初雪[4]
加藤清正は、関ヶ原の戦いそのものには参陣していない。
だが、無関係ではなかった。
その因縁は、戦場ではなく、豊臣秀吉の在世中にまで遡る。
秀吉の天下が広がるにつれ、豊臣家中には大きく二つの勢力が形成されていった。
一つは、秀吉の故郷、尾張を地盤とする武将たち──尾張衆。
福島正則や加藤清正らに代表される彼らは、数々の戦場で武功を重ねてきた猛将ぞろいであり、その気質から武断派とも呼ばれた。
もう一つは、秀吉が初めて大名となった近江長浜で召し抱えた家臣たち──近江衆。
石田三成を筆頭に、政務や財政、兵站に長けた者が多く、こちらは文治派として知られている。
戦で国を広げた武断派。
政で国を治めた文治派。
豊臣政権は、その二つの車輪によって支えられていた。
だが、車輪はやがて互いを軋ませ始める。
天下統一が進むにつれて戦場は減り、政務の重要性は増した。
官僚機構を握る近江衆の発言力は日に日に強まり、それとは対照的に、戦が消えてしまった尾張衆は次第に居場所を失っていく。
その鬱屈は、やがて石田三成という一人の男へ向けられた。
尾張衆を代表する加藤清正。
近江衆を率いる石田三成。
二人は豊臣家を支える両輪でありながら、互いに相容れぬ政敵だった。
そして、その亀裂を最も巧みに利用した男こそ、徳川家康である。
家康は尾張衆の不満を巧みに煽り立て、ついには三成を襲撃させた。
世にいう『七将襲撃事件』。
襲撃に加わったのは、加藤清正、福島正則、黒田長政、長岡忠興、浅野幸長、加藤嘉明、池田輝政の七名。
その一件によって三成は中央政界から退き、家康は尾張衆に対して巨大な恩を売ることに成功した。
その時から、運命の歯車は静かに回り始めていたのである。
そして迎えた関ヶ原。
清正だけは参戦しなかったものの、他の六名は家康の旗下として西軍と刃を交えた。
しかし、その末路はあまりにも苛烈だった。
福島正則は戦場に散り、黒田長政は高野山へ流される。
加藤嘉明は戦傷がもとで世を去り、浅野幸長と池田輝政は切腹。
長岡忠興は出家し、家はことごとく断絶した。
家康に利用されたとはいえ、自らを失脚へ追い込み、政権を危うくした尾張衆に対する三成の怒りは、それほど深刻だった。
清正もまた、その怒りから逃れることはできない。
関ヶ原には姿を見せなかったものの、熊本で兵を挙げると、家康に呼応するように西軍方の小西行長が守る宇土城を攻略し、小西領を制圧していた。
その行動は、紛れもなく大坂方への敵対行為である。
当然ながら処罰は避けられず、巷では「清正も切腹になる」との噂が飛び交った。
結果として命だけは助かった。
しかし、それは決して赦されたことを意味しない。
肥後二十五万石は没収され、清正は浪人へと転落する。
命が残った理由は明白だった。
秀吉とは又従兄弟にあたり、秀頼とも血縁に近い立場であったこと。
そして何より、北政所が繰り返し助命を願い出たことである。
だからこそ首は繋がった。
だが武将、加藤清正は、その日をもって死んだも同然だった。
井伊直政もまた、似た運命を辿る。
高崎十二万石は没収され、徳川家臣としての地位も失った。
栄華を極めた二人は、一夜にして主君も領地も失った浪人となったのである。
そんな二人へ手を差し伸べたのが、小早川秀秋だった。
関ヶ原での大功により九十八万石の大封を得た秀秋にとって、急務は家臣団の整備である。
名声も実績も兼ね備えた清正と直政ほど、旗印に相応しい人材はいなかった。
三成は当初、この登用に強く難色を示した。
無理もない。
自らを窮地へ追いやった尾張衆の頭目と、徳川軍の総大将格を家臣に迎えるなど、感情的にも政情の安定からも許せるはずがなかった。
しかし、毛利輝元の仲裁によって話はまとまり、最終的に秀秋の意向が通された。
すべてを失った二人にとって、その手はまさに溺れる者へ差し伸べられた一本の綱だった。
そして、その報せは瞬く間に天下へ広がる。
直政を慕う徳川旧臣たち。
清正の旗を再び仰ごうとする肥後の旧臣たち。
さらには仕官先を失った浪人たちまでもが金沢へ集まり、その数はやがて二万にまで膨れ上がった。
直政のもとには阿部正次、奥平信昌、伊奈忠次、渡辺守綱、生駒利豊ら徳川家の名だたる武将が顔を揃えた。
清正のもとにも飯田直景、森本一久、庄林一心ら、諸国にまで勇名を轟かせた剛の者たちが次々と参じる。
彼らは皆、かつての主を信じ、再びその旗の下で生きる道を選んだ者たちだった。
だからこそ──。
今の清正と直政は、自分一人の身ではなかった。
二人の双肩には、およそ二万の兵と、その家族の暮らしが重くのしかかっている。
主命が理不尽であろうと、逆らうという選択肢はない。
雪は静かに降り続け、金沢の町を音もなく白く染め上げていく。
その景色はどこまでも清らかで、美しかった。
だが、その白さとは裏腹に、二人の胸中には鉛のように重い苦悩が澱み、晴れることのない黒雲のように広がっていた。
火鉢のぬくもりも、その冷え切った心までは温められない。
互いに言葉を失ったまま俯く二人の眉間に深く刻まれた皺だけが、これから待ち受ける過酷な運命を物語っていた。
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