7.時として一欠片のクッキーが全てに勝る(そんな日もある)。
ジャックが目を覚ました時、傍らには優しそうな少年の…銀河の姿。
彼はそれだけで、己の見聞きした全てが夢ではないのだと諦めた。
銀河の白い笑みが、それをさせなかったとも言える。
絢爛豪華な天蓋の下、純白のシーツに沈んだ身体。
己がとんでもなく豪華で今まで見たこともないほど立派な部屋にいる。
それを自覚した途端に身の置き場が分からなくなり、彼は身を竦める。
縮こまって己が場にそぐわないと、現実逃避もかねて怯えた。
今は未だ、何も考えたくない。
特に、姉のこと。
自分が成したこと如くは徒労であり、無駄であったなんて
自分の姉は心身共に無事なまま、既に故郷へ帰った後だなんて…
そんな現実は一切合切全く以て考えたくなかった。
どうやって姉は故郷へ帰れたのかという、そんな素朴な疑問も、既にどうでも良い。
「おにいさん、何者なの…?」
どう見ても普通じゃない状況下、豪華絢爛な部屋の中。
自分に微笑みかける銀河に、ジャックは再びその質問をした。
偽る必要を持たない銀河は、ジャックに告げて良い物かと悩んだけれど。
それでも騙す必要はないだろうと、静かに口にした。
「僕は、如月銀河…この城の主、魔王なんだ」
銀河の言葉に、銀河はかぱーっと大口を開けたまま硬直し…
銀河が気付いた時は、再び意識を吹っ飛ばしていた。
「ジャック!? ジャック君!!?」
意識を手放したジャックは、深く深く微睡みに心を静めていく。
彼には暫く、考える時間が必要で。
そして落ち着く為に頭を整理する時間が必要で。
眠りの中で頭は情報を整理しようと、少年を眠りの縁から突き落としていた。
銀河さん、子供の脳内許容量を突破するのは程々にしましょう。
ジャックがようやっと全てを受け入れた時には、丸一日が経っていて。
やけっぱちにならないかとハラハラしていた銀河の予想に反し、目を覚ましたジャックは呆然としたまま微動だにしない。
だけど涙腺が崩壊したのか、納得しきれない蟠りが決壊したのか。
その双眸から、ぼろぼろと涙を流しまくっていた。
無表情に座り込んだまま、ぼたぼたと涙を零す子供。
傍目には心が壊れてしまったのかと心配になる光景。
銀河は顔を引きつらせ、何とかジャックを慰めようと思うけれど。
何をしたらいいのか、どうしたらいいのか。
自分がどうすればジャックの神経を逆撫でせずに宥められるのか、分からない。
其処で彼は、使い古された古典的な手段に頼ることにした。
オーソドックスな手段は、使い古されただけの理由を持つもの。
ありきたりだからこそ、普遍的な効果を持つはず。
そう信じて、銀河はそっとジャックの傍らに寄り添った。
その手に持つのは、愛らしくラッピングされた小さな包み。
呆然としたままのジャックに差し出したそれは、魅惑的な甘い香りを放っていた。
そう、お菓子である。
泣く子に一番効果的なアイテムとして銀河が選択したのは、甘いモノ。
古今東西、子供の気を惹くにはお菓子か玩具と相場が決まっている。
ジャックの趣味趣向はさっぱりだったから、銀河は自分の得意分野で勝負を決めた。
包みの中に入っているのは、急遽焼き上げた渾身の自信作。
マドレーヌにパウンドケーキ、ビスコッティ、色とりどりの包み紙のキャンディ。
そして、一番作り慣れた市松模様のアイスボックスクッキー。
中学生でこれだけのモノをレシピ無しに作れる男子は、そうそう居ない。
それでも美味しいと、レイヤとクリュスとライゲスさんのお墨付きも戴いた。
だから、これは本当に自信作。
銀河はピクリとも動かないジャックの口に、ずぼっとマドレーヌを突っ込んだ。
肝心要の、大事なところで。
所詮銀河は中学男子…ここぞというところでは力業も辞さない、雑さが垣間見えた。
だけどその効果は抜群で。
ほんの少しも動かなかったジャックに、劇的な反応が見られたのだ。
その目が、ぴかーっと光った。
感激感動、超絶賛。
そんな感想が垣間見える、衝撃的といわんばかりの表情で。
口はしっかりと口内のマドレーヌを噛み締めたまま。
むしろ決して離すまいと、がっちり食らいついたまま。
その口は必死な動きで、まぐまぐもぐもぐ、懸命にマドレーヌを咀嚼している。
やがて名残惜しそうに躊躇いながらも、ごくんと呑み込むその姿。
なんとなく、口いっぱいに向日葵の種を頬張るハムスターにも見えた。
「お、おにいさん…!」
まだ脳内で感情を整理しきれていないのだろうか。
ジャックは銀河を魔王ではなく、おにいさんと呼んだ。
今まで全身で世界を拒絶している様だったのに、今其処にいるのは表情豊かな子供で。
彼は驚きと焦りと、興奮を交えて目を輝かせている。
銀河が魔王と知ったはずなのに、彼は銀河に縋り付く様にして、勢いよく迫る。
「おにいさん、今のっ 今の何っ!?」
「うわぁ、ジャック君、落ち着いて! 落ち着いて!」
「いいから教えてよ! い・ま・の・な・に!!」
鬼気迫るその食いつき振りに、銀河は甘いモノの効果絶大な偉大さを知った。
「マドレーヌだけど、美味しかった?」
「まどれぇぬ!? まどれぇぬって言うんだね!?」
まるで欠食児童が初めて美食を経験したかのような、そんな勢いで。
銀河の眼前、目には見えない尻尾を盛大に振り抜きながら、子犬の様に物欲しげな瞳。
それもそのはず。
この大陸には砂糖の原料となるモノがない。
あるのは精々蜂蜜だが…蜂蜜は、それを好物とする獰猛な魔物を刺激せぬ為、人間も滅多に採取できない。即ち、食卓に甘いモノが添えられることなど本当にないのだ。
ジャックは白砂糖を作った甘いモノなど、今まで食べたことがなかった。
お菓子など食べたのは、初めてだった。
その感動と驚愕による衝撃は、それまでの短い人生で経験した、全てに勝る。
もうそれだけで、細かいことなど…本当は細かくないが…どうでも良くなってしまう。
薄情だろうが、単純だろうが。
命の無事が保証されたという姉の現状を気にする心も、自分の悔しさも。
銀河が魔王だと言うことも、ここが魔王の城だと言うことも。
それら全ての事実が、「細かいこと」として一緒くたに吹っ飛んでしまったのだ。
銀河と出会って以来、ジャックの小さな頭の中身は度々吹っ飛んでいたが。
この、最後の吹っ飛びようが一番激しかった。
もう本当に、全てがどうでも良くなってしまったの。
甘いモノは、正義。
甘いモノの前には、全て無用。
初めて甘いモノの味を知ったジャックは、一時的にそうとまで思っていた。
そうしてジャックは、一生懸命に脳内で考える。
ああ、どうすれば。
どうすれば、再びこの感動を味わうことができるのか…と。
そんなジャックに、魔王は再び微笑んだ。
あまいあまい、誘惑を手に持って。
「ジャック君、このクッキーも食べる? 甘いよ?」
「いただきます!!!」
ジャック、陥落。
銀河に与えられた菓子の全てを食べ終えた頃には、言い様のない満足感が身を浸す。
だけど身体はまだ、渇望の中にいた。
あの美味しい美味しい「甘いモノ」を、もっともっとたらふく食べたいと。
単純な御子様は、お菓子の前に全てを捨てても良いと思うくらい、食欲に負けていた。
こんな美味しいモノが食べられる場所なら、いつまでだって居たいと思った。
もう、骨を埋めても良いと。
そうして彼は決断を下す。
勇気と期待と、満腹感の勢いに任せた決断を。
「僕を此処で働かせて下さい! お願いっします!!」
甘いモノ食いたさに、ジャックは見事な土下座を披露した。
その、真っ正面で。
微笑ましい気持ちで子供を餌付けしていた魔王様は、思ってもみない事態に、驚くばかり。
大きくぽかんと口を開け、いつかのジャックの様に硬直していた。




