千丸[2]
「奥のお庭で、白鬼を見かけたわ」
「まあ、なんでそんな所に?」
「侍女と一緒に、花を摘んでいたみたい」
「いやだわ……。あそこのお庭は桔梗さまのお気に入りなのに」
「こんど見つけたら、うんと叱ってやりましょう」
ひそひそと交わされる声が、金森館の廊下の向こうへ消えていく。
天正二十年(一五九二年)。
朝鮮出兵が始まり、遠く海の向こうで戦の火が燃え始めた頃、高山の金森館では、まだなにも知らぬ少女たちが小さな争いに興じていた。
弓月、七歳。
母から受け継いだ透き通るような白い肌。
吸い込まれそうな青い瞳。
陽の光を受けると淡く輝く黄金色の髪。
この山深い飛騨の館において、それらはあまりにも異質だった。
珍しい、というだけならまだよかった。
だが、人は自分たちと異なるものを恐れる。
弓月の姿を遠巻きに眺める者たちは、いつしか彼女を「白鬼」と呼ぶようになった。
それはまだ、幼い少女には意味の分からぬ言葉だった。
けれど、向けられる視線の冷たさだけは、幼い弓月にも何となく分かっていた。
そして、その中でも特に執拗だったのが、弓月とお関が暮らす離れの隣に部屋を与えられていた、桔梗姫とその取り巻きたちであった。
「まあ、白鬼が奥のお庭に?」
「左様でございます、桔梗さま」
「……あそこは妾のお庭なのに」
桔梗は眉をひそめた。
金森長近の後継者、可重の娘。
この時、九歳。
幼いながらも気位が高く、何事にも厳格だった。
父も兄たちも、長近と共に肥前名護屋へ出陣している。
留守を預かる自分こそが、この館を守らなければならない。
それが桔梗の誇りであり、同時に自分へ課した役目でもあった。
だからこそ、館の中には守るべき秩序があると信じている。
誰がどこへ入ってよいのか。
誰が何を使ってよいのか。
それを決めるのは自分なのだ。
その「自分の領域」に、弓月は何度も入り込んでいた。
それが桔梗には我慢ならない。
「勝手にお花を摘んでいたそうでございますよ」
「まあ……」
「前にも庭へ来ないよう申したのに、ないがしろにして……」
桔梗の声が、わずかに低くなる。
自分の言いつけが無視された。
それが何より腹立たしかった。
「一度、こらしめてやる必要がありますね」
その言葉に、取り巻きの少女たちが顔を見合わせる。
「こらしめるとは……どうするのですか、桔梗さま?」
問いかけられ、桔梗は少し考えた。
弓月がいかに旧飛騨国主の血を引く者とはいえ、今の飛騨を治めているのは金森長近である。
そして、その長近自身が弓月を庇護している。
だから、露骨に手を上げることはできない。
もし父や兄に知られれば、自分の方が叱られる。
それでは面白くない。
桔梗はしばらく考えた末、ふと弓月の姿を思い浮かべた。
黄金色の髪。
その髪にいつも留められている、小さな銀色の飾り。
「あの白鬼が髪に付けている飾り……」
桔梗の唇に、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「あれを取り上げてしまうのはどうかしら?」
「ああ、あの銀色の」
少女の一人が、ぱっと顔を輝かせた。
「それはいいお考えですわ」
「でしょう?」
くすくすと笑い声が広がった。
弓月の髪飾り。
それは、彼女が母から受け継いだ、ただ一つの形見だった。
小さな蝶をかたどった銀細工。
長い年月を経て傷み、ところどころに細かな傷もついている。
決して高価な品ではない。
だが、弓月にとっては何物にも代え難い宝物だった。
母の顔を知らない弓月にとって、それは母が確かにこの世に存在したという証だった。
眠る前にはそっと手に取り、指先で傷をなぞる。
母の髪にも、同じように銀の蝶が輝いていたのだろうか。
そんなことを考えながら、まだ見ぬ母の姿を想像する。
お関から聞かされる、遠い異国からやってきた母の話。
その記憶を持たない弓月にとって、髪飾りだけが、母と自分を繋ぐ細い糸だった。
その大切なものが、今まさに少女たちの悪意の標的になろうとしている。
「明日にでも取り上げてしまいましょう」
「ええ。白鬼がどんな顔をするか、楽しみですわ」
少女たちは顔を寄せ合い、声を殺して笑った。
その顔には、これから誰かの心を深く傷つけるという自覚などない。
ただ、面白いことを思いついた子供の顔だった。
その頃、弓月は何も知らなかった。
いつものようにお関と過ごし、母の形見である銀の蝶を髪に留めていた。
明日もまた、それを身につけられると信じて。
幼い弓月にはまだ知る由もなかった。
自分が何より大切にしているその銀の蝶が、間もなく誰かの手によって奪われようとしていることを。
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