた者たちが一人、また一人と広場へ集まるようになった。
最初は数人だった。
それが十人になり、二十人になり、いつしか百を超えた。
今では夜明け前になると、三の丸の広場には槍を振る音が満ちる。
荒い息遣い。
踏み鳴らされる足音。
槍が空気を裂く音。
それらが重なり合い、まるで戦場そのもののような熱気を生み出していた。
誰も口には出さない。
だが、皆が分かっている。
戦は近い。
そして、これが最後の鍛錬になるかもしれない。
だからこそ、誰も手を抜かなかった。
「今日も精が出るな、兄い」
槍を振るう又兵衛の背後から、聞き慣れた声が飛んできた。
又兵衛が振り返る。
「おう、六左か。どうだ、お前も付き合わんか?」
「おうよっ! ……と言いたいところだが、そういう訳にはいかん」
いつものような軽口だった。
だが、その声にはどこか硬さがあった。
又兵衛もすぐに察した。
「何かあったのか?」
「大将が呼んでいる。新しい知らせが入ったそうだ」
その一言で、又兵衛の表情から笑みが消えた。
槍を握る手が、ほんのわずかに止まる。
とうとう来たか。
胸の奥で、何かが静かに沈んでいく。
恐れがないと言えば嘘になる。
これから相手にするのは、こちらの何倍もの兵を擁する小早川家だ。
自分も、配下も、生きて帰れる保証などどこにもない。
それでも──。
又兵衛は小さく息を吐き、槍を下ろした。
「そうか……すぐに行く」
額の汗を手拭いで拭う。
そして、六左と並んで本丸へ向かって歩き始めた。
朝の冷気が、火照った身体に心地よい。
振り返れば、三の丸では百を超える兵たちが、まだ鍛錬を続けている。
その姿を見つめ、又兵衛は胸の奥で静かに思った。
──あとは、やるだけだ。
山の向こうには、敵がいる。
いよいよ、内ヶ島の命運を懸けた戦いが始まる。
そしてそれは、帰雲城を失った内ヶ島の者たちにとって、もう一度、自分たちの生き残る場所を守るための戦いでもあった。
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