要塞[3]
城端の本陣から白川郷までは、およそ十里(四十キロメートル)。
平地の道ならば、二日もあれば踏破出来る距離である。
だが、飛騨へ向かう道はそう簡単ではない。
幾重にも連なる山々が行く手を阻み、道は谷へ下り、川を渡り、また山腹を這うようにして延びている。大軍ともなれば、先頭が進んだと思えば後尾はまだ峠の向こうという有様で、思うように行軍速度を上げることが出来ない。
ましてや、六千もの兵である。
兵糧や武具を積んだ荷駄、馬、輜重隊まで連ねれば、その長さは一つの町が動くに等しい。
井伊直政率いる六千の兵が白川郷へ辿り着いたのは、出陣から四日目の昼過ぎであった。
山を越えた先に白川郷が姿を現した時、直政は思わず馬上で目を細める。
「…………これは」
眼下に広がっていたのは、鄙びた山里の姿ではなかった。
白川郷の平地を大きく取り囲むように、木柵が幾重にも連なっている。
柵の上には櫓が立ち並び、忙しそうに動き回る兵たちの姿が見える。
さらに目を凝らせば、郷を囲む山々の木々が、まるで巨大な刃物で削り取られたかのように消えていた。
森がない。
山肌がむき出しになっている。
その開けた空間の底には、深々と掘られた空堀まで見えた。
わずか十日あまり。
それだけの時間で、ここまで砦を作り上げた。
驚きより先に、戦場を知る者としての感嘆が湧き上がった。
白川郷そのものが、巨大な砦へと姿を変えつつある。
「お待ちしておりましたぞ、兵部様!」
砦の門前で出迎えたのは、ひときわ大きな男。
「宿所へ案内致しますゆえ、まずはお休みくだされ」
満面の笑みを浮かべている。
飯田覚兵衛。
加藤家の重臣にして、槍の腕は天下無双と謳われる猛将である。
だが、清正がこの男を二番手として白川郷へ送り込んだ理由は、槍働きではない。
築城。
加藤清正は築城の名手として知られている。
その最高傑作と称される熊本城を見れば、その才が並のものではないことは誰の目にも明らかだ。
そして、その清正の片腕として建築を支えてきたのが覚兵衛だった。
戦場では敵を恐れさせる槍を振るい、戦場を離れれば縄張を引き、土を掘り、石を重ね、木を組む。
その男が、この白川郷を砦へと変えた。
「それにしても……見事ですな」
直政は馬から降りると、改めて周囲を見渡した。
「わずか十日あまりで、これほどの砦を築くとは」
「人手には困りませんですから」
覚兵衛は嬉しそうに胸を張った。
「このために集めた三百人の大工衆も、交替で一日中仕事をさせております」
まるで自分の庭を自慢する子供のような顔だった。
直政は苦笑する。
この男、本当に築城が好きなのだろう。
目の前の砦を眺める目が、戦場を見る武将のものとは少し違う。
そこにあるのは、己の手で造り上げたものへの愛着だった。
とはいえ、見た目だけの砦ではない。
石垣こそ組まれていない。
塀も土塀ではなく、太い丸太を並べた木柵に過ぎない。
それでも、最前線の砦としては十分すぎるほどの防御力を備えている。
白川郷に残された広い平地のほとんどを砦として取り込み、万を超える兵を収容出来る規模にまで拡張している。
さらに郷を取り囲む山の木々は、百間(約百八十メートル)ほど奥まで伐り倒されていた。
その跡地には空堀が巡らされている。
敵がどの方向から近づこうとも、その姿を遠くから発見出来る。
死角がない。
奇襲を仕掛けるにも、身を隠す場所がない。
山間に築かれた砦というより、山そのものを削って造り上げた、巨大な要塞だった。
「小屋は、まだ出来ていないようだが」
直政が尋ねると、覚兵衛は平然と答えた。
「柵と櫓が出来てからですな」
「ほう」
「なあに、屋根がなくても人は死にませぬ」
「…………」
一瞬、直政は言葉を失った。
そして、思わず吹き出した。
「さすが名人、覚兵衛殿だ」
「いやいや、褒められるほどのことではございませぬ」
そう言いながら、覚兵衛は頭を掻いている。
だが、この男がどこで寝ているのかを直政はすでに聞いていた。
才蔵が作らせた小屋は使わず、兵たちと同じように野宿しているという。
雨が降ろうが、寒かろうが、それを気にする様子もない。
自分だけが屋根の下にいることを嫌う。
そんな男だからこそ、兵たちも自然とその背中についていくのだろう。
直政は、覚兵衛の笑顔を眺めながら、ふと思った。
戦場で兵を動かすのは、命令だけではない。
この男なら、自分たちと同じ泥を踏み、同じ寒さに耐え、誰より先に槍を持って敵へ向かっていく。
だから兵は、この男のためなら命を預けられる。
そういうことなのだろう。
「兵部様の陣屋は用意してありますから。そちらをお使いください」
「どうも、拙者だけ屋根付きというのは腰が落ち着きませぬな」
「何を仰います」
覚兵衛は困ったように笑った。
「兵部様は御大将ゆえ、皆と同じというわけには参りませぬ」
そして両手を合わせる。
「陣屋にお入り頂けねば、儂が殿から叱られます」
「はははっ!」
直政はとうとう声を上げて笑った。
拝むような格好をしている覚兵衛の姿が、なんとも可笑しい。
天下に名を轟かせる猛将が、主君に叱られるのを恐れて頭を下げている。
その姿には、武将としての威厳よりも、人間臭い愛嬌があった。
だが、この愉快な男が、ひとたび戦場に出れば鬼のような槍を振るう。
その落差が、妙に可笑しく、そして頼もしい。
なるほど。
直政は、ふと胸の内で頷いた。
兵たちが、この男に命を預けたくなるわけだ。
武勇だけではない。
兵の心を掴む何かがある。
それは、戦場で生き残るための技術とは別の、武将としての器なのだろう。
直政はそんなことを考えながら、再び砦へ目を向けた。
無数の木柵。
高くそびえる櫓。
その向こうで動き回る兵たち。
そして、山肌を大きく削り取って築かれた空間。
これだけのものを、わずかな期間で造り上げた覚兵衛の才。
敵に回せば、さぞ厄介な男だろう。
だがその瞬間、直政の脳裏に別の顔が浮かんだ。
水野六左衛門。
十日前、可児才蔵を討ち取った男。
そして、雷振筒を使う男。
直政はわずかに目を細めた。
(……敵にも、いるのだろうか)
覚兵衛のような男が。
兵から信頼され、戦場では鬼となり、己の役目を黙々と果たす武将が。
あるいは──覚兵衛よりもさらに恐ろしい何かが、白川郷の向こうでこちらを待ち構えているのではないか。
そんな考えが、ほんの一瞬だけ胸をよぎった。
直政はすぐに打ち消した。
敵は内ヶ島。兵はせいぜい一千。
こちらは二万。
兵力では圧倒している。
恐れる必要などない。
そう自分に言い聞かせるように、直政は砦の奥へと歩き始めた。
だが、胸の奥に芽生えた小さな警戒心だけは、消えることなく、静かに残り続けていた。
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