第三話 誕生日の行き先
玄関が開いて、靴が片方だけ倒れる音がした。
美緒はバッグを床に置いて、そのまま三和土に座り込んだ。
「聞いてよ。今日、最悪だった」
「何かあったのか」
「秘書室の人に呼ばれたの。小会議室に。わざわざ二人きりで」
「何て言われた」
「勤務上の確認です、って。服装のことと、あと、勤務中の行動がどうとか」
「服装」
「普通だよ? みんな似たような格好してるもん」
美緒はスカートの裾を引っ張って、自分で見下ろした。
「榛原さんっていうの、その人。私より一つ上なのに、ああいう言い方するんだよ」
「榛原」
「会社と同じ名前でしょ。親戚か何かなんだと思う」
俺は麦茶を注いだ。氷は二つとも、美緒の前のコップに入れた。
「それで終わりか」
「最後にね、久世取締役も事情をご存じです、って。事情って何よ。意味わかんない」
美緒は靴を揃え直して、立ち上がった。
「心当たりはあるのか」
「あるわけないでしょ」
返事が早かった。
10年つき合っていると、早い返事と、考えてから出す返事の区別くらいはつく。今まではその区別を、使わないようにしていただけだ。
送ったのは昨日の夕方で、返ってきたのが今日の昼。
窓口は動いていた。取締役の名前も、ちゃんと出てくる。
夕飯は美緒が作った。生姜焼きと、もやしの味噌汁。
皿は2枚とも俺が洗った。
洗っている間、美緒はずっと榛原という名前の話をしていた。
「あの人、最初から私のこと気に入ってないんだよ」
「そうか」
「入って2週間の事務に、わざわざ小会議室だよ? 普通はメールでしょ」
「メールだと残るからじゃないか」
美緒はテレビのほうを向いたまま黙った。菜箸の先が、さっきから同じ場所を突いている。
「……そうかもね」
俺は泡を流して、皿を伏せた。
残したくない話を、残らない場所でやる。その程度のことは、向こうの秘書室だって考えている。
考えたうえで、一人だけ呼んだ。呼ばれる理由のある人間を、一人だけ。
「ねえ、直人。明日の夜なんだけど」
「うん」
「友達の誕生日で、ごめん。出かけていい?」
「いいけど、どこで」
「マールの上のレストラン。待ち合わせは4階の案内板のとこ」
「何時」
「6時。遅くならないようにする」
美緒は冷蔵庫を開けて、麦茶のボトルを取り出した。もう一杯も飲んでいないのに、注ぎ足した。
*
マール榛津の4階は、平日の夕方でも人が多かった。
案内板は柱の裏側にもう一枚あって、そっちは角の透明テープが浮いている。触るとぺりぺり鳴りそうだったので、触らずに通り過ぎた。
俺は一つ下の階まで降りて、吹き抜けの手すりのところに立つ。
下の広場では、子ども向けの催しが終わったところだった。係の人が余った風船をまとめて、紐でくくっている。
5時50分。6時。
6時5分。
天井のスピーカーから、館内の案内が流れた。
「本日もマール榛津にご来店いただき、ありがとうございます」
待ち合わせの時刻は聞いていたのに、心臓のほうが先に走り出していた。人を待つだけでこうなるのは初めてだ。
6時15分、美緒が4階に上がってきた。一人じゃない。
隣の男は、会社概要の写真より髪が薄かった。それ以外は、だいたい同じ顔だった。
二人はレストランの並びを通り過ぎて、奥のほうへ歩いていく。
ベビー用品売り場は、4階の突き当たりにあった。
美緒が棚から何かを取って、男に見せる。男は頷いて、自分の手に提げていた紙袋を持ち替えた。
俺はスマホを構えて、3枚撮った。二人が同じ通路にいることがわかればいい。
顔の見える一枚と、店の看板が入る一枚と、時刻がわかる一枚。それだけだ。
声はかけなかった。かけて何か言わせたら、それは俺が言わせたことになる。
手すりを握った指の腹が、白くなっていた。
ここで走っていって、何をする。肩をつかむのか。
紙袋を叩き落とすのか。
やったところで、この先に起きるのは、俺が誰かに謝りに行く話だ。
二人は売り場の中へ入って、棚の陰で見えなくなった。それで終わりだ。
エスカレーターに乗る前に、撮った3枚を見返した。
1枚目は手ぶれ。2枚目は柱が被った。
使えるのは3枚目だけ。
その一枚を、日付と時刻の残る形で保存して、鞄のノートに、どこで何時に撮ったかを書いた。
撮った、ということまで書いた。自分のやったことを書かずにおくと、あとで自分の書いたものが信用できなくなる。
下りながら、指がまだシャッターの形に曲がっていることに気づいた。
売り場の前を通った店員が、俺の顔で一度、目線を止めた。
「お探しものですか」
「いえ」
それ以上は訊かれなかった。訊かれていたら、たぶん、まともな答えは出てこなかった。
1階の通路に、ベンチに座っている父親がいる。ベビーカーの日よけを片手で下ろして、もう片方の手でスマホを見ている。
あの手つきは、昨日今日で身につくものじゃない。
俺が来月から始めることになっていた練習を、誰かはもう8週間やっている。
その誰かは俺じゃない。
それでも、来月からの予定表には俺の名前が入っている。入れたのは俺じゃない。
1階分だけ階段を使って、通用口から外に出た。正面から出ると、4階の手すりから見えるかもしれない。
そこまで考えている自分に、少しだけ笑った。笑ったら、口の中が乾いている。
外は、まだ明るかった。6月はそういうところが面倒くさい。
*
駅までの道で、電話が鳴った。美緒の父からだった。
「ああ、直人君。今いいかな」
「お父さん。どうも」
「いや、大したことじゃないんだ。結納の日取りをね、そろそろ決めたくてな」
電話の向こうでテレビの音がしている。野球の中継だ。
「こっちは、いつでも合わせます」
「助かるよ。美緒も来月には籍を入れるって言うしな」
美緒の父とは、これまでに4回会っている。4回とも、店を決めるのは俺で、払うのも俺だ。
一度だけ、駅まで送る車の中で、娘をよろしく頼む、と言われた。あのときは素直に、いい人だと思った。
そこで一度、間が空く。テレビの音量が小さくなった。
「それでな、直人君。せっかくだから、達也の話も一緒に聞いてもらえんかな」
「達也さんの」
「あれも31だ。仕事に車が要るんだと。妹の式の前に、足くらい付けてやりたくてな」
「車、ですか」
「それとな、前から少し借りているのがある。まとめてしまったほうが、あとで面倒がない」
「いくらですか」
「90万」
数字だけが、急にはっきりした発音になった。
「急がせる話じゃないんだ。ただ、まとめて考えたほうが、みんな気が楽だろう」
「そうですね」
「そう言ってくれると助かる。やっぱり直人君は話が早い」
話が早い、と言われたのは今日で2度目だ。
1度目は、洗濯物を頼まれたときだった。あれは声に出して言われたわけじゃない。
野球の中継が、歓声のところで一段だけ大きくなった。
俺は歩きながら手帳を開いて、そのページの隅に数字を書いた。3行を書いたページの、二つ先。




