使者[2]
白雲城の御対面所。
冬の名残を残す冷気が、障子の隙間から細く忍び込んでいた。庭にはまだ消え残った雪が白く残り、その上に朝の淡い光が落ちている。軒先からは、陽に温められた雪が雫となって滴り、静かな庭に小さな音を響かせていた。
その静寂の中、上段に座しているのは内ヶ島蔵人佐氏頼。
その下手には、玄舜坊こと伊達政宗と、無苦庵こと前田慶次郎が控えている。
三人とも口を閉ざし、正面に座る使者を見つめていた。
「左近様からの便りというのは、誠か」
「はっ。こちらが蔵人佐様に宛てた、我が家老筆頭からの書状にございます」
山田左衛門佐は漆塗りの文盆に乗せた一通の書状を差し出した。
白い息が、わずかに揺れる。
それを小姓が受け取ると、左衛門佐は深々と頭を下げた。
「うむ」
書状を手にした氏頼は、静かに封を切った。
紙が擦れる微かな音が、広間に響く。
氏頼の視線が、書状の上を走り始めた。
差出人は島左近。
だが、その背後にいる人物を考えれば、これが誰の意思によるものなのかは明白だった。
形式の上では、内ヶ島家は小早川家に属する家臣だ。
たとえ現在、主君と激しく反目しているとしても、主従関係そのものが消えたわけではない。
そのような家に、豊臣政権の大老である石田三成が直接書状を送ることは憚られる。
だからこそ、差出人には左近の名が記されていた。
しかし世間は、三成と左近は単なる主従ではないと知っている。
長きにわたり苦楽を共にし、互いの考えを誰よりも理解する二人。
その二人の間にある絆を知る者ならば、この書状をどう受け取るべきかなど、考えるまでもなかった。
──これは、三成からの親書だ。
氏頼の目が、一行、また一行と文章を追っていく。
「うん……」
低い呟きが漏れた。
「なるほど……」
読み進めるにつれ、険しかった氏頼の表情が少しずつ和らいでいく。
やがて、その口元に微かな笑みが浮かんだ。
それは、このところ氏頼がほとんど見せることのなかった表情だった。
読み終える。
氏頼はしばし書状を見つめていた。
まるで、そこに記された言葉をもう一度胸の中で噛みしめるように。
そして無言のまま、政宗へ書状を渡した。
「ほう……」
政宗が受け取り、目を通す。
そこに記されていたのは、内ヶ島家からの直訴を三成が真摯に受け止め、その解決のために力を尽くすという意思だった。
さらに、事態への介入について大老衆の意見も記されている。
当事者である小早川秀秋を除けば、右大臣である毛利輝元は難色を示している。
だが、左大臣の上杉景勝は賛意を示し、これまで中立の立場を取っていた宇喜多中納言も、こちらへ傾きつつあるという。
「間もなく、大坂から御勅使が送られるのですか……」
政宗の声に、わずかな驚きが滲んだ。
雪解けとともに、秀秋を召喚する勅使が金沢へ送られる。
勅使。
その言葉の重みを、そこにいる誰もが知っていた。
豊臣秀頼の名を背負った使者を、そう簡単に拒むことなどできない。
しかも、ただ召喚を告げるだけではない。
使者には典医まで同行し、秀秋の病状を直接診察したうえで、その判断を下すという。
周到な手配だった。
石田三成が動き、上杉景勝が賛同し、宇喜多秀家までこちらへ傾きつつある。
これほどの流れを作られては、毛利輝元といえど無視することはできない。
少なくとも、秀秋を大坂へ召喚することについては承諾した。
それは、氏頼たちにとって大きな一歩だった。
もっとも、三成たちも小早川家そのものを潰そうとしているわけではない。
むしろ、そこまでして小早川家を滅ぼす理由はなかった。
小早川家の家祖は、毛利輝元の叔父である小早川隆景。
毛利家にとっては、身内そのものなのだ。
小早川家が大名として存続するのであれば、その当主が秀秋であり続ける必要はない。
御殿育ちの貴公子であろうとも、戦国の世を生き抜いてきた輝元は、その程度の情に流されるほど甘くはなかった。
秀秋を守り抜くことと、小早川家を守ることは同義ではない。
その冷徹な政治判断こそが、今回の事態を動かす鍵となった。
「来月の頭にも、金沢から軍が出るそうだが……」
書状を覗き込んでいた慶次郎が、渋い顔で呟いた。
「それに間に合えば良いが……」
その言葉に、広間の空気が再び重くなる。
戦わずに済むなら、それに越したことはない。
白雲城には兵がいる。
戦う覚悟もある。
だが、二万対一千。城があっても戦力差が絶望的であることに変わりはない。
雪解けを待つ山道に血が流れ、内ヶ島の領民が守ってきた土地が戦火に包まれる。
できることなら、それは見たくはない。
だからこそ、大坂が口先だけではなく、実際に戦を止めるため動き始めていると知ったことに、胸を撫で下ろす思いがあった。
「勅使となれば、手続きも多く、今すぐというわけには参りませぬ」
山田左衛門佐が静かに口を開いた。
だが、その声音には揺るぎない確信があった。
「されど、我が殿を始め、多くの大名が蔵人佐様に心を寄せていることは間違いござりませぬ」
氏頼は黙って山田を見つめた。
その言葉が、胸の奥へゆっくりと染み込んでいく。
ここまで、長かった。
助けを求めても届かぬと思っていた声が、ようやく大坂へ届いた。
自分たちは決して孤立していたわけではなかった。
遠く離れた場所で、自分たちのために動いている者たちがいる。
そう思うだけで、張り詰めていた心の一角が、ほんの少しだけ緩んだ。
氏頼は深く頷いた。
「無事に御勅使が金沢へ下り、加賀大納言様が御召喚されるまで──」
一度、言葉を切る。
そして、居並ぶ者たちを見渡した。
窓の外では、残雪が陽射しを受けて輝いている。
冬は終わろうとしていた。
だが、春が来るまでの時間こそが、最も危うい。
「我らは、なんとしても持ち堪えて見せよう」
力強い声が、静かな御対面所に響いた。
「はっ!」
山田が頭を下げる。
政宗も慶次郎も、黙って頷いた。
まだ戦は終わっていない。
それでも──。
暗闇の中に、ようやく一筋の光が差す。
三人はその光を胸に刻むように、静かに顔を上げた。
春はもう、そこまで来ている。
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