千丸[4]
「お止めなさい! 桔梗殿!」
その時だった。
背後から、凛とした少年の声が響いた。
笑い声が止まる。
少女たちは一斉に振り返った。
そこに立っていたのは、千丸。
きちんと整えられた身なり。
背筋の伸びた立ち姿。
両親譲りの端正な顔立ちは、この館の少女たちにとって密かな羨望の的だった。
桔梗も、その例外ではない。
だからこそ、その千丸から厳しい眼差しを向けられた瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
「何を怒っておられるのですか、千丸様」
桔梗はすぐに表情を取り繕った。
「妾はただ、お庭の風紀を乱す者を叱っているだけですよ」
「その娘が、一体どんな風紀を乱したというのです」
「お庭に勝手に入ったのですよ。この白鬼が」
その言葉を聞いた瞬間、千丸の目が細くなった。
白鬼。
その呼び名が、目の前でうずくまる娘をどれほど傷つけているのか。
千丸には分からない。
だが、その呼び方は好きになれない。
「この庭に入るのに、桔梗殿の許しがいるのか?」
「え……?」
「それは、大殿様がお認めなされているのか?」
桔梗の顔が強張った。
大殿──金森長近。
その名を出されれば、話が変わる。
桔梗にとって長近は義理の祖父に当たる。
だが、決して何をしても許されるほど近しい存在ではない。
父、可重も兄たちも、長近と共に肥前名護屋へ出陣している。
その留守を預かるという自負が、いつしか自分の好きなように振る舞ってよいという思い込みへ変わっていた。
もし長近の許しもなく庭を「自分の庭」などと言い、弓月を追い出そうとしていたことが知られれば──。
「そ、それは……」
言葉が詰まる。
しかも、相手は千丸だ。
父も一族も失ったとはいえ、千丸は内ヶ島家の血を引く者。
長近はその少年を大切に養育している。
いずれ元服すれば、飛騨を支える重臣として取り立てられることも決まっていた。
何より──千丸は長近に可愛がられている。
その千丸から「桔梗が勝手なことをしていた」と伝われば、自分がどうなるか。
桔梗の胸に、初めて恐怖が生まれた。
「大殿様も、お館様もお留守だというのに、そのようなことをしてはなりませぬ」
「た、戯れですよ」
桔梗は慌てて笑った。
「ただの遊びです」
「ならば、その遊びはもう止めなされ」
千丸の声は静かだった。
だからこそ、逆らいにくかった。
「その髪留めも返しておやりなさい」
桔梗は手の中の銀の蝶を見る。
一瞬、握り締めたい衝動に駆られた。
だが、千丸の視線が自分に向いている。
ここで逆らえば、すべてが露見する。
「……分かりました」
不承不承、桔梗は髪留めを差し出した。
だが最後の意地なのか、手渡すことだけはしなかった。
ぽい、と地面へ放り投げる。
銀の蝶が泥の上を転がった。
弓月の胸が締め付けられる。
桔梗はその表情を見て、わずかに溜飲を下げた。
そして取り巻きたちを連れて、その場を去っていった。
庭に残されたのは、弓月と千丸だけだった。
しばらく、二人は口を開かなかった。
やがて千丸が屈み込み、地面に落ちた髪留めを拾い上げる。
泥を指先で丁寧に拭う。
小さな銀の蝶が、再び光を取り戻した。
「これは、そなたのものだろう」
差し出された手を、弓月は呆然と見つめた。
「あ……」
震える指で受け取る。
「ありがとうございます……」
「名はなんというのだ」
「弓月……でございます」
「弓月」
千丸はその名を、確かめるように繰り返した。
「そうか。そなたが姉小路様のご息女か」
弓月が小さく頷く。
「余は千丸。内ヶ島の千丸じゃ」
「千丸……」
初めて聞いた名前だった。
その名を口にすると、不思議と胸の奥の震えが少しだけ収まった。
「余とそなたは、飛騨の子だ」
千丸は笑った。
「知っているか? 余の父上と、そなたのお父上は、轡を並べた仲なのだ」
「そう……なの……?」
「ああ」
千丸は力強く頷いた。
そして、泥で汚れた弓月の姿を見つめる。
泣き腫らした青い瞳。
乱れた黄金色の髪。
その中で、母の形見だけが小さく光っている。
千丸は胸の奥に、奇妙な感情が湧くのを覚えた。
守らなければ。
なぜそう思ったのか、自分でも分からない。
ただ、目の前で泣いているこの少女を、もう一人にしてはいけないと思った。
「これからは、困ったことがあれば、何でも余に言うがいい」
千丸は、幼いながらも真剣な顔で言った。
「そなたのことは、余がきっと守る」
その言葉を聞いた瞬間、弓月の瞳からまた涙がこぼれた。
けれど、今度の涙は悲しみだけではなかった。
自分を守ってくれる人がいる。
そのことが、こんなにも心強いものなのだと、弓月は初めて知った。
この一件が縁となり、二人は知り合った。
そして、少しずつ言葉を交わすようになった。
それまで弓月にとって、心を開いて話せる相手はお関しかいなかった。
そんな彼女にとって、千丸は初めてできた「友達」だった。
やがて千丸は元服し、内ヶ島氏頼を名乗るようになる。
そして二人がともに十五になった年──弓月と氏頼は夫婦となった。
幼い日に交わした、あまりにも小さな約束。
──そなたのことは、余がきっと守る。
その言葉は、歳月を経ても消えることはなかった。
その後の二人がどれほど仲睦まじかったか。
お関はそれを誰よりもよく知っていた。
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