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遠距離恋愛の婚約者の洗濯物に、母乳の染みがあった  作者: 空の異変


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第六話 創立30周年

「この曲は、私にとっていちばん大事な人に贈りました」


マイクを通した美緒の声が、天井の高いところで一度反射して戻ってきた。


120人の顔が、順番に後ろを向いていく。名札の光が、波みたいに動いた。


「瀬川直人さん。来てくれて、ありがとう」


拍手が起きた。事情を何一つ知らない人たちの、きれいな拍手だった。


美緒が椅子から離れたあとも、譜面台だけが照明の中に残っている。角の塗装が、爪の先ほど剥げていた。


「私はたくさん間違えました。それでも、もう一度やり直したいです」


「直人。私の夫になってください」


名前で呼ばれた。あの部屋を出てから2週間、呼び方は一つも変わっていない。


変わっていないのは、向こうから見えている俺が、2週間前と同じ形をしているからだ。


人が横に来た。香水と、整髪料の匂いがした。


「まあ、瀬川君」


久世隆臣だった。会社概要の写真と、マール榛津で見た横顔と、目の前の顔が、ようやく一つに繋がった。


「香坂さんは、やり直したいと言っているんです。私からもお願いしますよ」


「あなたからですか」


「上司として、彼女の働きは見ています。悪いようにはしません」


「久世さん」


俺は、この人の部下じゃない。肩書きで呼ぶ理由がない。


「そういう保証を、あなたが出せる立場だと思っているところが、いちばん困ります」


司会が、俺のほうへマイクを持ってきた。


受け取るかどうかで2秒迷って、受け取った。ここで首を横に振るだけだと、あとで話が作られる。


「結婚はしません」


会場の音が、一段下がった。


「理由は本人が知っています。私からは言いません」


マイクを司会に返した。返したところで、前のほうから別の声が上がった。


「マイク、もう一本お願いします」


久世志帆だった。


壇の横の段差を、手すりを使って上がっていく。上がりきってから、会場のほうへ体を向けた。


「取締役の久世です。進行を止めて申し訳ありません」


誰も座り直さなかった。全員が立ったまま、同じ方向を見ていた。


「ただいま、社としての後押しのような形で、個人の復縁のお願いが入りました。あれは会社の意思ではありません」


「本日のこの場を、社長がそのように使うことを、私は事前に知らされていました。止めませんでした。それは私の判断です」


隆臣が壇のほうへ2歩出て、止まった。手が上がりかけて、下りた。


「久世取締役。この話はあとで。今は式を続けましょう」


「続けます。そのうえで、ここから45秒だけ、玄関側の記録を再生します」


志帆は、会場の後方にいる技術担当のほうを見た。


「会場の外には出しません。録画と転送はご遠慮ください。操作は委託先の担当が行います」


照明が落ちた。


スクリーンの白が、会場の前のほうを照らした。


画面の隅に、日付と時刻が出ている。04/19 23:47。


玄関の映像だった。下駄箱の上から、ドアを斜めに見下ろす角度。付けたのは俺で、角度を決めたのも俺だ。


ドアが内側に開く。インターホンは鳴っていない。


入ってきた男は、キーケースを上着のポケットに戻しながら靴を脱いだ。合鍵だ。あの部屋の鍵は、俺の分と美緒の分の2本しか作っていない。


男が顔を上げる。


「え、社長?」


前のテーブルで、誰かが言った。


ネットカフェのブースで閉じた続きが、天井に届く大きさで流れている。今度は、目を下に逃がさなかった。


画面が居間に切り替わった。ソファの背と、俺が選んだ照明の傘。


美緒が男の首に腕を回す。男の手が美緒の部屋着の前にかかって、ボタンを上から外していく。


会場のあちこちで、声が漏れた。椅子の脚が床を擦る。家族席の誰かが、隣の人の腕をつかんでいた。


「録画と転送は、ご遠慮ください」


志帆の声がマイクに乗った。それでも前のテーブルでスマホが一本上がって、つられて隣のテーブルでも上がる。小さな画面の光が、スクリーンの下に並んだ。


画面の二人は、もつれたまま廊下のほうへ動いていく。男の手が寝室の戸にかかったところで、映像が切れた。


寝室にカメラはない。付けなかったのは俺だ。


黒い画面のまま、音だけが続いた。居間のマイクが、戸の向こうの声を拾っている。


『子どもが生まれてから、まだ一度も会いに行ってないな。私も、君も』


隆臣の声だった。この会場の全員が、1時間前に乾杯の挨拶で聞いた声だ。


『直人なら育てる。断れない人だから』


美緒の声だった。語尾に、笑いが半分混じっている。


会場の音が、今度ははっきり跳ね上がった。


「直人って」


「さっきの、柱のとこの人でしょ」


名札が、また何枚かこっちを向いた。


ピアノのほうで、白いドレスが動いた。


美緒が走っている。会場の後ろの、技術担当の卓のほうへ。


「止めて! 止めてください、お願い」


テーブルの間の狭いところで、誰かの靴が裾の後ろを踏んだ。布の裂ける音が、スピーカーの音声に重なる。


美緒は前に倒れて、両膝を床についた。背中の縫い目が腰まで開いて、ドレスが肩から落ちかける。両手で布をかき寄せたまま、そこから立てなかった。


踏んだ靴は、もう引っ込んでいた。


音声は、最後まで止まらなかった。


45秒が終わって、スクリーンが黒に戻る。


暗いあいだに、隆臣は壇の前から下がってきていた。出口は、俺の立っている柱の先にある。


明かりが戻った。


「志帆、待て。あれは……話せばわかる。瀬川君、君からも」


マイクを通していない声だった。隆臣は、俺のすぐ右にいた。


「まあ、皆さん。あれは作られたものです。今はああいう映像が、いくらでも作れる」


言いながら、靴の先が出口を向いている。


俺は右手で、その肩をつかんだ。


「久世さん。前は、向こうです」


肩を押さえたまま、体ごと会場のほうへ回した。思っていたより軽い。照明の担当が、柱のほうへスポットを振った。白い輪の中に、隆臣の顔が入る。額に汗が浮いて、整髪料で固めた前髪が一筋だけ落ちている。


120人の顔が、名札ごとこっちを向いた。


床の上で、美緒が裂けた裾を押さえていた。ヒールが片方、テーブルの下に転がっている。


「見ないで……見ないでよ! 見ないでってば!」


近くのテーブルの女性が、椅子を引いて距離を取った。


「見せたのは、そっちでしょ」


「婚約者の前でピアノ弾いてたんだよね、今」


「人の部屋で、あれ?」


美緒は布を胸に押しつけたまま、床を膝で進んできた。隆臣の、俺が押さえていないほうの腕にすがる。


「隆臣さん」


近くの誰かが、その呼び方を小さく繰り返した。


「言ってくれたよね。子どものことは、ちゃんと責任取るって。離婚したら、って」


隆臣は、腕を引き抜いた。


「香坂さん、それは君の家庭の話だ」


「隆臣さん」


「私には妻がいる。こういう場所で、そういうことを言うものじゃない」


美緒の手が、宙に残った。指が、つかむものを探して二度閉じる。


会場の横の扉が開いた。


榛原さんが扉を押さえて、その後ろからエプロンの女性が入ってくる。腕に、白いおくるみ。


二人は中央の通路を、まっすぐこっちへ歩いてきた。テーブルの人たちが、椅子を引いて道を空ける。


おくるみを抱いた女性は、隆臣の前で止まった。


「社長のお子さんです」


おくるみの中で、小さな手が握ったり開いたりしている。泣いてはいなかった。


俺の手の下で、隆臣の肩から力が抜けた。膝が折れる。押さえていた手を離すと、そのまま床に尻をついて、立とうとしなかった。


「社長と、香坂さん……」


「入ったばかりなのに、よく社長室に呼ばれてたよね」


「駅の改札で、一緒にいるの見たことある」


保育者は子どもを抱き直して、壁際まで下がった。榛原さんがその前に一度立ってから、壇のほうへ歩いていく。


後ろのほうで、椅子が倒れた。


「おい、久世社長」


達也さんだった。テーブルの間を、まっすぐこっちへ来る。上着の前が開いていた。


「妹に子ども産ませといて、座ってりゃ済むと思ってんのかよ。出すもん出せ」


隆臣の前で止まって、指を5本立てる。


「500万。妹の分と、子どもの分だ。今ここで払うって言え」


隆臣は床に座ったまま、達也さんを見上げた。


「金なら、あとで。ここでは」


達也さんの手が、近くのテーブルのグラスをつかんだ。


振り上げて、下ろす。


グラスは隆臣の頭の横で割れた。


隆臣が頭を抱えて横に倒れる。指の間から耳のほうへ血が流れて、シャツの襟に染みていった。


警備の二人が走ってきたのは、そのあとだった。達也さんの両腕が、後ろから押さえられる。


「あとでって何だよ! あとでって、いつだよ!」


「直人君」


目の前に、美緒の父が立っていた。


「直人君、聞いてくれ。美緒はまだ若い。子どもなら、この先いくらでも」


床で頭を押さえている隆臣のほうを、一度も見ない。


「頼む。うちは」


「お嬢さんとは、結婚しません」


美緒の父は、口を開けたまま、次の言葉を出さなかった。


俺は美緒のほうへ歩いた。


床に膝をついて、裂けた布を押さえている。その腕を取って、立たせた。


「直人……」


平手を一回。


手のひらの音が、天井の高いところまで上がった。美緒の顔は横を向いたまま、戻ってこない。


「君は久世さんの子を、断れない俺に育てさせるつもりだった」


上着の内ポケットから、折りたたんだ紙を出した。弁護士から受け取った、内容証明の控えだ。今日の返事は紙で返すと、出がけに決めていた。


広げずに、美緒の顔へ投げた。


紙は頬に当たって、足元に落ちる。宛名の「香坂美緒様」が上を向いた。


近くのテーブルの誰かが、その横に唾を吐いた。裂けた裾のすぐ脇に、泡が残る。咎める声は、どこからも出なかった。


俺は柱の横に戻った。


志帆が壇の中央へ戻って、マイクを取る。榛原さんが横に付いて、書類を一枚渡す。


床の隆臣が、片手で頭を押さえたまま、壇のほうへ這っていった。警備の一人が止めようとして、志帆のほうを見て手を下ろす。


「志帆。ここだ、志帆。私はここにいる」


志帆はそちらを見ずに、会場へ頭を下げた。


「お見苦しいものを、ご家族の方の前でお見せしました。お詫びいたします」


「私は、夫との離婚の手続きを、すでに始めています」


隆臣の手が、壇の縁で止まった。


「本日午前、臨時取締役会を開きました。久世隆臣の代表取締役を解職し、取締役以外のすべての役職を解いています。久世隆臣と香坂美緒さんは、懲戒解雇です。会社として、お二人には損害の賠償を求めます」


会場の後ろのほうで、スマホが一本、下ろされた。


「取締役の地位については、招集済みの株主総会でお諮りします。ここまでが、今朝までに決まったことです」


隆臣は、壇を離れて壁際へ這った。保育者の腕から、おくるみを取る。保育者が手を伸ばしたが、間に合わない。


両腕で子どもを胸の高さに上げて、隆臣は壇のほうへ向き直った。


「志帆、この子がいる。君の会社を継げる子が、ここにいるんだ。まだやり直せる」


志帆が壇を降りてきた。ヒールの音が、通路に3つ鳴る。


差し出されたおくるみを、両手で隆臣の胸のほうへ押し戻した。


「よその女から生まれた子を、私の跡取りに数えろと言うんですか」


保育者が横から子どもを受け取って、後ろへ下がった。


「香坂さんが身ごもったことは、知っていました。知っていて、何もしませんでした。産んでもらうために」


美緒が顔を上げた。


「この子の役目は、あなたをうちの会社から出すことです」


「離婚で分けるものは、ありません。榛原の財産は1円も渡さない。私のものもです」


美緒が、隆臣を見た。隆臣は、子どもの抜けた自分の両腕を見ていた。


美緒の顔から、色が引いていく。裂けた布を押さえていた指が、ゆるんで離れた。


志帆はマイクを持ち直して、柱のほうへ体を向けた。


「瀬川さんには、社として、お詫びを申し上げます」


それから、頭を下げた。


120人の顔が、もう一度後ろを向く。名札の光が前から順に流れてきて、俺の手前で止まった。


「先日、瀬川さんにお尋ねしました。預かったものを、どこかに売ろうと考えたかと。考えなかった、というお返事でした」


「賢くて、筋を通す人です。うちに来ませんか」


俺の左隣で名札の紐をいじっていた社員が、手を止めた。それから、俺に頭を下げた。


「瀬川さん、これからよろしくお願いします」


返事は、まだ誰にもしていない。


足元で、布の擦れる音がした。


美緒が、床を這って柱の下まで来ていた。指が、俺のズボンの裾をつかんでいる。首を小さく、何度も横に振った。声は出ていない。


俺は足を引いて、靴の先でその手を払った。指が床に落ちる。


「お受けします」


床の美緒と、頭を押さえている隆臣を、順に見た。


「二人の退職の手続きは、私に立ち会わせてください」


志帆は、榛原さんの持っている書類に一度目を落とした。


「どうぞ」


    *


式典の日の午前に決まったことは、そのまま議事録になった。頭に、本社第1会議室とある。


取締役を外す件は、そのあとの株主総会で扱われた。手続きが別なので、日付も別になる。


5パーセントの株は、そのまま残っている。職と株と婚姻は、それぞれ別の紙で動く。


退職の手続きは、式典の4日後だった。場所は、同じ第1会議室。


長机の、会社側のいちばん端の席に座った。窓側に志帆さん、その隣に人事の担当者。榛原さんが、壁際で記録を取っている。


向かいに、二人が並んだ。隆臣のこめかみには、まだガーゼが貼ってある。美緒は紺のスーツで、髪をひとつに結んでいた。


「久世さん、香坂さん。本日は、手続きの確認です」


担当者は、最初の一言からその呼び方だった。久世社長ではなく、久世さん。


机に、懲戒解雇の通知書が2通置かれる。宛名だけが違う。


「社員証と、貸与している鍵の返却をお願いします」


隆臣が社員証を外した。紐が机の上で一度ねじれて、そのまま置かれる。美緒は鍵を2本出した。ロッカーと、通用口の分。


「会社からの損害賠償の請求は、こちらの書面のとおりです。代理人からも同じものが届きます」


隆臣が書面をめくっているあいだに、美緒が顔を上げる。


会社側の端に座っているのが俺だと、確かめる目。


俺は机の上に両手を置いたまま、受領の欄が埋まっていくのを見ていた。


隆臣のサインは早かった。美緒のペンは名字の最初の一画で止まって、それから、香坂と書く。


二人が出ていったあと、担当者が控えの角を揃えた。俺に何かを訊く人は、誰もいなかった。


弁護士を通した請求のほうは、交渉が2回あって、示談になった。


入金の通知が来たのは、9月に入ってからだった。


2通合わせて400万円。6年ぶんの貯金の、7割に近い。


通知の画面を、一度閉じて、もう一度開く。それから昼を食べに出た。


いつもの店で、いつもと同じ定食を頼んだ。味は覚えていない。


会議室を出るとき、志帆さんに一つだけ言われていた。会場でお受けいただいた話でも、選考は形どおりに踏んでいただきます、と。


9月の終わりに、榛原オフィスサポートから封書が届いた。


中身は選考の案内と、業務課題が一つ。受発注の記録が3ヶ月ぶん、わざと崩した形で入っていた。


出どころの付いていない行が、全部で11行。11行とも、元の伝票まで戻せた。


面接は30分。


「元の資料までたどれるようになっていますね」


志帆さんは、提出した索引を最後まで見てから、顔を上げた。


名刺の肩書きは、取締役から代表取締役に変わっていた。


「社長。一つだけ確認させてください」


「どうぞ」


「俺が持ち込んだ材料と、この選考は、関係ありますか」


「あれは材料です。これは課題です。別のものです」


「わかりました」


「条件書は同封したとおりです。経営企画。前の会社の引き継ぎを終えてから来てください」


「引き継ぎは、3ヶ月ください」


「結構です。うちは、途中で抜ける人の穴を埋めるのが本業ですから」


冗談なのかどうか、顔を見てもわからなかった。榛原さんが、横で書類の角を揃えている。


引き継ぎには、言ったとおり3ヶ月かかった。伝票の番号を、一枚ずつ付け直していく。


最後の日、課長が例の一覧を見て、また3秒で頷いた。


封筒に入れた返事は、一行だけ。


12月1日から、そちらでお世話になります。

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