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遠距離恋愛の婚約者の洗濯物に、母乳の染みがあった  作者: 空の異変


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終話 三年後

座敷の卓に、箸袋が7つ並んでいた。


白い紙に、細い緑の線が一本だけ入っている。店の名前は入っていない。


駅から2本入った路地の、2階の座敷だ。10人で埋まる。


うちの13人のうち、今日来ているのは3人。残りは月末の山に埋まっている。


「瀬川代表、上座です」


紗季が言って、自分は俺の左に座った。会社の人が3人いる席では、この呼び方になる。


「13人の会社だぞ」


「13人でも代表です」


榛原業務管理株式会社。受発注の記録整理と、業務の支援。


親会社から引き取った仕事が7割ある。


入った年は、記録と業務フローの整理だけをやった。2年目に4人の班を持って、3年目に子会社に出る業務の突き合わせをやった。


代表の選任は、株主のほうの手続きを踏んで決まっている。榛原の名前が信用したぶんが、そこに混ざっていないとは言わない。


親会社の取締役の席も、子会社を切り出す話を通すために、去年の暮れから兼ねている。


久世隆臣を解いた会議と同じ部屋に、月に1度座る。議事録の頭には、毎回その部屋の名前が入る。


結婚は、どちらの肩書きよりも前だ。順番を入れ替えると、話がややこしくなる。


1年目の秋、紗季は俺が出した会議資料を一枚だけ突き返してきた。


「この一枚、出典がありません。元の伝票まで戻れますか」


戻れた。戻るのに2日かかっている。


2年目の休みの日に、二人でドラッグストアに行った。俺の買うものの紙と、紗季の買うものの紙が、別々にあった。


「直人、それ私のリストにもある。一つで足りるよ」


一つで足りた。そういう足し算を2年やって、去年の春に籍を入れた。


「瀬川さん、お酒は」


奥から声をかけたのは榛原社長だった。3年前の名刺から、姓と肩書きが両方変わっている。


呼ばれたのが紗季のほうだと気づくのに、俺はまだ一拍かかる。


「私はお茶で」


「直人さんは」


「いただきます」


紗季が徳利を受け取って、俺の猪口に注いだ。


「志帆おばさん、そんなに飲んで平気なの」


「今日は払う側ですから、酔っても許されます」


会社の3人は、その会話を聞かないふりをしていた。13人しかいない会社では、聞かないふりも仕事のうちになる。


    *


料理が半分ほど出たところで、社長が徳利を持ったまま、少し声を落とした。


「瀬川さん。前の会社の話、聞きますか」


公の呼び方だった。俺のほうを見ていた。


「聞きます」


「離婚の書類は、私が全部目を通しています。判決は、確定したものの写しを取りました。香坂さんのお母さまとは、今も月に一度、電話で話します。ですから、ここからは確かなことだけです」


紗季が、箸を置いた。


「離婚が成立したあとに、あの二人は籍を入れました」


「久世さんは、タクシーに乗っていました。お客さまからの苦情が続いて、ほとんど稼げませんでした。営業所を一度替わって、替わった先でも同じでした」


「家では、香坂さんに手を上げていました。お子さんの見ている前で」


社長の手の中で、徳利が少し傾いた。


「香坂さんは、腕にも顔にも、痣が絶えませんでした。お母さまに見せていただいた写真では、年より10は上に見えました」


「香坂のご実家は、ほとんど毎日、お金を取りに来ていました」


「一昨年の秋です。お酒の入った久世さんと、香坂さんのお兄さんがぶつかりました。久世さんは亡くなりました」


徳利の口から、酒が一筋だけ落ちた。社長はそれを見てから、続けた。


「お兄さんは傷害致死で、懲役18年です。判決は確定しています」


路地のほうで、自転車のベルが一度鳴った。卓の誰も、そちらを見なかった。


「続けますか」


「どうぞ」


「止めに入った香坂さんも、大きな怪我をしました」


「それから、気持ちの釣り合いが戻らないままです。今は県内の病院の、精神科病棟にいます。お母さまが毎週、通っています。面会は、お母さまだけです」


会社の3人のうちの一人が、黙ったまま、自分の皿の焼き魚をほぐし続けていた。


「お子さんは、お母さまのところにいます。この春で3つになりました」


紗季が、俺の猪口に手を伸ばしかけて、やめた。


「祖母のところ、ですか」


「はい。私が決めたことではありません」


「そうですか」


それ以外に言うことが思いつかなかった。3年前に一度だけ、病院の椅子で握った手のことを思い出しかけて、やめた。


社長は徳利を置いて、猪口を自分で満たす。


3年前、あの人は会議室で、クリアファイルの背を揃え直していた。あの手つきは変わっていない。


    *


酒が2本目に入って、話が野球に移った。誰も、さっきの話に戻らない。


紗季が俺の前の小鉢を下げて、空いたところに取り皿を置いた。


3年前の6月、俺は洗面所で泡のついた手を太ももで拭いていた。


あのまま何も見なかったら、今ごろは誰かの子どもの寝かしつけ方を覚えている。覚える相手も、金の出どころも、俺が選んだものじゃない形で。


手のひらに、猪口の底の輪が冷たく残っていた。


俺はそれを持ち上げて、言った。


「あいつが浮気してくれて、助かったよ」


誰も拾わなかった。野球の話が、そのまま続いている。


卓の向こうで、グラスとグラスが一度だけ触れる音がした。


(了)

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