第五話 手付金は振り込まない
「直人、ごめん。カラーボックスの2番目、茶色い封筒の袋、持ってきて」
洗面所から美緒の声がした。ドライヤーの音が混ざって、2回言い直させた。
「2番目だな」
「そう。引っ越しの見積もりのやつ。お父さんが見たいって」
美緒の父と達也さんは、6時前にまた来ていた。今日は菓子折りもない。
振込の日付が今日だからだ。予約の画面を、家族で見届けに来たらしい。
カラーボックスの2段目から、茶封筒を抜いた。
厚みが、昨日より少しある。中で紙がずれる感触があって、俺は封筒を傾けた。
見積書の束のあいだに、水色の表紙が挟まっていた。
母子健康手帳、と印刷してある。
俺はそれを封筒から出して、見積書だけ台所のテーブルに置いた。
手帳は開かない。開く必要がない。
閉じたまま、食卓の真ん中に置いた。醤油差しの、少し手前に。
「見積もり、これでいいですか」
「ああ、これこれ。悪いな」
美緒の父は見積書を手に取って、数字のところを人差し指で追い始める。
追っている途中で、指が止まった。止まった先は紙じゃなかった。
*
ドライヤーの音が消えて、美緒が居間に入ってきた。
髪を片手でまとめたまま、3歩めで止まった。
「それ」
「袋に入ってた」
「なんで出したの」
「見積もりを出したら、一緒に出てきた」
達也さんが缶を置いて、身を乗り出した。
「美緒。何だそれ」
美緒は答えなかった。俺は椅子を引いて、座り直した。
「中は見てない。写真も撮ってない」
「……」
「見たいのはそっちだろ」
美緒は手帳を開いた。ページを何枚かめくった。
それから、閉じた。
閉じるときに、指が表紙の角を少し折る。
「いつ」
美緒の父の声だった。娘に向かって言ったのか、手帳に向かって言ったのか、よくわからない声だった。
「……10週間前」
「誰の子だ」
「会社の、久世さん」
達也さんが立ち上がった。椅子が倒れて、そのままにされた。
「久世って、おまえの会社の社長か」
「うん」
「じゃあ何だよ、来月の話は」
美緒はそこで初めて、俺のほうを向いた。
「直人。ちゃんと話すから。最初から聞いて」
「カメラのこと、先に言ってくれ」
美緒の顔の動きが、そこで一度止まった。
「……アプリの、共有のとこから消したの」
「うん」
「消したら、もう録れてないと思ってた」
「録れてた。90日ぶん」
鞄から、自分のほうの手帳を出した。テーブルの上のもう一冊とは並べずに、膝の上で開く。
「4月19日、夜の11時52分。4つ目の記録」
美緒の父が、俺の手元を見た。達也さんは、美緒のほうを見ていた。
「『直人なら育てる。断れない人だから』」
読んだのは、その一行だけだ。前にも後ろにも、何も足さなかった。
美緒は口を開けて、閉じた。
冷蔵庫の低い音が一度止まって、また鳴り始める。そのあいだ、誰も口をきかなかった。
俺はスマホを出して、銀行のアプリを開いた。予約の一覧を出して、3人に見えるように置く。
頭金の予約が一件。日付は今日。
「これ、押してません。予約だけです」
「直人君」
「取り消します」
取り消しのボタンは、確認が2回あった。2回とも、誰も止めなかった。
一覧から行が消えて、画面が白くなる。
「結納も、家も、車も、しません」
「200と200と60と90。550万、1円も動いていません」
「ちょっと待て、直人君。話はまだ」
「香坂さん」
呼び方を変えたのは、そのときが初めてだった。
美緒の父が、まばたきを2回した。
「その呼び方はよしてくれ。まだ話の途中だ」
美緒の父が、テーブルに両手をついて、頭を下げる。
「直人君、頼む。うちは君しかいないんだ」
「香坂さん。結婚はしません」
今度は、娘のほうに向かって言った。
同じ名字の人間が二人いる部屋で、俺は2回とも、相手の顔を見てから言った。
美緒が、俺の腕に手を置こうとして、途中で止める。
昨日と同じ高さ、同じ角度。
「直人。10年だよ」
「知ってる」
見積書を茶封筒に戻して、婚姻届の控えと一緒に鞄に入れた。俺の名前が書いてある紙だけを持って、部屋を出た。
ドアが閉まる前に、達也さんの声が聞こえる。俺に向けたものじゃない。
金の話をしていた。誰が誰に、いくら返すのかという話を。
*
久世志帆に会ったのは、その4日後だった。
澄野に戻って、職場に出て、3日目の昼休みに折り返しの電話が来た。会ったのは、榛津の駅前の貸会議室だ。
「瀬川直人です。先日の、近所の者です」
「久世志帆です」
名刺には取締役とだけ書いてあった。肩書きの上に社名がある。
榛原、の二文字が。
「嘘をついたことは、謝ります」
「名前の欄だけですね。本文は、こちらで確かめられる形になっていました」
志帆さんは、俺が持ってきたクリアファイルを、順番に見た。
早くもなく、遅くもない。読み飛ばす人間の目の動きではなかった。
隣には弁護士が一人いて、その人にだけ、原本の場所を説明した。
「久世さん。これ、いつからご存じでしたか」
「疑っていたのは、去年の春から」
「それで、今まで」
「疑いは、ほかの役員に説明できません」
志帆さんはファイルを閉じて、両手を机に置いた。
「会社は父が興しました。株は父が4割、私が3割。それでも、代表の職を動かすには会議が要ります」
「俺は、何をすればいいですか」
「何も。あなたの材料は、私が私の判断で使います。使う場所を選ぶ責任も、私が持ちます」
「瀬川さん。一つだけ伺います」
「はい」
「これを、どこかに売ろうと考えましたか」
「考えませんでした」
「わかりました」
志帆さんは、それ以上その話を続けなかった。
自分がこれまでをどう過ごしてきたかについても、一言も言わなかった。
聞く場面でもないし、聞いていい立場でもない。
別れぎわに一度だけ、クリアファイルの背を指先で揃え直していた。揃っているのに、もう一度揃える。
帰りの新幹線で、弁護士に電話をかけた。俺のほうの弁護士だ。
婚約の不履行と、それを知って関わった側への請求。内容証明は、2通出すことになった。
送達は、通知が届いたという記録にすぎない。認められたわけじゃない。
それでも、紙が動き始めた時点で、俺の側の話は俺の手を離れた。
*
招待状が届いたのは、その1週間後だった。
白い封筒に、創立30周年記念パーティーの案内。差出人は会社で、中に手書きのカードが一枚入っていた。
「最後に一度だけ、来てください。ピアノを弾きます」
出席に丸をつけて返した。
行くのは、返事をしに行くためだ。承知したという意味じゃない。
*
榛津コンベンションホールの天井は高くて、グラスの音がよく通った。
社員と家族で120人ほど。入口で名札を受け取って、俺は壁際の柱の横に立った。
家族席の後ろのほうに、美緒の父と達也さんが並んで座っていた。
会場の前方にグランドピアノが出ている。運び込んだばかりらしく、脚の下に養生のシートが残っていた。
照明が落ちて、美緒が出てきた。
曲名は知らない。途中で一度だけ、右手が走った。
拍手が起きて、美緒が立ち上がる。
司会がマイクを渡した。渡し方が、打ち合わせ済みの渡し方だ。
美緒がマイクを持ち直して、会場の後ろのほうを、まっすぐ見た。
俺の立っている柱のほうを。




