千丸[1]
弓月の夫、千丸こと内ヶ島蔵人佐氏頼。
その人生もまた、生まれ落ちた時から悲劇の影を背負っていた。
父の名は、内ヶ島兵庫頭氏理。
母の名は、佳。
佳は姉小路家に仕える女中だった。
当時、内ヶ島氏と姉小路氏は同盟関係にあり、氏理が姉小路秀綱の館へ逗留した折、佳と関係を持った。
やがて彼女は身籠もり、男児を産む。
我が子の誕生を知った氏理は、その子が自分の血を引くことを認め、名を与えた。
だが、それ以上のことはしなかった。
生まれたばかりの我が子を、父親が捨てたようにも見える。
しかし、この時の氏理には、そうせざるを得ない事情があった。
時は天正十三年(一五八五年)。
天下の情勢が大きく揺れ動いていた。
氏理は羽柴秀吉の侵攻を受けた佐々成政を救援するため、越中へ出陣していた。
しかし秀吉の手は、越中だけではなく飛騨にも伸びていた。
越中侵攻とほぼ時を同じくして始まった飛騨侵攻。
その指揮を執ったのが、金森長近であった。
戦の流れはあまりにも早かった。
氏理が越中で戦っている間に、飛騨では金森軍が勢力を広げ、ついには内ヶ島氏の居城、帰雲城を手中に収めた。
頼みとする城を奪われれば、領主として立つことができない。
氏理は降伏した。
そして同盟者であった姉小路秀綱は命を落とし、姉小路家は滅亡した。
高山の姉小路館に残された人々にも、容赦なく戦国の現実が襲いかかった。
金森長近は館に残された者たちを相応に処分する。
そこには生まれたばかりの千丸とその母、佳がいた。
長近は、新たな降伏者の落胤とその母を手に入れる。
その報せを聞いた氏理にとって、それは思いもよらぬ幸運だったのかもしれない。
いや──幸運という言葉だけでは足りない。
戦に敗れ、同盟者を失い、領地まで削られた氏理にとって、千丸は残された最後の命綱だった。
母子はそのまま長近のもとに置かれた。
意図しない形ではあったが、千丸には人質という役割が与えられる。
だが、それは同時に氏理の命を繋ぐものでもあった。
長近の元で無事に成長し、やがて元服する。
その日が来れば、彼は金森と内ヶ島を結ぶ、かけがえのない存在となるはず。
氏理は領地を失った。
同盟者も失った。
かつてのような独立した領主としての立場も失った。
それでも、長近の与力として生き残る道だけは残された。
その背後には、幼い千丸の存在があった。
皮肉な話である。
父に捨てられたように見えた幼子が、巡り巡って父の命を繋いでいたのだ。
しかし、内ヶ島には過酷な運命が待ち受けていた。
天正十三年十一月二十九日(一五八六年一月十八日)。
その夜、飛騨の大地が揺れた。
天地そのものが怒り狂ったかのような凄まじい地震だった。
山は崩れ、谷は裂け、巨大な土砂が濁流となって山間を押し流していく。
帰雲城もまた、その猛威から逃れることはできなかった。
城も、人も、家も、命も。
すべてが土砂の奔流に呑み込まれた。
内ヶ島氏理も、一族郎党も、その中にいた。
昨日までそこにあったはずの城が、一夜にして消えた。
人々の暮らしも、家臣たちの声も、内ヶ島家が積み重ねてきた歴史さえも、山津波はまとめて地中へと押し込んだ。
あまりにも突然だった。
戦ならば、敵がいる。
敗北ならば、まだ恨む相手もいる。
だが、この災厄には敵すらいなかった。
ただ大地そのものが、人間の営みを押し潰した。
こうして氏理は無念の死を遂げる。
内ヶ島家もまた、一夜にして滅亡した。
千丸は父を失った。
それだけではない。
自分が寄って立つはずだった一族そのものを、根こそぎ失ったのである。
もはや人質としての価値はない。
金森長近にとって、千丸を手元に置いておく理由など、どこにも残っていなかった。
戦国の世ならば、そこで幼子の運命が尽きても不思議ではなかった。
だが、長近は千丸を見捨てなかった。
人質としてではなく、これまでと変わらぬように養育した。
なぜそうしたのか。
長近には思惑があったが、その胸の内を千丸はまだ知らない。
ただ、生き延びた。
父を知らず、一族を知らず、自分が何者なのかすら理解できぬ幼子のまま、金森家の庇護のもとで成長していった。
戦に敗れた父。
滅びた一族。
大地に呑み込まれた故郷。
そして、それでも自分を生かしてくれた男。
千丸の人生には、生まれたその日から、幾重もの悲劇と皮肉が絡みついていた。
だが同時に彼は、幾度も命を拾われてもいたのである。
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