千丸[5]
「二万……か」
「左様にございます。殿」
雪明かりの差し込む部屋で、慶次郎は氏頼に向かって静かに報告していた。
障子の向こうには、果てしなく白い山々が連なっている。
北陸から飛騨へ続く峠も、今は深い雪に閉ざされている。
「雪が溶けたら、攻めてくるのだな」
「まず、間違いなく」
氏頼は眉一つ動かさなかった。
二万。
その数字がどれほど途方もないものなのか、知らぬわけではない。
それでも氏頼は、ただ黙って慶次郎の言葉に耳を傾けていた。
「平馬はどうしている?」
「いまだ大坂にて周旋に走っております。ですが、まだ良き話は聞けておりませぬ」
大坂へ送った使者、川尻平馬は、内ヶ島の窮状を訴えて諸大名の間を奔走している。
小早川家の非道を訴え、何とか助勢を得ようとしているのだ。
大老の中でも石田、上杉は内ヶ島に同情を寄せ、協力もやぶさかではないという姿勢を示している。
だが、小早川家だけではない。
その背後にいる毛利家もまた、小早川家への懲罰には難色を示している。
政宗と慶次郎が望んでいるのは、必ずしも小早川への直接的な処罰ではなかった。
たとえそれが叶わずとも、大坂から調停が入ればいい。
それだけでも戦は止まり、話し合いが始められる。
だが、その望みすら、今は細い。
「余は采配を玄舜坊殿と慶次郎殿に預けた」
氏頼は静かに言った。
「戦ごとは、すべてお任せする」
「殿……」
「いざとなれば、この腹を切れば終わる話だ」
そう言って、氏頼は自分の腹を一撫でした。
そして、ほんの少しだけ笑った。
そこに諦めはなかった。
怯えもない。
死を恐れぬというより、守るべきもののためならば、己の命さえ惜しくないという覚悟だった。
非道には決して屈しない。
それが氏頼という男の信念だった。
だからこそ、政宗も慶次郎も、この主君に己の命を預けている。
少なくとも主君として見れば──小早川秀秋より、はるかに上だ。
「気が早うございますよ、殿」
慶次郎が苦笑した。
「我らが粘れば粘るほど、天はきっとお見捨てにはなりませぬ」
「そうだな……」
氏頼は窓の外へ目を向けた。
白い山々が、ただ静かにそこにある。
「それはそうと、例の準備はいかがした?」
「はっ」
慶次郎の表情から笑みが消えた。
「すべて抜かりなく手筈を整えておりますゆえ、ご安堵くだされ」
「うむ。しかと頼む」
「お任せを」
慶次郎が退室すると、部屋には静寂が戻った。
氏頼は一人、障子を開けた。
冷たい風が頬を撫でる。
白銀の山々が、朝の光を受けてまばゆく輝いていた。
飛騨は自分を生み育ててくれた土地。
父を奪い、一族を奪い、それでも自分を生かしてくれた土地。
そして、弓月がいる。
「弓月……」
幼い日の記憶が蘇る。
泥に汚れた小さな少女。
泣きながら、母の形見を抱き締めていた青い瞳。
あの日、千丸は幼い胸の内で誓った。
──そなたのことは、余がきっと守る。
あれから長い年月が過ぎた。
友となり、夫婦となった今も、その誓いだけは変わらない。
守るべきものがある。
そのためなら、何を失っても構わない。
領地も。
名も。
そして──この命さえも。
氏頼は拳を強く握り締めた。
冷たい風が、その拳の間をすり抜けていく。
白銀に閉ざされた飛騨の山々を見つめながら、氏頼はもう一度、胸の内で誓った。
──弓月は、余が守る。
幼き日に交わした約束を、命を懸けて果たす。
それが、内ヶ島蔵人佐氏頼という男の生きる理由だった。
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