才蔵[2]
小早川家の大軍が金沢を発った。その報せが白雲城へ届いたのは、わずか二日後のことであった。
春はまだ訪れきっていない山奥の城塞。
残り雪が水滴となって屋根から落ち、朝夕には冷気が肌を刺す。山々にもまだ、白いものが残っていた。
そんな静かな城内に、一通の報せがもたらされた。
小早川軍出陣。
集結地は越中城端。
その文字を前に、政宗はしばし黙っていた。
情報を送ってきたのはもちろん眸海だ。
この忍は足軽に身をやつして小早川軍へ潜り込み、刻々と変化する軍の動きを白雲城へ送り続けている。黒脛巾衆随一の腕を持つと称される男だが、その真価は本人の技量だけにあるのではない。
眸海は、軍の内部に三十余名もの諜者を潜ませていた。
もともとは佐助が築き上げた諜報網である。
しかし、それをそのまま受け継いだわけではない。
足軽や黒鍬衆など、軍事の現場に立つ者たちに組織を広げた。
武将の周囲はもちろん、炊事をする者、荷駄を扱う者、馬の世話をする者、槍を担ぐ者。
軍勢の大部分を占める足軽たちの間へ網のように諜者を張り巡らせたのである。
その結果、白雲城には、敵軍の表向きの動きだけではなく、兵糧の集積状況や部隊の移動、将兵の噂話に至るまで、まるで軍中を覗き見るかのような情報が集まっていた。
敵はまだ山の彼方にいる。
それでも白雲城の者たちには、すでにその足音が聞こえているようなものだった。
政宗は眸海から届いた書状をゆっくりと読み進めた。
そして、ある一行に目を留める。
「先陣は二千で、大将は可児才蔵か」
低く呟いた。
その名を聞いた瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。
向かいに座っていた慶次郎が、面白そうに目を細める。
「さすがに主計頭は、戦の勘所を弁えている。先手に才蔵を持ってくるとはな」
政宗も書状から顔を上げた。
「無苦庵殿は奴をご存じか?」
「おや、知らんのか」
慶次郎は意外そうに眉を上げた。
「奴が初陣を飾ったのは前田の戦だ」
「ほぉ。才蔵が前田の家士だったとは知らなんだ」
「やたら目つきの悪い餓鬼だったのは覚えている。我が強うて周りと反りが合わんかったせいか、いつの間にか出奔とった」
昔を思い出したのか、慶次郎の口元に薄い笑みが浮かぶ。
可児才蔵。
その名が天下に知られるようになったのは、決して順風満帆な道を歩んだからではない。
「憎まれっ子なんとやらだな。まさか、ここまでの男になるとは、前田の者も思わなかったろう」
「然り、然り」
慶次郎は愉快そうに頷いた。
だが、その笑みが少しだけ翳る。
「しかし奴は主運に恵まれぬ男でな。仕えた家は、ことごとく滅んだ」
「言われてみると、確かにそうか」
政宗は苦笑した。
「ならば金吾も、縁起の悪い男を掴んだものよ」
「ははは。果たして奴の疫病神が、どこまで仕事をするか……これは見物だ」
慶次郎は笑った。
しかし、その目には笑いだけではない。
可児才蔵という男が、単なる猛将ではないことを知っている者の目だった。
この男は、これまで九度も主君を変えている。
明智光秀、柴田勝家、豊臣秀次、佐々成政……。
そして関ヶ原では福島正則。
慶次郎の言うとおり、確かに仕えた主君には恵まれなかった。
だが、主を変えるたびに、才蔵自身の武名だけは高まっていった。
とりわけ有名なのが、森長可に仕えて甲州征伐へ赴いた際の逸話である。
才蔵は戦場から戻ると、討ち取った三つの首を長可の前へ差し出した。
ところが、その口から出た言葉は、とんでもないものだった。
──十六の首を取った。
長可が怪訝な顔をすると、才蔵は平然と答えた。
首が多すぎたので、途中で捨てた。
ただし、取った首には笹の葉を噛ませておいた。
それが証だ──と。
あまりにも豪胆な逸話だ。
その話は瞬く間に広まり、やがて「笹の才蔵」という異名で呼ばれるようになる。
これはただの大言壮語と違う。
武将の首というものは、誰のものでも価値があるわけではない。
戦場で価値を持つのは、主として上級武士の首である。
そして、それを取るのは容易ではない。
敵陣深くに斬り込み、幾重もの護衛を突破しなければならないからだ。
百戦錬磨の武者でも、一度の合戦で挙げられる首級は一つか二つ。
ひとつも取れずに終わることも、決して珍しくない。
それを才蔵は十六も取った。
別の戦では、二十もの首級を挙げたともいう。
純粋な戦闘者として見れば、疑いようのない一級品だった。
だが、今の才蔵はもう若き日の才蔵ではない。
五十を過ぎ、幾多の戦場をくぐり抜け、主君を変え、時代の変転をその身で経験として積んできた。
一騎駆けを好む血気盛んな槍働きの男。
かつてならば、そう評しても間違いではなかった。
しかし、年月はその男から若さを奪った代わりに、戦を読む目を与えている。
猪武者ではない。
自ら槍を振るうだけの男でもない。
いつ、攻めるべきか。
いつ、退くべきか。
そして、いつ耐えるべきか。
それを知るところまで、才蔵は成熟していた。
慶次郎は、そのことをよく知っている。
だからこそ、先陣の大将に才蔵を置いた清正の判断に、感嘆を覚えたのだった。
「主計頭は、我らを甘くは見ておらぬな」
慶次郎がぽつりと言った。
政宗は再び書状へ目を落とす。
清正は、いきなり白雲城へ大軍を叩きつけるつもりではない。
まず敵領内へ入り、橋頭堡を築く。
白川郷に砦を構え、そこを足場として兵糧と兵力を送り込み、確実に戦線を押し上げていく。
その第一歩となる最前線。
才蔵に任されたのは、それの守備である。
敵の攻撃を受けながら、後続の大軍が到着するまで工事を守り抜く。
華々しく敵陣へ突撃するよりも、はるかに難しい仕事だった。
「最も危険な場所に、最も頼りになる男を置いたというわけか」
政宗が呟く。
「その通りじゃ」
慶次郎は頷いた。
「砦を築くとなれば、普通は相手も黙って見てはおらん。昼夜を問わず仕掛けてくるじゃろう。工事を守りながら、兵を損なわず、しかも後続の到着まで持ちこたえねばならん」
その言葉に、政宗は黙って頷いた。
なるほど。
清正は、最も危険な仕事を才蔵に託したのだ。
敵がどのような策を仕掛けてこようとも、才蔵ならば戦場でその場その場に適切な判断を下せる。
そして何より──。
武名がある。
敵はその名を聞けば警戒する。
味方の兵にとっては、それ以上に心強い。
将が武勇を示すことには、兵の心を支える力がある。
才蔵がそこにいる。
その事実だけで、二千の兵は容易には崩れまい。
慶次郎は、書状の文字を眺めながら、ふっと笑った。
「主計頭め……」
その声には、感心と警戒が入り混じっていた。
「なかなか、いやらしい手を打ってくる」
政宗もまた、口元に笑みを浮かべた。
敵軍二万。
その先頭に立つのは、笹の才蔵。
白雲城へ向かって伸びてくる長大な軍勢の、その最前列にいる二千が、まもなく飛騨の地へ踏み込む。
春の雪解けとともに、戦の季節が始まろうとしていた。
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