要塞[1]
先鋒として可児才蔵が飛騨入りしてから、十日あまり。
森本義太夫が城端本陣の加藤清正を訪ねたのは、細かな雨が朝から途切れることなく降り続く、昼下がりのことだった。
春とはいえ、山から吹き下ろす風にはまだ冬の名残があった。
濡れた土の匂いが陣屋の中にまで漂い、軒先から落ちる雨垂れが、一定の間隔で地面を叩いている。
「殿、覚兵衛からの知らせが届きましたぞ! よろしゅうござるか?」
板戸の向こうへ、義太夫の太い声が響く。
「いいぞ。入ってこい」
短い返事だった。
森本義太夫。
飯田覚兵衛と並び、加藤家の柱石と称される男だ。
二人とも若い頃から幾つもの戦場を駆け抜けてきた歴戦の猛者であり、槍を持たせれば天下に名を知らぬ者はない。その武勇こそが、加藤家の名を轟かせた大きな理由の一つであった。
清正にとって、二人はただの家臣ではない。
少年の頃から苦楽を共にしてきた、腹の底まで知り尽くした間柄である。
主従という言葉だけでは、この三人の関係は語り尽くせない。
だからこそ、重臣たちの中でも別格だった。
義太夫は遠慮なく清正の前へ出ることを許され、清正もまた、彼らの前では余計な虚飾を必要としなかった。
「それでは御免」
義太夫が板戸を引く。
その瞬間、彼の目に入ったのは、陣中床几に腰を下ろす清正の姿だった。
だが、その向かいにも一人。
鎧武者が座っている。
背を向けているため顔は見えない。
しかしその鎧を見れば、誰なのかは一目瞭然だった。
首から足元まで朱に染め上げられた甲冑。
雨雲に覆われた昼間だというのに、その赤は妙に鮮烈であった。
「……っと、兵部様がいらっしゃるとは……」
義太夫の足が止まる。
「殿、やはりそれがしは後で……」
その声に、朱の武者がすっと立ち上がった。
ゆっくりと振り返る。
井伊兵部少輔直政。
関ヶ原を生き抜き、今は飛騨討伐の副将としてここにいる。
「拙者はご挨拶に参ったまで。これで失礼致しますゆえ、どうかご遠慮なく」
そう言って立ち去ろうとする。
「あいや、待たれよ、兵部殿」
清正が声を掛けた。
直政が振り返る。
「覚兵衛からの知らせとなれば、貴殿の耳にも入れておいた方がよい話だろう。であるな、義太夫」
「はっ。それでは──」
義太夫は二人の間に置かれた陣中床几へ腰を下ろした。
濡れた衣の裾を整えながら、懐へ手を入れる。
取り出したのは、一通の文だった。
その紙を開く音が、妙に大きく聞こえた。
「…………ふうむ」
義太夫が読み上げる内容に聞き耳を立てていた清正の眉が、わずかに動く。
「才蔵が討ち取られた、とはな……」
声に大きな動揺はない。
だが、長く戦場を生きてきた清正には、才蔵という男の強さがよく分かっている。
笹の才蔵。
先陣を任せるに足る、紛れもない猛将だ。
その男が、こうも早く戦場から消えた。
予想していなかった。
その事実だけが、胸の奥に重く沈んだ。
「大物見に出て、敵将と渡り合ったとか。その男が、なんと水野六左衛門だという話だ」
「……何?」
直政の表情が変わった。
今まで静かだった目が、鋭く見開かれる。
「六左が……?」
思わず、声が漏れた。
井伊直政にとって、水野六左衛門は旧知の男である。
かつて共に徳川家に仕え、同じ戦場に立った。
あの男の気性も、技量も、嫌というほど知っている。
無類の戦上手。
それでいて、主君選びには人一倍うるさい。
気に入らぬことがあれば、たとえ名門であろうと平然と見限る。
幾つもの主家を渡り歩き、そのたびに重用されながら、主君や同輩と衝突しては、あっさりと去っていった。
そんな倜儻不羈の権化のような男を、最後まで使いこなしたのが徳川家康だった。
──いや。
家康にしか、使いこなせなかったのかもしれない。
だが、その家康は関ヶ原で死んだ。
直政が小早川家へ仕官する際、彼は徳川の旧臣たちに広く声を掛けた。
徳川家が失われた今、行き場を失った者たちを一人でも多く拾い上げるために。
当然、六左にも声を掛けるつもりだった。
方々を探した。
だが、結局その行方を掴むことは出来なかった。
それが──。
「なぜ六左が……」
考えるより先に、言葉がこぼれ落ちた。
敵として。
しかも、飛騨の内ヶ島家に仕えている。
直政には、それがどうしても理解出来なかった。
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