歩拍[2]
天正十一年(一五八三年)、北風が肌を刺す九月のある日。
越中国放生津(現在の富山県射水市)の浜辺に、一隻の小舟がゆっくりと打ち寄せられた。
それは中国のジャンク船に搭載されるボート、舢板だった。
潮風にさらされ、屋根は裂け、船体は幾度も岩に打たれた傷跡を残している。浜で漁の支度をしていた者たちは手を止め、波間を漂う異国の船を無言で見つめた。
──明から流れ着いた船だ。
誰もがそう思った。
おそらく母船が時化に呑まれ、このボートだけが海流に乗って日本まで流されたのだろう。
こうした漂着は決して珍しい出来事ではない。
もっとも、浜へ流れ着くのは空船か、あるいは力尽きた水夫の亡骸ばかりで、生きた者が乗っていることなど滅多になかった。
だが、その船だけは違った。
船底に横たわっていたのは、一人の若い娘。
頬はやつれ、唇は乾き切り、今にも消え入りそうなほど浅い呼吸を繰り返している。
しかし、人々の目を奪ったのは、その衰弱した姿ではなかった。
陽光を浴びて鈍く輝く黄金色の髪。
澄み切った空を閉じ込めたような青い瞳。
明人とも南蛮人とも違う、誰一人見たことのない異国の面差しだった。
浜に集まった者たちは顔を見合わせ、息を呑む。
異人が流れ着くこと自体はあっても、このような娘は見たことがない。
言葉を失ったまま、ただ遠巻きに見守ることしかできなかった。
この一報は、放生津を治める神保氏張のもとへ急ぎ届けられ、やがて越中国主、佐々成政の耳にも入った。
娘の名は、アナスタシア。
しかし、それ以外のことは何一つ分からなかった。
彼女は明語を話すことも、漢字の読み書きもできず、日本側もまた彼女の言葉を理解できない。
互いに必死に身振り手振りを交えても、思いはほとんど通じなかった。
成政も幾度か対面したが、その青い瞳に浮かぶ怯えと疲労を見るたび、問いを重ねることをためらった。
それでも一つだけ確かなことがあった。
彼女は密使でも間者でもない。
政治の思惑に翻弄された人物ではなく、すべてを海へ奪われ、この国へ流れ着いた一人の漂流者だということだけは、誰の目にも明らかだった。
もっとも、その頃の成政に一人の漂流者へ心を砕く余裕はなかった。
この年の四月、羽柴秀吉と柴田勝家が激突した賤ヶ岳の戦いは、勝家の敗北によって幕を閉じた。
北ノ庄で勝家は自刃し、柴田家は滅亡。
勝家方の有力武将だった成政もまた秀吉へ降り、ようやく越中一国の安堵を得たばかりだった。
新たな主君との関係を築き、揺らぐ領国を立て直し、家中をまとめ上げる。
山のような政務に追われる日々の中で、身元も素性も知れぬ異国の娘へ割ける時間など、残されてはいなかった。
やがて成政は、政治工作の一環として、友好関係にあった飛騨国主、姉小路秀綱へアナスタシアを譲ることを決めた。
秀綱は初めて彼女と対面した瞬間、その神秘的な美貌に目を奪われた。
言葉は通じない。
互いの過去も、生まれ育った国も分からない。
それでも秀綱は彼女を側室として迎え入れた。
異国の地で寄る辺を失ったアナスタシアにとって、それは自ら選んだ運命ではなかった。
しかし、生き延びるためには、その運命を受け入れるほかなかった。
そして二年後。
飛騨の山々に抱かれた城で、一人の女児が産声を上げる。
母は異国から流れ着いたアナスタシア。
父は飛騨国主、姉小路秀綱。
その子の名は──弓月。
数奇な運命に翻弄された一人の娘の漂着は、この地に新たな血脈を刻み、やがて飛騨の歴史を大きく揺るがす存在を生み出すことになるのであった。
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