破境[3]
「いやー、高名な工藤先生にお越しいただけて光栄です」
「そんな、こちらこそお招きいただいてありがとうございます」
柔らかな物腰とともに差し出された手は、よく手入れされていて、指先まで神経が行き届いているのが分かる。加賀大学の研究室は、外の湿気とは対照的に空調が効き、紙とインクの匂いが静かに沈殿していた。窓の外には、初夏の光に洗われた木々が揺れている。
樫本教授は四十代後半。整えられた顎髭と口髭、四角い黒縁の眼鏡の奥にある穏やかな目が、どこか少年めいた好奇心を隠しきれていない。日本史研究一筋──その言葉が、そのまま形になったような人物だった。
「いや~、ボクは山崎教授の教え子でね。龍仙寺衆のことは前々から関心はあったんですよ。ただ、金沢との接点が少ないんで、あまり研究はしてこなかったんですが……」
言葉と同時に、机の上に資料が積み上がっていく。写真、図面、測量記録。紙の擦れる音が、妙に軽やかだ。
「まさか鼠多門から雷振筒が出てくるなんて、想像もしていませんでしたよ」
その一言に、拓真の胸の奥がかすかに反応する。
「それは、どんな環境で保存されていたんですか?」
努めて平静を装いながら問い返すと、樫本は嬉しそうに頷いた。
「ああ、そこの写真、それと図面があるでしょ。鼠多門の脇の石垣に不自然な箇所があって、最初は修繕跡かと思ったんですが、どうも違ったみたいで……」
示された写真には、苔むした石垣の一角が写っている。わずかに色味の違う石。人の手が入った痕跡。そこに隠されていた空間──二間四方、八畳ほどの石室。
槍や弓、盾、鎧。
そして、その中に置かれていた木箱。
戦の気配を封じ込めたような、閉ざされた空間が脳裏に浮かぶ。
「見つけた時はただの火縄銃かと思ったんですけどね。開けてみて驚きましたよ」
樫本の声は弾んでいる。
だが、その軽やかさとは裏腹に、拓真の内側では何かが静かに沈んでいく。
「それで、現物はどこにありますか?」
「ああ……この先にある会議室に広げています」
案内されるままに廊下を歩く。足音がやけに大きく響く気がした。白い壁、磨かれた床、そのすべてが妙に現実感を持って迫ってくる。
扉を開けた瞬間、空気が変わった。
机の上に並べられた六挺の雷振筒と、その傍らに置かれた木箱。
それを視界に収めた瞬間、拓真の呼吸がわずかに浅くなる。
「直接見てもいいですか?」
白手袋をはめながら問うと、樫本は無言で頷き、手で示した。
近づく。
手に取る。
金属の冷たさが、手袋越しにもはっきりと伝わってきた。
「これは……」
言葉が、自然と漏れる。
指が覚えている。重みも、バランスも、構造も。
観察しながら分解していくたびに、内部構造が露わになっていく。油に守られた機構は驚くほど滑らかで、まるで時間だけがそこを避けて通ったかのようだ。
軋みもない。
引っかかりもない。
まるで、昨日作られたばかりのように。
油紙と石室。外気から遮断された環境が、奇跡的な保存状態を生んだのだろう。
だが、それ以上に。
この完成度は、紛れもなく「あの時」のものだ。
すべてのパーツを分解し終えたとき、拓真は大きく息を吐いた。
「間違いない……真品ですよ、これは」
「本当ですか!? 贋作じゃなくて?」
「全パーツがオリジナルのままで、しかも未使用品です」
「うわっ!! 本物のお宝だ!!」
樫本の声が弾ける。
だがその歓喜は、どこか遠くに聞こえた。
未使用。
その事実が、逆に重くのしかかる。
使われなかった銃。
撃たれなかった弾。
奪われなかった命。
それなのに、ここにある。
「それにしても……なんでこんな物が金沢に……」
自分でも気づかぬうちに、呟いていた。
視線を落とし、一本ずつ確認する。
刻まれた製造番号。
五八三~五八八。
胸の奥が、鈍く締め付けられる。
──これは、お賀津が山中村に送った最後の便に入っていた雷振筒……。
記憶が鮮明に蘇る。
あのときの判断。あのときの指示。
確かに、自分はそれを送り出した。
だが、その行き先は──。
思考が、そこで止まる。
辻褄が合わない。
どうしてここにある。
なぜ、この場所に辿り着いている。
「工藤先生、どうしたんですか? 随分顔色が悪いみたいですけど……」
覗き込む日菜の顔が、少しだけ滲んで見えた。
「……大丈夫」
短く答える。
だが、その声は自分でも分かるほど乾いていた。
頭の中で、これまでの史料が次々に浮かび上がる。
石田家から外に出た雷振筒の記録。六挺単位で動いたのは、豊臣秀頼への献上品だけ。それは今も大阪の国立博物館にある。
それ以外は、二挺単位。
小早川家にも確かに渡っている。
だが、二挺。
この六挺とは合わない。
しかも、こんな場所に──防衛拠点の隠し部屋に。
本来なら、主君の傍か、本丸の宝物庫に保管されるべきものだ。
ここにある理由が、どこにも見当たらない。
「いやぁ~、まさかこんなに早く真品だと鑑定してもらえるなんて、夢みたいですよ。あまりにも綺麗なんで、炭素測定にかけようと思ってましたから」
樫本の声は相変わらず弾んでいる。
その明るさが、かえって現実との距離を感じさせた。
「信じられないほどの美品ですけど、これはどこに鑑定を出しても本物と言われるはずです。何よりその箱……」
そう言って、拓真は木箱を指差す。
乾いた木肌。角の擦れ具合。金具の形状。
「あれは龍仙寺で作った雷振筒運搬用の箱で間違いありません。佐和山歴史資料館と、大垣の関ヶ原戦国館にも同じ箱が収蔵されています。現存する二つと比較しても、まったく同一のものだと思います」
「そうなんですか! 助かります! 工藤先生にそこまで太鼓判を押していただけたら、間違いないですね!」
樫本の顔は、もはや隠しきれないほどの高揚に満ちていた。今にもその場で跳ね出しそうな勢いだ。
だが拓真の内側は、逆に沈み込んでいく。
これは「発見」ではない。
「齟齬」だ。
歴史のどこかが、決定的に噛み合っていない。
「ありがとうございます。そこまでわかりましたら……今日はもうお疲れでしょうし、宿泊先にご案内します。といっても私の実家なんですけどね。金沢でも老舗の旅館なんです」
その言葉に、拓真はかろうじて頷いた。
思考はまだ、石室の中に取り残されたままだった。
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