初雪[3]
関ヶ原の戦いにおいて、井伊直政は本多忠勝とともに軍監を務め、江戸方全軍を統率する重責を担っていた。
戦場のほぼ中央。
幾千もの旗指物が風にはためき、法螺貝と鬨の声が大地を揺るがす中、直政は愛馬の上から絶えず戦況へ目を配っていた。
赤備えの兵たちは炎のように敵陣へ食らいつき、その先頭に立つ直政自身も槍を振るって宇喜多秀家軍と激しく刃を交えていた。福島正則ら諸将も懸命に奮戦し、一進一退の攻防が続く。
勝敗は、まだどちらへも転び得る。
少なくとも、その時までは誰もそう信じていた。
しかし、その均衡を打ち砕いたのは、龍仙寺衆の参戦だった。
まるで堤が決壊するかのように戦線が崩れていく。
石田三成と対峙していた黒田長政、長岡忠興、加藤嘉明らの軍勢が、次々と押し潰されていったのである。
敗走する兵が濁流のように押し寄せ、土煙の向こうから悲鳴が絶え間なく響く。
気づけば、直政たちの軍の側面はぽっかりと口を開けていた。
「踏みとどまれ! ここを破らせるな!」
怒号を張り上げながら、直政はなおも槍を振るい続けた。
福島正則もまた鬼神のごとき勢いで兵を鼓舞し、崩れゆく戦列を必死に支えようとする。
誰もが、この場だけは死守せねばならぬと歯を食いしばっていた。
だが、戦の流れはあまりにも非情だった。
反対側から、小早川秀秋、大谷吉継の軍勢が怒濤のごとく迫る。
正面では宇喜多軍。
左右からは龍仙寺衆と西軍諸隊。
四方を敵に囲まれ、包囲の輪は刻一刻と狭まっていく。
その瞬間、直政は悟った。
──これでは勝てぬ!
武将として幾度となく修羅場を潜ってきた彼だからこそ、勝敗が決した瞬間を誰よりも正確に理解してしまった。
それでも退く命令は容易には出せない。
一歩退けば総崩れになる。
しかし退かなければ、ここで全滅する。
断腸の思いで退却を命じたその頃には、江戸方全軍は雪崩を打つように崩壊していた。
戦場には味方の旗が次々と倒れ、怒号は断末魔へと変わる。
松平忠吉──。
家康の四男であり、自らの娘婿でもある若武者は、その混乱の中で命を落とした。
長年苦楽をともにした家臣たちも、一人、また一人と戦場に散っていく。
振り返るたびに見慣れた旗が消え、名を呼ぶ声も次第に聞こえなくなる。
胸を締めつける悔恨を押し殺しながら、直政は辛うじて包囲網を突破し、戦場を離脱した。
生き延びたという安堵など、微塵もなかった。
そこにあったのは、自分だけが生き残ってしまったという重苦しい痛みだけ。
その後、各地に散った徳川方の敗残兵を集めながら江戸へ帰還した。
徳川家はまだ終わってはいない。
秀忠さえ健在ならば、必ず再起の機会はある。
その一念だけを支えに、直政は傷ついた兵を励まし、武具を集め、再戦の準備を進めていた。
だが、その最後の希望すら無情に打ち砕かれる。
徳川秀忠捕縛。
そして、徳川家全面降伏。
その報せが江戸へ届いた日、直政はしばらく一言も発することができなかった。
胸の奥で燃え続けていた復讐の炎は、一瞬にして冷たい灰へと変わる。
もはや刀を振るう理由も、兵を集める意味も失われた。
静かに目を閉じた直政は、長く息を吐くと、何も言わず江戸を後にした。
向かう先は自らの手で築いた居城、高崎城。
そこは勝者として帰る城ではなく、敗将として裁きを待つための檻となった。
入城の日は、風は冷たく、灰色の空からは今にも秋雨が降り出しそうだったという。
その空模様は、栄華も誇りも主君も、なにもかも失った直政の胸中を映し出しているかのようであった。
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