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遠距離恋愛の婚約者の洗濯物に、母乳の染みがあった  作者: 空の異変


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第四話 結納の食卓

その日で、有休は3日目だった。


朝になって、今日の夜お父さんたち来るから、と美緒が言った。決まったのは昨日らしい。


3日しかいられないと最初に確かめたのは美緒で、その3日のどこを何に使うかも、美緒が決めていた。


そう並べ直すと、初日の「何日いられる?」は、ずいぶん早い段階の質問だった。


テーブルは引っ越しの見積もりを取るときに一度どかして、戻した位置が1センチずれている。脚の跡だけが、床に古いまま残っていた。


達也さんは約束の時刻より40分早く来て、まず冷蔵庫を開けた。


「ビール、これ全部?」


「足りなければ買ってきます」


「いや、いい。足りる」


缶を3本まとめて持って、そのままテーブルの端に座る。美緒は台所で唐揚げを揚げていた。


美緒の父が来たのは6時ちょうどだった。紙袋を一つ提げている。


中身は菓子折りだ。


「直人君、いつもすまんね。今日は美緒に作らせて悪かったな」


「いえ。俺も少し手伝いました」


食卓の真ん中に、醤油差しが置いてある。注ぎ口のまわりに、乾いた醤油が細い輪になって残っていた。


美緒がそれを拭かずに出したことに、俺は気づいて、何も言わなかった。


「お母さんは、今日は」


「あれは来んよ。もう別々に暮らして長いからな」


美緒の父は箸を取って、唐揚げを一つ取り分けた。取り分けた先は達也さんの皿だった。


「まあ、そういう家だ。直人君には早いうちに話しておこうと思っててな」


「はい」


「で、結納の話だが」


唐揚げの皿が半分になったところで、その言葉が出た。


「前に100万と言っただろう。あれはな、こっちが遠慮した数字なんだ」


「遠慮」


「美緒はうちの一人娘だ。親戚も見ている。形を整えておかんと、あとで美緒が言われる」


この人の話は、金額の前に必ず関係の話が来る。親戚、世間、形。


聞いているうちに、断れば人でなしになる形のほうへ、こちらが先に押し込まれている。


「いくらでしょうか」


「200万」


美緒が台所から戻ってきて、俺の隣に座った。皿を置く手が止まらなかったから、この数字は知っていたんだと思う。


「それとな、せっかくだから、家の話も一緒にしてしまいたい」


「頭金ですか」


「そうだ。今どき、賃貸ってわけにもいかんだろう」


「頭金も200万くらいって、前に言ったよね」


美緒が、俺のほうを見ずに言った。


「言ってたな」


「あれ、私たちの家の分だから。ここだけは削りたくないの」


私たちの家、という言い方を、この半年で何度聞いたか数えていない。数えておけばよかった。


いちばん最初に聞いたのは、2年前の冬だ。あの日は帰りに不動産屋のチラシを一枚もらって、二人で電車の中で広げた。


「直人」


達也さんが缶を置いた。


「車の60万は、先に出せるよな」


「車」


「仕事に要るんだよ。足がないと現場に行けねえんだ」


「現場」


「これから探すんだよ。順番が逆だろ、って言いたいのか」


言いたかったが、言わなかった。


達也さんは缶の飲み口を指で弾いた。3回。


この人は金の話をしているときだけ、手が忙しい。


美緒の父が、まあまあ、と手を振った。


「達也。順番の話はいい。直人君、借りてるほうも前に言ったとおりだ。まとめてしまえば、あとが楽になる」


俺は箸を置いて、スマホを出した。


「いま、口座の残りを見せます。そのほうが早い」


画面を開いて、テーブルの真ん中に置いた。3人の顔がいっせいに下がった。


590万円。6年ぶんだ。


この家の人間が俺の残高を見たのは、これが初めてだった。


見せるまでは値踏みされる。見せた途端に、共有財産みたいな顔をされる。


伝票を一枚ずつ合わせてきた6年だ。合わせてきたぶん、1円ずつの出どころなら言える。


「……おお」


達也さんが、最初に声を出した。


「直人君は、堅いな。昔から思っとったよ」


「全部で550万ですよね。足ります」


数字を口に出したのは、その場で俺が初めてだった。


言われた側が数えて、言われた側が足すと、話はまとまったように聞こえる。実際にはまだ、何も動いていない。


「明日、まず頭金の分を準備しておきます。手続きの画面だけ、いま出しておきますね」


銀行のアプリを開いて、振込予約の画面を出した。


送り先は俺の別口座だ。日付だけ、明日に入れた。


画面を伏せずに置いておくと、達也さんが首を伸ばして覗き込んだ。


「予約って、もう決まりってことだろ」


「押せば決まりです」


押さなかった。誰も、押したかどうかまでは見ていなかった。


画面には確定前の確認が一枚だけ残る。そこまでは誰でも出せる。


この家の人たちの中で、予約と実行は区別されていない。約束すれば、もう入ったことになる。


俺も長いこと、その勘定で暮らしてきた。


「直人君。うちはね、金が欲しいんじゃない。気持ちの問題なんだ」


「わかっています、お父さん」


美緒が俺の腕に手を置いた。10年ぶんの、慣れた置き方だった。


「ありがとう。ほんとに」


「直人君。式は秋だったな」


「10月です」


「間に合うな。よし」


美緒の父は菓子折りの紐を解いて、自分で一つ取った。持ってきた側が最初に食べるのを、俺はこの4回で3回見ている。


    *


9時を過ぎて、二人が帰った。


美緒は風呂に入ると言って、そのまま洗面所へ消えた。


俺は皿を集める。唐揚げの油が固まりかけていて、湯で先に流さないと落ちなかった。


コップを6つ、茶碗を4つ、大皿を2枚。伏せて、拭いて、上の戸棚に戻した。


醤油差しは、注ぎ口を濡らしたティッシュで拭いてから、冷蔵庫の脇の定位置に置いた。


流しの前に立っていると、換気扇の音と、浴室のシャワーの音が重なって聞こえる。


初日と同じ音だ。立っている位置も同じだった。


戸棚の戸は、右側だけ立て付けが悪い。少し持ち上げるようにして閉める。


持ち上げて、閉めた。

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