才蔵[3]
荻町、飯島、島、鳩谷。
この四つの村からなる平地を、白川郷と呼ぶ。
荘川が長い年月をかけて山々を削り、その懐にわずかに残した盆地である。
四方を山に囲まれた飛騨にあっては、広い。
それでも所詮は猫の額だ。
だが、内ヶ島領において、これほどまとまった平地は他にない。
昨年、花房助兵衛が三千の兵を率いて侵攻してきたとき、内ヶ島軍はここで敵を迎え撃った。
荻町城に罠を張り、敵の進路を誘導し、伏兵を潜ませる。
入念に仕掛けを施し、幾度も戦況を想定して練り上げた奇襲だった。
そして、それは見事に成功した。
敵は罠に嵌まり、隊列を乱し、指揮系統を寸断され、総大将の助兵衛は生け捕りとなった。
白川郷での戦いは、内ヶ島軍の完全勝利に終わった。
しかし、今回は同じようにはいかない。
政宗は、そのことを誰よりも理解していた。
敵はもう、この地を知らぬ軍ではない。
前回の敗北がある以上、罠を警戒する。
伏兵を疑い、山陰を覗き、少しでも怪しい場所があれば足を止める。
兵力こそ前回より一千少ない。
だが、油断しきった三千と、最初から戦うつもりで身構えた二千。
どちらが手強いかなど、考えるまでもなかった。
この二千を白川郷で撃破し、砦の構築を阻止する。
それは、多大な犠牲を払わずに成せる仕事ではない。
だからこそ、政宗らは白川郷そのものを最初から戦場として捨てた。
白雲城が動かせる兵は、最大でも一千余り。
実際に城を空けて戦場へ投入できる兵となれば、八百がいいところである。
対する敵は二千。
その差を埋めるには、地形を味方につけるしかない。
正面からぶつかれば、数の差がそのまま戦力差になるだろう。八百では白川郷ですら広すぎる。
ならば──。
敵の数を意味のないものにしてしまえばいい。
狭い場所へ誘い込み、一度に戦える敵の数を削る。
山と谷と川。
そして、人工の障害。
白雲城までの道そのものを、一つの巨大な曲輪に変える。
それが政宗らの選んだ戦い方だった。
そもそも、小早川家の目的は明白である。
白雲城を落とし、内ヶ島氏を滅ぼす。
しかも、できる限り短期間で。
長引けば、戦場の外から別の敵が現れる。
政治という名の、厄介な敵が。
内ヶ島家が小早川家との内紛を公にした以上、その責任者である小早川秀秋への審問は避けられない。
大老衆が動けば、秀秋も勝手に戦を続けることはできなくなる。
そうなれば、白雲城を落とすことも、内ヶ島氏を滅ぼすことも、そして何より──弓月姫を手に入れることも叶わなくなる。
だからこそ、秀秋は時間を欲していた。
病を装い、審問を引き延ばす。
それだけではない。
栢谷典膳を通じ、石田三成へ「雷振筒紛失」という深刻な醜聞を突きつけ、政治的な脅しまで仕掛けた。
戦場の外で時間を稼ぎ、その時間が尽きる前に白雲城を落とす。
それが小早川家の目論見だった。
一方、内ヶ島側に必要なのもまた、時間である。
勝つ必要はない。
敵を壊滅させる必要もない。
ただ、耐えればいい。
攻撃を凌ぎ、城を守り、大老衆が仲介に入るまで戦を続ける。
そこまで持ちこたえれば、情勢は変わる。
だから政宗らは考えた。
白雲城から白川郷まで、およそ三里。
その道そのものを、一つの巨大な防衛線に変えてしまう。
最も大規模に手を加えたのが、堀だった。
白川郷の南、大牧村から荘川へ荒谷川が流れ込むあたりまで。
その河原に、無数の穴を掘った。
人の背丈ほどもある穴を縦横に穿ち、河原全体を膝下ほどまで掘り下げる。
そこへ川の水を引き込む。
完成したそれは、堀というより、巨大な浅い池だった。
水深そのものは大したことがない。
だが、所々に無数の穴が隠れている。
馬は足を取られ、人はまともに歩けない。
整然と並んだ堀ではない。
土を掘り返し、水を流しただけの、荒々しい造りである。
だが、敵を止めるという一点においては十分だった。
小田原城に築かれた障子堀。
その発想を借りたものだった。
池の幅は最大でも二百メートルほど。
しかし、長さは二キロを超える。
その先には、また山がある。
工事に与えられた時間は、わずか四ヶ月ほどだった。
普通ならば、とても間に合わない。
だが、内ヶ島には、金山採掘に鍛えられた金堀衆がいる。
硬い岩盤を掘り、鉱脈を追い、地下深くまで穴を穿ってきた男たちだ。
土を掘り返し、水を引く程度の仕事ならば、彼らにとってさほど難しいものではなかった。
こうして、白雲城へ続く道から、大軍が展開出来る平地が一つ、また一つと消えていった。
敵にとって戦いやすい場所を、意図的に潰していく。
白雲城までの三里そのものが、巨大な要塞へと姿を変えつつあった。
そして、その防衛線へ、ついに敵が姿を現した。
*
白川郷へ到着して五日。
可児才蔵は、砦の建設現場を見渡していた。
春の陽射しが、まだ雪の残る山肌を照らしている。
大勢の兵が黒鍬衆と共に土を掘り、材木を運び、杭を打つ。
掛け声と木槌の音が響き、少しずつ砦の輪郭が形になっていく。
当初はただの縄張に過ぎなかったものが、五日目にしてようやく「砦」と呼べる形を見せ始めていた。
本来の役目は、この砦を完成させること。
敵の妨害を退け、後続する大軍を迎え入れるための足場を築くことだった。
だが──。
妙だった。
五日間、何も起きない。
敵の姿もない。
矢も飛んでこない。
夜襲もない。
あまりにも静かだった。
才蔵は、こういう静けさを好まなかった。
戦場には、戦場なりの音がある。
怒号。
蹄の音。
武具の触れ合う音。
それらが何もない。
静かなのではない。
静かにされている。
才蔵はそう感じていた。
そして今日。
砦の建設に一応の目処が立った。
ならば、そろそろ敵の顔を拝んでおくべきだろう。
そう考えて、物見を出した。
一隊は十人ほど。
命じたのは、白雲城までの道を探ることだけだった。
敵を見つけても戦うな。
会敵したら、すぐに逃げろ。
それほど慎重な命令だった。
ところが──。
「物見が帰ってこないだと」
夕刻。
報告を受けた才蔵は、眉を寄せた。
「はっ。朝と昼に出た二隊が、どちらとも帰ってきておりません」
才蔵は返事をしなかった。
夕暮れが迫っている。
山の端へ傾いた陽が、砦の杭や掘り返された土を赤く染めていた。
風が吹く。
旗が鳴る。
それなのに、妙に寒い。
「……狩られたな」
ぽつりと呟いた。
周囲の者たちが息を呑む。
二隊とも帰ってこない。
偶然ではない。
敵は、この五日間、ただ黙っていたわけではなかった。
見ていたのだ。
こちらが砦を築く様を。
才蔵は横を向き、しばし考え込んだ。
「如何致しましょうか。明日にでも人数を増やして、もう一度物見を……」
「いや」
才蔵は短く遮った。
「敵は手ぐすねを引いて待っている。多少、人を増やしたところでどうにもなるまい」
「それでは、物見は……」
「ワシが一備を連れて行く」
「なっ……」
家臣の顔から血の気が引いた。
「あ、危のうございます! 殿に万が一のことがあれば……」
「なに」
才蔵は笑った。
いつもの、豪快な笑みだった。
「ちらと様子を見るだけよ」
そう言って、まだ工事の続く砦を振り返る。
土を掘る者。
杭を打つ者。
木材を運ぶ者。
誰もが目の前の仕事に追われている。
だが、そのすぐ先には、姿の見えない敵がいる。
才蔵には、それが妙に可笑しく思えた。
「そこで槍働きをしようとは思っておらぬ。敵の仕掛けを見たら、さっさと引き上げるさ」
そう言って、才蔵は豪快に笑い飛ばした。
だが、その笑顔の奥で、目だけは笑っていなかった。
敵は二隊の物見を帰さなかった。
つまり、すでにこちらの存在を完全に把握している。
こちらも、そろそろ敵の姿を見なければならない。
才蔵は馬上へ身を預けた。
夕闇が、山の向こうからゆっくりと押し寄せてくる。
その先に、何が待っているのか。
才蔵にはまだ分からない。
だが、戦は砦へ敵が押し寄せた時に始まるのではない。
敵が姿を見せるより遥か前から、互いの目と知恵をぶつけ合うところから始まっている。
そして今。
その戦いの最初の一手を、才蔵は自ら踏み出そうとしていた。
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