破境[5]
拓真がようやく一息ついて料理に箸を伸ばしたときだった。
向かいの日菜が、じっとこちらを見ていることに気づく。
「ど、どうしたの?」
「いえ、樫本教授が帰られて寂しくなりましたね」
「仕方ないよね。まだお子さんたち小さいみたいだし。下の子、小学三年生だって言ってたかな?」
「なんか私だけでスイマセン」
「えっ、どうしてそんなこと言うの?」
「私じゃあまり先生のお話相手になれないかなって……」
その声は、いつもの日菜らしくなかった。
酒のせいだろうか。
頬がほんのり赤く染まり、言葉の端に感情が滲んでいる。
「えー、そんなことないよ。全然」
「そもそもなんで今回の出張、私を連れてきたんですか?」
「それは……山崎教授の推薦もあったし。そうだ、垣屋さんの実家にも雷振筒あったんでしょ?」
「そんなの、お爺ちゃんが県に寄贈しちゃったんで、現物は資料館でしか見たこと無いですよ」
「そっか……個人で持ってると色々面倒だもんね」
「大体先生が居れば雷振筒の鑑定なんて完璧に出来るじゃないですか。私がやることなんて何にも無くて……」
拓真は少し戸惑った。
日菜が、こんなふうに弱音めいたことを口にするのは珍しい。
普段は明るく、研究熱心で、どこか勝ち気ですらある彼女が。
「先生、私の価値って、垣屋勘兵衛の子孫ってことだけですか? それ以外の価値はないんですか?」
「そ、そんなことないよ。垣屋さんは研究熱心で、龍仙寺衆については知識も豊富だし」
「でも先生には全然叶わない! 私、小学校の頃から一生懸命調べてきたんですよ!」
「小学校……」
「子どもの頃は保育園の先生になりたかったんです。凄い優しくて綺麗な先生が居て、憧れていて……」
言葉が止まらなくなっていく。
拓真は面食らいながらも耳を傾けた。
こんなふうに感情をむき出しにする日菜を見るのは初めてだった。
「小五の時に地元の歴史を調べる授業があって、そこで初めて読んだんです」
「読んだって何を?」
「石田三成の伝記です……そこで出会ったんですよ」
「出会った?」
「工藤広真です! ひ・ろ・ざ・ね!」
酔っている。
確実に。
だがその目は、不思議なくらい真っ直ぐだった。
まるで長年追い続けた憧れを語る少女のように。
「そこから龍仙寺衆を調べるようになって、お父さんに聞いたら私のご先祖様って垣屋元綱だって言うじゃないですか! もうこれは運命だって思って!」
「運命!?」
「そしたら何なんですか工藤先生! 突然私の前に現れて!」
「えっ、えっ?」
「私なんかより全然龍仙寺衆のこと知ってて、工藤広真についてもメチャクチャ詳しくて、それなのに記憶喪失って、そんなのあり得ないでしょ!!」
拓真は固まる。
心臓が、嫌な音を立てた。
図星だった。
だが、それを言葉に出来るはずもない。
沈黙の中、日菜はお猪口を空にすると、勢いよく立ち上がった。
「寝ます!」
襖を開け、そのまま奥座敷へ消えていく。
「そ、そこは俺の寝床……」
返事はない。
取り付く島もなかった。
(まあ、俺が二階で寝ればいいか……)
苦笑しながら酒を注ぎ直そうとした、そのとき。
スマホが震えた。
「も、もしもし」
『スイマセン……さっきは変なこと言ってしまって……』
日菜だった。
襖越しに、微かに肉声まで聞こえてくる。
「大丈夫だよ。疲れてるんだよ、きっと」
『疲れてなんかいないです。私、ずっと先生に言いたかったんです』
「言いたかったって何を?」
『私が話をしようとすると、先生はいっつも目をそらして、私を見てくれないから』
その瞬間。
胸の奥を鋭く突かれた。
日菜は、佐名に似ている。
顔立ちだけではない。
笑う仕草も、怒ったときの目も、ふとした表情の陰りも。
彼女を見るたび、失ったはずの面影が蘇る。
だからこそ、まともに見られなかった。
見れば見るほど、胸が痛むから。
「そ、そうかもしれない……ゴメン」
『私は、先生にとってそんなに見たくない存在なんですか』
「そんなことはないよ! 絶対に無い!」
『じゃあどうして私のことを見てくれないんですか?』
「……そんなこと……」
『私は、先生のことが好きなんです。どうしようもないくらい』
時間が止まった。
呼吸が、完全に止まった気がした。
「か、垣屋さん……」
『でも先生、先生は何か隠しているでしょ。私にも、誰にも言ってない秘密』
秘密。
確かにある。
だが、それはあまりにも現実離れしている。
自分が工藤広真本人だなどと。
歴史を変えた張本人だなどと。
そんな話、普通なら狂人の妄言だ。
『そんなに私が信じられませんか? 人に言えない秘密でも、私には打ち明けてほしいんです!』
長い沈黙。
その静寂の中で、拓真はゆっくり目を閉じた。
「……わかった」
決めた。
たとえ信じてもらえなくても。
この秘密を、初めて誰かに打ち明けようと。
日菜なら──分かってくれるかもしれない。
通話を切り、襖に手をかける。
「垣屋……さん?」
開けた先。
布団の上で、日菜は静かな寝息を立てていた。
頬を赤く染めたまま、子どものように無防備な顔で眠っている。
最後の沈黙の間に、意識が落ちたのだろう。
拓真は小さく息を吐き、そっと掛け布団を直した。
(もう、隠しては置けないか……)
静かに心を決める。
それは秘密を明かす決意であり、同時に──佐名への想いに区切りをつける決意でもあった。
日菜と向き合う。
未来を考える。
その第一歩を踏み出そうとしていた。
そして二階へ上がり、深い眠りへ落ちていく。
*
──目覚め。
だが、違和感があった。
身体が硬い。
いや、布団ではない。
板敷きの上に敷かれた筵。
鼻をつく土と木の匂い。
「な……なんだ……いったい……?」
薄暗い空間を見回す。
粗末な小屋。
格子窓には硝子もなく、入口には筵が垂れているだけ。
眠りについたはずの旅館とは、あまりにも違う。
「なんだ? どうしたんだ……ここ?」
混乱しながら振り返った、その瞬間。
拓真の全身が凍りついた。
「アイ……!?」
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