破境[4]
案内されたのは、加賀大学から南東へ車で二十分ほど走った先にある湯涌温泉だった。
山あいに抱かれるように広がる温泉街は、金沢市街とは空気そのものが違う。夕暮れの湿り気を含んだ風が木々を揺らし、遠くからは川のせせらぎが微かに聞こえてくる。舗装された道の脇には古い旅館が軒を連ね、軒先の提灯が淡い橙色の光を落としていた。
金沢の奥座敷。
そう呼ばれる理由が、来てみるとよく分かる。
街の喧騒から切り離されたこの場所には、時間の流れそのものがゆるやかだった。
タクシーが一際大きな門の前で止まる。
黒塗りの木門。手入れの行き届いた庭。石畳の先に見える重厚な木造建築。旅館というより、どこか旧家の屋敷めいた風格がある。
「すごぉーい!!」
車を降りた瞬間、日菜が子どものように声を上げた。
その反応も無理はない。
玄関先に立つ仲居たちの所作一つとっても洗練されていて、漂う空気からして別格だった。磨き込まれた柱には長い年月の艶が宿り、庭に植えられた松は一枝一枝まで丁寧に整えられている。
拓真は思わず苦笑しながら、隣の樫本教授に視線を向けた。
「いいんですか、こんなにしてもらっちゃって」
「もちろんですよ。どうか、実家に帰ってきたと思って、くつろいでください」
さらりと言ってのけるあたり、本当にこの空間が日常なのだろう。
案内されたのは本館ではなく、庭の奥に建つ離れだった。
石灯籠の並ぶ飛び石を渡り、小さな木戸を抜けた先に現れたのは、一戸建ての特別室。古民家を移築改装した建物らしく、太い梁と黒光りする柱が歴史を感じさせる。
引き戸を開けた瞬間、畳と檜の香りがふわりと広がった。
窓の向こうには手入れの行き届いた庭園。水を張った石鉢に灯りが映り込み、竹垣の向こうで木々が静かに揺れている。
どう考えても、一泊数十万は下らない部屋だった。
「二階建てなんで、一階の奥座敷には工藤先生、二階の洋室は垣屋さんが使ってください」
「ご丁寧にありがとうございます」
頭を下げながら、拓真は妙に納得していた。
樫本教授の纏う上品さ。柔らかな口調。人当たりの良さ。それらは育ちの良さから自然と滲み出たものなのだろう。
老舗旅館の勉強好きの坊ちゃんが、そのまま大学教授になった。
そんな印象だった。
荷物を置き、一息ついた頃には、すでに夕暮れが山の向こうへ沈みかけていた。
夕食は離れ専用の座敷に運ばれてきた。加賀野菜を使った前菜、艶やかな刺身、香ばしく焼かれた喉黒。湯気の立つ椀物からは出汁の香りが立ち昇り、目の前に並ぶ料理だけで、この旅館の格を思い知らされる。
「あの雷振筒、いくらくらいの価値になりますかね?」
酒を注ぎながら、樫本教授が興奮を隠しきれない声で尋ねてくる。
「さあ? 売りに出されている雷振筒はありますけど、欠損品でも数千万ですから。ひょっとしたら億単位になるかもしれませんね」
「うわっ! すごい。でも、県の所有になるんで仕方ないですね」
「いずれ博物館に所蔵される形ですか?」
「発見のニュースが出た時に文化庁から問い合わせがあったんですよ。本物だったら重文に指定するかもって」
「随分気が早い話ですね」
「でも、工藤先生が本物って鑑定してくださったんで、間違いなく文化財コースですよ」
樫本の顔は、酒も入ってますます上機嫌だった。
対して拓真は、笑顔を返しながらも、どこか気持ちが沈んでいる。
あの六挺。
製造番号。
山中村に送ったはずの最後のロット。
考えれば考えるほど、胸の奥に小さな棘が刺さる。
歴史が噛み合っていない。
その違和感だけが、酒を飲んでも消えなかった。
それでも話は尽きない。
歴史談義、城郭研究、文化財行政──樫本教授は本当に楽しそうに語り続ける。
だが、その向かいで。
日菜だけが、露骨につまらなさそうな顔をしていた。
頬杖をつき、時折酒を飲みながら、じっと二人の会話を聞いている。相槌は打つが、どこか不満げだ。
やがて時間も遅くなり、樫本教授が名残惜しそうに立ち上がった。
「じゃあそろそろ私帰りますね」
「あ、そうですか。こちらにお泊まりじゃ無いんですか?」
「いや、今夜はかみさんが夜勤なんで、子供達の朝飯を作らないといけないんです」
そう言って笑う顔は、大学教授というより完全に父親だった。
去っていく背中を見送り、静けさが戻る。
庭からは虫の音。
障子越しに揺れる灯り。
酒の熱と温泉地特有の湿った空気が、身体をゆるやかに包んでいた。
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