歩拍[3]
弓月は、生まれ落ちたその瞬間から、悲劇という宿命を背負っていた。
産声が姉小路の別邸に響いたその日、誰もが新たな命の誕生を祝い、未来を思い描いた。
しかし、その喜びは長くは続かなかった。
母、アナスタシアは出産後に産褥熱を患い、高熱に苦しみながら日に日に衰弱していく。そして、我が子を腕に抱く時間もわずかなまま、出産から十日余りで静かに息を引き取った。
異国の海を越え、見知らぬ国で懸命に生き抜いた一人の娘は、故郷の空を再び見ることなく、その短い生涯に幕を下ろしたのである。
さらに追い打ちをかけるように父、姉小路秀綱にも非情な運命が待っていた。
飛騨へ侵攻した金森長近との戦いに敗れ、秀綱は信濃を目指して落ち延びる。しかし、その道中で力尽き、一度も幼子の顔を見ることなく命を落とした。
こうして、生まれて間もない弓月は、父も母も知らぬまま天涯孤独となる。
それはあまりにも残酷な巡り合わせだった。
その身柄を引き取ったのは、父を討った当人でもある金森長近だった。
戦国の世にあって、敗れた主君の血筋が命を落とすことは決して珍しくない。むしろ、その方が自然ですらあった。
だが長近は幼い弓月を殺さなかった。
高山へ迎え入れ、姉小路家の血を引く者として相応の待遇を与え、その成長を見守る道を選んだ。
側室の子とはいえ、弓月はかつて飛騨国主であった姉小路家の血を受け継ぐ存在だ。
そのため粗略に扱われることはなく、不自由のない環境で育てられた。
もっとも、弓月自身には両親の記憶は一つもない。
彼女が知る父と母は、幼い頃から周囲の者たちが語り聞かせてくれた思い出の中だけに生きていた。
秀綱とアナスタシアが、どのような夫婦であったのか。
その真実を知る者は、もはやどこにもいない。
言葉はほとんど通じず、育った国も文化も異なる。
それでも館に仕えていた者たちは、二人が仲睦まじく暮らしていたと口を揃えた。
秀綱は佐々成政から託された異国の姫を、決して珍しい見世物のようには扱わなかった。
一つひとつ言葉を覚えようと努め、身振りや表情を頼りに思いを伝え合い、少しでも心の距離を縮めようと懸命だったという。
互いの言葉は届かなくとも、その誠実さだけは、確かに届いていたのだろう。
そんな話を聞くたび、成長した弓月は、一度も会ったことのない両親の面影を胸の内に思い描いていた。
そのアナスタシアと最も深く心を通わせたのが、侍女のお関である。
お関は、かつて摂関家に仕えた経験を持つ女性だ。
縁あって佐々家へ召し抱えられ、そのままアナスタシアに付き従って姉小路家へ入ったのである。
公家に長く仕えてきただけあって、礼儀作法はもちろん、和歌や書にも通じる高い教養を備え、物事を柔軟に考える聡明な女性だった。
言葉の壁は厚かった。
それでもお関は決して諦めない。
指差し、絵を描き、身振りを交え、表情を読み取り、毎日の暮らしの中で少しずつ互いの意思を確かめ合っていく。
失敗を重ね、そのたびに笑い合いながら、二人だけの小さな意思疎通の術を築き上げていった。
二年という歳月の中で、お関は誰よりもアナスタシアの心を理解する存在となり、異国で孤独を抱えていた彼女にとって、唯一無二の支えとなった。
そしてアナスタシアの死後、お関は今度は弓月へ寄り添う。
文字を教え、礼節を教え、人として生きる道を教えながら、幼子の成長を静かに見守り続けた。
弓月にとって、お関は単なる侍女ではない。
教師であり、導き手であり──そして、母の温もりを知らずに育った少女にとって、母親そのものであった。
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