贄玉[3]
大将である可児才蔵を討ち取られた三百の兵は、急ぎ足ながらも算を乱すことなく、退却の歩を進めていた。
誰もが胸の内に焦りを抱えている。
つい先ほどまで、才蔵の声が戦場に響いていた。
その声に従い、圧倒的な兵力で敵と対峙していた。
その才蔵が、もういない。
だが、だからこそ、崩れるわけにはいかなかった。
才蔵は、戦の経験を持つ兵を中心に部隊を編成していた。
それが幸いした。
大将を失った直後だというのに、兵たちは互いに声を掛け合い、隊列を保ちながら退いていく。
恐怖に駆られて走り出せば、かえって危険だ。
何よりも、全員が知っている。
白川郷の砦へ戻るには、急峻な山道を通らねばならない。
荘川の流れに沿って、山壁を這うように伸びる細い道。
場所によっては、人が二人並ぶのがやっとだ。
一歩踏み外せば、そこにあるのは大地ではない。
切り立った崖と、その底を轟々と流れる急流だけ。
ここへ兵が殺到すれば、どうなるか。
考えるまでもない。
前の者が立ち止まれば、後ろから押される。
誰かが転べば、その上へ別の者が倒れる。
そして道から押し出された者は、鎧を着たまま川へ落ちる。
だからこそ、急ぐ。
しかし、慌てない。
追撃の恐怖に耐えながら、兵たちは必死に秩序を保っていた。
指揮官を失ったとはいえ、兵達はまだ冷静さを残している。
その頃。
山道を見下ろす斜面では、別の緊張が静かに張り詰めていた。
「来ました! 敵です!」
物見役の足軽が、息を弾ませながら七郎のもとへ駆け込んできた。
七郎は顔を上げた。
山の向こう。
木々の隙間から、かすかな音が届いている。
甲冑が擦れ合う音。
踏みしめられた土が鳴る音。
人の声。
退却してくる敵兵が、間もなく眼下を通過する。
「おお、早かじゃな!」
七郎の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「流石は六左どん。めっそ早う追っ払うたか!」
声は明るかった。
だが、その目は笑っていない。
七郎は山道の先へ視線を戻した。
待つ。
ただ、それだけだった。
ここへ敵が来ることは、最初から分かっている。
襲うのは退却時。
それも、敵の隊列が最も伸び、最も気が緩む場所。
その瞬間だけを狙う。
「鉄砲ば構えっ!」
七郎が低く命じた。
「オイん合図ば待て!」
「はっ!」
返事と同時に、兵たちが動いた。
百挺の内ヶ島銃が、音もなく持ち上げられる。
その動きは驚くほど静かだった。
火縄はない。
煙もない。
敵から見れば、そこにあるのはただの森だ。
山肌を覆う木々。
葉を付け始めた枝。
どこにも人影など見えない。
だが──。
森そのものが、すでに銃陣へと変えられている。
七郎は、かなり前からこの場所を選んでいた。
身を隠すのに適した木を選び、射線を遮る枝を払い、道へ向けて銃を撃てる場所を整えた。
森の中には、無数の小さな射撃地点が設けられている。
道から見上げても、それとは分からない。
当然だった。
敵は、ここを往路で通っている。
その時には何もなかった。
だから帰り道にも何もない。
敵の頭の中では、そうなっている。
そこに付け込む。
七郎はじっと待った。
やがて、木々の隙間から兵の姿が見え始める。
一人。
二人。
十人。
さらに、その後ろから次々と兵が続いてくる。
皆、足早に歩いている。
だが、まだ走ってはいない。
隊列も崩れていない。
山道が細いからだ。
前を急かせば、かえって詰まる。
そのことを敵も理解している。
七郎は黙って見つめた。
まだだ。
もう少し。
先頭の兵が道の湾曲部へ差しかかる。
そこを曲がれば──。
森の中に潜む百人の姿は、完全に死角となる。
七郎は息を吸った。
周囲から、誰一人として声を上げる者はいない。
銃を構えた兵たちも、ただ黙って待っている。
敵が来る。
さらに来る。
隊列の中央までが、射界に入った。
七郎の目が細くなる。
「──今じゃ!」
次の瞬間。
「放てえええっ!!」
轟音が山を揺らした。
百挺の内ヶ島銃が、一斉に火を吹いた。
火縄銃とは違う。
火縄の煙も、臭いもない。
ただ猛烈な銃声だけが、山中を叩き割った。
「な、なんだ!?」
「敵だ! 敵のてっぽ──」
言葉の途中で、兵が倒れた。
「どけっ!! そこをどけっ!!」
「身を隠せ! このままでは──!」
悲鳴。
怒号。
絶叫。
一瞬にして、山道は阿鼻叫喚の地獄へ変わった。
敵からすれば、何が起きたのか理解出来ない。
森には何もなかったはずだ。
それなのに、突然、木々の向こうから無数の弾丸が飛んできた。
しかも──。
一度だけではない。
次々に銃声が響いた。
「撃ってくるぞ!」
「どこからだ!?」
「森だ! 森に敵がいる!」
「入れ! 森へ逃げろ!」
兵の一人が、たまらず森へ駆け込んだ。
だが、その入口へ向けて別の内ヶ島銃が待ち構えていた。
銃声。
男が倒れる。
別の場所へ逃げようとする。
そこにも銃口が向いている。
逃げ道がない。
ならば、と山道の外へ飛び出した者は──。
足元から大地が消えた。
「うわあああっ!」
身体が宙へ投げ出される。
次の瞬間、鎧をまとった身体が荘川の急流へ落ちた。
水飛沫が上がる。
だが、その水音さえ次の銃声に掻き消された。
川へ飛び込むなど、自殺行為だ。
しかし、道に留まっていれば撃たれる。
森へ逃げれば撃たれる。
川へ逃げれば死ぬ。
敵兵たちの中で、恐怖が急速に膨れ上がった。
そして恐怖は、秩序を壊す。
前へ逃げようとする者。
後ろへ戻ろうとする者。
森へ駆け込もうとする者。
そのすべてが、狭い山道の上でぶつかった。
「押すな!」
「前へ行け!」
「止まるな!」
「動けっ!」
怒鳴り声が重なり、誰の命令なのかも分からなくなる。
一人が転んだ。
その上に別の兵が倒れる。
さらに、その後ろから兵が殺到する。
将棋倒しになった人の塊へ、容赦なく弾丸が降り注いだ。
それはもはや戦闘ではなかった。
百挺。
たった百挺の銃。
それだけ。
だが、通常の火縄銃とは違う。
一分間に五発から六発。
熟練兵なら、それ以上。
通常の火縄銃の五倍、六倍という異常な速度で次弾が装填される。
つまり──。
敵兵たちが体感したのは、百挺の鉄砲隊ではなかった。
五百。
六百。
それだけの銃が一斉に集中砲火を浴びせているようなものだった。
「そん辺で良か!」
七郎が叫ぶ。
「撃ち方、止めい!」
その声と同時に、銃声が途絶えた。
あまりにも突然だった。
耳鳴りだけが残る。
硝煙の臭いが立ちこめる山中に、異様な静けさが戻ってくる。
さっきまで叫び声と銃声で満ちていた道には、兵たちの亡骸と、動けなくなった者たちが累々と折り重なっていた。
呻き声だけが、かすかに聞こえる。
運良くここから逃れた者もいた。
だが、その数は三十数名に過ぎない。
七郎はその光景を、しばらく無言で見下ろした。
胸の奥に、奇妙な感覚が残っている。
これほどまでに一方的な戦いになるとは、七郎自身も予想していなかった。
内ヶ島銃。
贄玉。
拓真が残していったもの。
それが今、目の前で絶大な戦果をもたらした。
七郎は一瞬だけ感嘆の声を漏らす。
だが、すぐに表情を引き締める。
「死んどる者は川へ」
淡々と命じる。
「生きちょる者は手当てばしてやれ」
兵たちが動き始めた。
死体は川へ投げ込まれる。
まだ息のある者には応急処置だけを施す。
捕虜として連れて行くことはしない。
ここに長く留まる理由はない。
七郎たちは、手早く撤収を始めた。
そしてその頃、逃げ帰った三十数名の兵が、震える声で仲間たちに伝えた。
可児才蔵が討たれたこと。
山道で待ち伏せを受けたこと。
森の中から、大量の鉄砲に襲撃されたこと。
そして、三百いた仲間のほとんどが討ち取られたこと。
その報告は、瞬く間に砦中へ広がった。
誰もが恐れた。
何も出来ず、敵の姿も見えないまま、仲間が次々と倒れていった。
それは兵たちにとって、武器による攻撃というよりも、姿の見えない怪異に襲われたような恐怖だった。
白川郷の砦は、たちまち恐慌状態に陥る。
そして、その恐怖が収まるのは翌日。
飯田覚兵衛率いる四千の追加部隊が、白川郷へ到着した時であった。
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