才蔵[1]
三月三日、大安吉日。
春の気配が、ようやく北陸の大地にも満ち始めていた。
つい先頃まで路傍を覆っていた雪はすっかり姿を消し、陽射しを受けた土からは、かすかな春の匂いが立ち上っている。梢では冬を越した鳥たちが忙しげにさえずり、金沢の町には、冬とは違う明るい空気が漂っていた。
その日の朝、金沢城下を埋め尽くしたのは、春の訪れを喜ぶ人々だけではなかった。
飛騨討伐軍が、ついに出陣する。
金沢は加賀の首邑であり、いまや天下有数の大都市へと発展を遂げている。普段から人と物が行き交い、城下は活気に満ちていた。
だが、これほどの大軍が町を練り歩く光景を見た者は、誰一人としていなかった。
先頭が町を抜けたかと思えば、その後ろから次々と兵が現れる。槍旗が連なり、馬蹄が大地を震わせ、鎧の擦れ合う音が波のように押し寄せてくる。
まるで果てがない。
街道の向こうまで続く隊列を見つめながら、人々は知らず知らずのうちに息を呑んだ。
「なんという数だ……」
「これが加賀様の軍勢か」
「いったい、どこまで続くんだ……」
誰もが口々に囁く。
総大将を務めるのは、加藤主計頭清正。
そして副将は、井伊兵部少輔直政。
ともに当代きっての名将であり、その名は天下に轟いている。
その両雄が金沢に居を構えて以来、初めての出陣であった。
人々は一目でもその姿を見ようと街道へ殺到した。
子供を肩車する者もいれば、家の戸口から身を乗り出す者もいる。商家の者たちまで仕事の手を止め、道端に立ち尽くしていた。
その軍が、どこで、誰を相手に戦うのか。
詳しいことなど、ほとんどの者は知らない。
ただ、目の前を通り過ぎてゆく兵たちの姿に、圧倒されていた。
磨き上げられた甲冑。
陽光を受けて輝く槍の穂先。
色鮮やかな旗指物。
整然と進む兵たちの足並み。
その一つ一つが、小早川家の威勢をそのまま形にしたかのようであった。
「すげえ……」
誰かが呟く。
それは恐れにも似ていたが、それ以上に憧れに近かった。
これほどの軍勢を持つ家に仕えれば、どれほどの景色を見ることができるのだろう。
そんな思いを抱いた者も、少なくなかったに違いない。
金沢を出た軍勢は二手に分かれた。
一方は二俣越へ。
もう一方は倶利伽羅峠を越え、北国街道を進む。
もっとも、討伐軍のすべてが金沢に集結していたわけではない。
領内各地から、それぞれの道を通って兵たちが集まってくる。
その総数、二万余。
小早川家にとって、まさに空前の動員であった。
だが、総大将を務める清正から見ると、この規模の兵数は手に負えぬものではない。
朝鮮征伐では第二陣の主将格として二万を超える兵を率い、はるか奥地のオランカイまで軍を進めた経験を持っている。
そうした過去を思えば、今回の飛騨攻めなど、清正にとっては庭先へ出ていくようなものだった。
とはいえ、決して気を緩めてはいなかった。
戦は兵の数だけで決まるものではない。
まして戦場は、山深い飛騨の地。
大軍は返って用兵の足枷になるかもしれない。
*
全軍の集結地点は、越中城端の善徳寺と定められた。
砺波平野の南端に位置するこの寺は、飛騨攻めにおける後方基地となる。
兵糧も武具も、ここへ集められる。
そして、ここから先は──いよいよ敵地である。
三月七日。
全軍の集結を待たず、飛騨攻めの第一陣二千が善徳寺を発った。
その先頭に立つ男を見て、清正は僅かに目を細めた。
可児吉長。
「笹の才蔵」の異名で知られる猛将である。
出陣を前にした両者は、しばし向かい合っていた。
「才蔵、くれぐれも血気に逸るでないぞ。お主が槍を振るうのは、儂が飛騨入りした後だ」
清正が念を押す。
その声音には、普段の豪放さとは違う慎重さが滲んでいた。
才蔵は一瞬、意外そうに眉を上げた。
そして、口元に笑みを浮かべる。
「ご安堵召されよ、御大将。これでも才蔵は、己の分を弁えておりますからな」
「関ヶ原と違って、今度は負けようのない戦だ。だが、それだけに初戦で躓くわけにはゆかん。それゆえ、お主に先手を任せるのだ。くれぐれも頼むぞ」
その言葉を聞いた才蔵の顔から、ふっと笑みが消えた。
関ヶ原。
その名が出れば、胸の奥に蘇るものがある。
才蔵は福島正則の将として闘い、惨敗を喫した。
しかし今度は、勝ちの決まった戦。
だからこそ、清正が自分に求めているものも理解できた。
勇猛さだけではない。
勝つために、己の槍を抑えること。
それもまた、武人の務めなのだ。
やがて才蔵は、いつもの豪快な笑みを浮かべた。
「委細承知。それにしても、天下の加藤主計頭に『血気に逸るな』と釘を刺されるとは思わなんだ」
そう言って、才蔵は腹の底から笑った。
清正も思わず口元を緩める。
だが、その目には笑いだけではない。
才蔵の武勇を誰よりも知っているからこそ、清正は慎重だった。
第一陣に課せられた役目は、敵と正面からぶつかることではない。
まずは白雲城攻めの橋頭堡を築くこと。
白川郷に砦を築き、後続する大軍を迎え入れるための足場を確保する。
当然、敵もそれを黙って見ているはずがない。
砦を築こうとする二千の兵を、敵は必ず妨害してくる。
手ぐすねを引いて待ち受ける敵を相手に、工事を守り抜かなければならない。
それは、槍を振るって敵陣へ突入する戦とは違う。
耐え、守り、機を待つ戦である。
本来ならば、才蔵の性には合わない。
だが──。
これまで幾多の戦場を駆け抜けてきた経験と、いざとなれば戦局を覆すほどの武勇。
未知の地で、未知の敵と戦うことになろうとも、それが役に立たぬはずがない。
清正はそう考えたからこそ、才蔵を第一陣の大将に選んだのである。
やがて、出発の合図が響いた。
違い笹の葉の旗指物が風を孕み、ゆっくりと翻る。
才蔵は馬上から振り返った。
その視線の先には、善徳寺に集結しつつある無数の軍勢がある。
そして、そのさらに向こう。
雪を残した山々が、春の空の下に連なっていた。
あの山の向こうに、飛騨がある。
白雲城がある。
才蔵は目を細めた。
胸の奥に、戦場へ赴く者だけが覚える熱が、静かに灯っていく。
「さて……今度は、どんな敵がおるのやら」
呟くと、才蔵は手綱を引いた。
馬が嘶き、二千の兵が一斉に動き始める。
飛騨攻めの先陣は、こうして山深い敵地へ向けて進み始めた。
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