第二話 玄関の向こう側
ブースの椅子は、右の肘掛けだけが一段低かった。
腕を置くと肩が傾く。座り直しても直らないので、俺は右腕を膝の上に下ろした。
記録の一覧を、上から下まで紙のように読んだ。
90日分ある。玄関と居間、それぞれに時刻と長さが並ぶ。
8ヶ月前のものは、とっくに落ちて消えていた。
深夜に玄関が動いた日を、日付順に抜き出す。21日ぶんあった。
音声は4つだけ聞いた。合計で12分。
それ以上は要らなかった。
映像のほうは、二人が触れ合うところでアプリを閉じた。その先は見ていない。
手帳の新しいページに、わかったことだけを書いた。3行で足りた。
一つ、子どもがいる。生まれたのは10週ほど前。
二つ、産んだのは美緒だ。
三つ、その子をこれから育てるのは、来月から俺だということに、二人の中ではなっている。
3行目を書いたあと、ペン先を紙に置いたまま動かさなかった。インクが滲んで、点が丸く広がる。
立ち上がって、ブースの外の自販機まで行った。何も買わずに戻ってきた。
座り直して、3行目をもう一度読んだ。自分の字だ。
来月から俺だ、というところを指でなぞると、紙がわずかに毛羽立った。
子どもは今、別のところで預かってもらっている。費用は男が出している。
それも同じページに足した。
4つ目の記録で、名前が一つ呼ばれている。
俺はその名前を、聞こえたとおりの音で書いた。漢字は当てない。
当てるのは、調べてからでいい。
原本には何も足していない。手帳のほうにだけ、日付と、どの記録から取ったのかを添える。
受注表と同じだ。元の伝票に戻れない数字は、数字じゃない。
共有の欄から美緒の端末が消えていたのに、管理側の記録は一日も欠けていない。
理由はわからない。わからないまま、そのことも書いた。
洗濯籠のことは、もう頭から外していた。あの染みは何も証明しない。
証明したのは、2年前に俺が自分で選んで、自分で取り付けた機械のほうだった。
*
スマホのメッセージを、上に向かってさかのぼった。
「引っ越しの見積もり、3社来たよ。いちばん高いとこが丁寧だった」
「式場の内金、今月中だって。直人の口座からでいい?」
「頭金、やっぱり200万くらい要るみたい。私たちの家の分だしね」
「お父さんが、結納はちゃんとやったほうがいいって」
8ヶ月ぶんをさかのぼって、ひとつわかったことがある。
「私たちの」で始まる文の後ろには、必ず俺の口座があった。
一件ずつ見れば、どれも普通の相談だ。並べて見ると、増え方に角度がついている。
気づかなかったわけじゃない。気づかないことにしていた。
そのほうが話が早かった。
*
パンを二つ買って、部屋に戻った。
美緒は布団の上に座って、髪を結んでいるところだった。
「おかえり。寝てないでしょ」
「仮眠した」
「顔、ひどいよ」
「電話が3本来た」
嘘は一本ずつ増える。向こうも、たぶん同じようにやってきたんだろう。
パンの袋を開けながら、美緒はテレビの天気予報を見ていた。
「今の会社、どうなんだ」
「まだ2週間だよ。でも、みんな優しい」
「上司は」
「社長が直接見てくれてる。うちくらいの規模だと普通らしいよ」
「社長が事務を直接」
「席の並びの話。そんな深い意味ないって」
美緒はパンの耳をちぎって、袋の中に戻した。昔からそこは食べない。
「コーヒーいる?」
「いる」
「インスタントしかないけど」
「それでいい」
「直人、変な顔してる」
「寝てないだけだ」
総合病院の受付は、9時半でもう椅子が埋まっていた。
美緒は番号札を俺に持たせて、自分は両手を膝の上で重ねた。
「保険証、出した?」
「出した。あとは直人が持ってて」
「なんで俺が」
「私が持ってると落とすから」
「触ってみて。冷たいから」
「冷たいな」
「ね。言ったとおりでしょ」
俺はその手を握った。10年で何度も握った手だ。
指の関節のところが、昔から少しだけ硬い。
握りながら、手帳の3行目を思い出していた。
「直人」
「ん」
「終わったら、どこか行こうよ」
「どこがいい」
「決めてない。直人に決めさせると必ず蕎麦になるから、私が決める」
番号が呼ばれて、美緒は立ち上がりぎわに俺の袖を一回だけ引いた。
10分ほどで戻ってきた。血の気の引いた顔で、絆創膏の上を指で押さえている。
「見てた? 私、すごく頑張ったんだけど」
「ここに座ってた」
「それでいいの。いるだけでいいんだって、前から言ってるじゃん」
「これで10時半か。会社、間に合うのか」
「間に合う。タクシー使うし」
「領収書もらっとけよ」
「出ないよ、そんなの。2週間目の事務だよ」
出る、と俺は思った。社長の直属なら、たぶん出る。
病院を出たところで、美緒が腕時計を見た。
「午後、会社に顔出さなきゃ。半休扱いだから」
「じゃあ夕方な」
「うん。ごはんは外で食べよ。予約しとく」
改札まで送って、背中が人の流れに混ざるまで見ていた。
一度も振り返らなかった。それは昔からそうだ。
*
駅ビルのイートインで、聞こえた名前を検索窓に平仮名のまま入れた。
榛原オフィスサポート株式会社。美緒が2週間前に入った会社だ。
会社概要のページに、役員一覧があった。
代表取締役社長、久世隆臣。52歳。
手帳の平仮名と、画面の漢字を3回見比べた。音は合っていた。
同じ表の2段下に、取締役、久世志帆。48歳。
沿革を開く。1993年設立。
設立者の欄には「榛原」の姓があった。
社名の榛原は、社長の名字じゃない。
紹介文に一行だけ、取締役の久世志帆が創業者の長女である、と書いてあった。旧姓には触れていない。
従業員140名。企業向けの事務用品と、受発注の支援。
うちの会社と業種が近い。
近いから、想像がつく。あの規模の会社で、社長の直属に誰が置かれるかを決められる人間は、そう多くない。
役員一覧にもう一度戻った。久世隆臣と久世志帆。
同じ姓で、年が4つ違う。
社名の榛原と、取締役の片方が創業者の長女だという一行。この二つを並べると、この会社で誰が誰を雇っているのかの順番が、名刺の肩書きの順番とはずれてくる。
コンビニのコピー機で、必要なところを5枚だけ出した。
手帳の3行、日付の一覧、会社概要。それぞれ別のクリアファイルに分けた。
俺の考えを書いた紙は、いちばん後ろに回した。混ぜると、あとで自分が困る。
元がどこにあるか、誰でも辿れること。仕事で6年やってきたのは、結局それだけだ。
*
会社のページの下に、問い合わせ先が3つ並んでいた。
採用、取引、そして監査役・取締役宛ての窓口。3つ目は郵送とフォームの両方がある。
入力欄は短かった。名前、連絡先、本文。
本文だけを埋めた。日付と、誰と誰が、どこで、何をしているか。
子どもの件も一行だけ入れた。
脅し文句は書かない。金の話も書かない。
添付もしない。原本を渡すのは、渡す相手を決めてからでいい。
名前の欄でしばらく止まった。
美緒の名前を使えば、話は早い。使った時点で、俺のほうが説明のつかない人間になる。
俺は「近所の者です」と打った。
嘘はそこだけにした。
送信ボタンの上で、指が一度浮く。
押したら、俺はもう、黙っていた人ではなくなる。
押した。駅の時計が4時20分を指していた。
スマホが震える。美緒からだ。
「お店、7時で取れた。駅の東口ね」
「わかった」
「今日はちゃんと寝ようね」
「そうする」
返信を打って、クリアファイルを鞄の奥に入れた。
夜は飯を食う。それから3日ぶんの有休を、最後まで使い切る。




