一撃[1]
飛騨の山間を縫うように流れる荘川は、穏やかな流れとはほど遠い。
高きから低きへ、谷底を這うように進み、行く手を阻む山壁にぶつかっては大きく身を翻す。幾重にも蛇行を繰り返すその流れは、長い歳月をかけて川岸を削り、川底を深くえぐり、ところによっては見る者が不安を覚えるほど鋭く湾曲していた。
流れが急な場所では、水面が穏やかに見えても、その下では複雑な水流が渦を巻いている。
一度、足を取られれば終わりだ。
水に落ちた者は流れに翻弄され、岩に叩きつけられ、岸へ這い上がることすら叶わぬまま下流へ運ばれていく。
白川郷の南端、荻町村を抜けた先には、荘川でも屈指の湾曲部があり、その角度は、ほとんど六十度に達する。
そこを越えるには、山の斜面に刻まれた細い山襞の道を進み、ようやく流れが緩む場所まで回り込まなければならない。そこに架けられた粗末な橋だけが、人馬がまとまって渡れる唯一の道だった。
才蔵は、その橋を三百人の兵とともに渡った。
川面を見下ろせば、春の日差しを受けた水が白くきらめいている。美しい景色だった。
だが、その美しさの下に潜むものを、才蔵は知っている。
この川は、敵にとって天然の堀となる。
そして、こちらにとっては退路を断たれる場所にもなり得る。
三百という兵数は、威力偵察にしては明らかに多い。
一備ともなれば、それだけで独立した作戦行動を取れる規模である。敵の様子を探るだけなら、もっと少ない兵でも十分だった。
それでも才蔵は、この人数を連れてきた。
何者が待ち構えているのか分からない以上、万一の襲撃にその場で対処できるだけの兵力は必要だ。
敵が潜んでいると分かってから兵を呼び寄せるのでは遅い。
ならば、最初から備えておけばよい。
才蔵は、そういう男だった。
豪胆な武者として知られてはいるが、無謀ではない。
むしろ、危険を承知しているからこそ、危険に対して念入りに備える。
今回の偵察には、もう一つ意味があった。
やがて始まるであろう飛騨への侵攻。
その時に必要となる、大規模な兵力の運用を実地で学んでおくためである。
三百の兵をどのように進ませ、どこで止め、どこに目を配らせるのか。
山間の狭い道で兵をどう動かすのか。
才蔵にとって、この偵察は単なる敵情視察ではない。
戦そのものを見据えた準備でもあった。
やがて大牧村を見渡せる場所まで備は進む。
「ほほう……」
才蔵は、思わず足を止めた。
「川を穿って、池を作ったのか……」
眼下に広がっていたのは、山間の村には似つかわしくないほど幅広い水面だった。
天然の造作ではない。
川の流れを利用しながら、人の手によって意図的に広げられたものだ。
春の陽光が水面を照らし、風が吹くたびに細かな波がきらめいている。
一見すれば、ただの浅い池にしか見えない。
しかし、才蔵は目を細めた。
これは池ではない。
軍を止めるための堀だ。
しかも厄介なことに、完全な溜め池ではない。川の水が絶えず流れ込んでいるため、水を抜くには大規模な土木工事が必要となる。
「なるほど……考えたものよ」
才蔵は感心したように呟いた。
水面の様子からして、さほど深くはない。
兵が入れば腰ほどまでしか沈まぬかもしれない。
だが、それだけで渡れると考えるほど、才蔵は軽率ではなかった。
これが堀であるのならば、底に何が仕掛けられているかも分からない。
そして何より、こちらが水中に足を踏み入れた瞬間、向こうから弓や鉄砲を浴びせられれば、まともな反撃などできない。
「道を行くぞ」
才蔵は短く命じた。
兵たちは堀を迂回し、長蛇の列を崩さぬまま街道を進んでいく。
やがて村の境界を示す木柵が視界に入った。
その向こうに家々が並んでいる。
だが、静かすぎた。
才蔵は無意識に手を槍へ添えた。
次の瞬間。
家々の陰から、完全武装した足軽たちが次々と姿を現した。
槍を手にした者。
弓を構える者。
鉄砲を携えた者。
さらには騎馬武者までいる。
村人が慌てて集まったような有様ではない。
明らかに、戦うために待ち構えていた。
兵たちの間に緊張が走った。
槍の柄を握り直す音がする。
馬が鼻を鳴らす。
才蔵は周囲を見回した。
やはりいたか。
敵の存在を確信した瞬間、胸の奥に冷たいものが走る。
しかし、その表情には動揺を浮かべなかった。
待ち構えていたということは、こちらの動きが見られていたということだ。
問題は、どこまでやるつもりか。
そんなことを考えていると、敵陣から一人の武者が進み出た。
槍を振り回しながら柵の出口へ近づき、腹の底から声を張り上げる。
「ここは内ヶ島蔵人佐の領地である! それを勝手に入ってくるとは不届千万! 今すぐ引き返すなら命は助けてやる! それでも進むというなら、この槍の錆にしてくれるわ!」
明らかな挑発。
才蔵の口元がわずかに歪む。
三百の軍勢を見ても恐れていない。
かといって、軽く見ているわけでもない。
自分たちの立場と戦力を理解した上で、こちらに退路を選ばせようとしている。
果たして何を仕掛けているのか──。
才蔵は一歩前へ出た。
「儂は加賀大納言様が家臣、可児才蔵である!」
腹の底から声を張る。
「大納言様の命に服さぬ叛臣、蔵人佐を捕らえに参った! 大人しく引き渡せば手荒な真似はせぬ! そこを通せ!」
村中に響き渡るかのような大音声。
すると、敵陣から思いもよらぬ声が返ってきた。
「これはこれは、彼の高名な笹の才蔵であったか!」
その声音には、明らかな嘲りが混じっている。
「貴様ほどの武者が、金吾の色狩りの手伝いとはな! せっかく上げた武名を、自ら地に落とす真似をするとは情けない限りよ!」
「なにお!」
才蔵の眉が跳ね上がった。
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