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遠距離恋愛の婚約者の洗濯物に、母乳の染みがあった  作者: 空の異変


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第一話 洗濯物を頼まれた日

改札を出ると、榛津(はるつ)の6月は生ぬるかった。


澄野(すみの)から新幹線で2時間半、座っていただけなのに、シャツの背中が湿っている。


駅前からバスで15分。合鍵は持っているのに、俺はインターホンを押した。


「早いって。まだ片づけてないのに」


ドアの隙間から顔だけ出して、美緒が言う。8ヶ月ぶりに見る顔だった。


「一本早いのに乗れた」


「じゃあ入って。散らかってても文句なしね」


部屋の匂いは変わっていない。柔軟剤と、口を縛ったままの生ゴミの袋。


契約者は俺で、家賃7万2000円も俺の口座から落ちる。それでも、ここは美緒の部屋だ。


靴を揃えて顔を上げると、玄関の隅の白いカメラが目に入った。


2年前、階下に見慣れない男が出入りしていた時期があって、美緒に頼まれて取り付けたやつだ。玄関と居間に一台ずつ。


それ以上はいらないと本人が言った。


通知は半年前に切ってある。届くたびに伝票の入力が止まるからだ。


「ねえ、直人。何日いられる?」


麦茶のボトルを出しながら、美緒は振り返らずに訊いた。


「3日。有休取ってきた」


「3日かあ」


「健診のあと、どっか行くか」


「行きたい。けど、決めるの明日でいい?」


コップが二つ、俺の前に置かれる。氷が入っているのは片方だけで、入っているほうが俺の前に来た。


「氷、俺のだけ入ってる」


「直人、ぬるいの嫌いでしょ」


昔からこれをやる。


大学3年の冬、俺は倉庫の夜勤を掛け持ちしていて、週に2回は終バスを落とした。そういう日は美緒のアパートまで30分歩いた。


部屋に着くと、電気は消えているのに、こたつの上に皿が出してある。ラップをかけた肉じゃがと、茶碗によそった飯。


飯には濡らしたキッチンペーパーがかぶせてあった。


起こしていい、と言われたことは一度もない。俺は黙って食って、洗って、伏せて、帰る。


朝になると、洗ってあってえらい、とだけメッセージが来た。


あの頃の肉じゃがは人参が大きすぎて、いつも一個だけ皿に残った。


その人参を食い残したまま10年が経って、婚姻届は来月出すことになっている。式は秋、親族だけで。


「婚姻届さ、証人の欄、まだ片方空いてるけど」


「兄さんに書いてもらう。お父さんに頼むと話が長くなるから」


「達也さんでいいのか」


「いいの。名前書くだけだし」


美緒は麦茶を飲み干して、コップの底の氷を鳴らした。


美緒が今の会社に入ったのは2週間前だ。雇入時の健康診断を、まだ受けていない。


会社が日程を組み直しても、2回続けて延ばした。


「注射、本当に無理なの。採血の椅子に座ってるだけで手が冷たくなるんだよ」


「付き添うだけでいいんだろ」


「うん。隣にいてくれたら、たぶん行ける」


「明日、何時に出る」


「受付が9時半。8時に起こして」


「起きられるのか」


「直人がいるなら起きられる」


健康保険の手続きはそれとは別の窓口で進んでいるらしくて、検査を受けないと資格が止まる、という話ではなかった。ただ本人が、一人では行けないと言う。


それだけのために、俺は3日ぶんの有休を取った。


出る前の日、課の共有フォルダに一覧を置いてきた。受注の未処理分と、こっちで止めてある伝票の番号を並べてある。


「休みの間の分は、この一覧にあります。伝票の番号も付けておきました」


課長は画面を3秒ほど見て、行っていいよ、と言った。あの人が3秒で済ませるのは、戻れる資料だけだ。


居間の隅のカラーボックスには、茶封筒が3つ立ててある。婚姻届の控え、引っ越しの見積もり、式場から送られてきた紙。


必要な紙はここ、と決めたのは美緒だった。片方が探さずに済むように、と。


給湯器が鳴って、美緒が立ち上がる。


「暑いから先にもらうね。あ、洗濯物、お願いしていい?」


「洗濯機回すだけだろ」


「手で洗うやつ。洗面所の籠に分けてある」


「分けてあるって、どっちだよ」


「奥。タオルのほうは機械でいい」


「洗剤は」


「下の棚の、おしゃれ着用のやつ」


浴室のドアが閉まり、換気扇が回り出した。


籠はたしかに分けてあった。タオルの籠と、その奥にもう一つ。


洗面器に水を張って、洗剤を溶かす。こういうのは何度もやっている。


遠距離になる前は、週末に来て、まとめて片づけて帰るのが俺の役目だった。


二つ目に取り上げたやつの、パッドが入る内側で、指先が引っかかった。


白っぽい染みが乾いて、薄い鱗みたいに固まっている。爪を立てると、粉になって水に散った。


母乳、という言葉が浮かんだ。


俺は蛇口を閉めた。


浴室からはまだシャワーの音がしている。泡のついた手を、俺はジーンズの太ももで拭いた。


そういうことについて、俺たちは面倒なくらい手順を守ってきた。10年、一度も崩していない。


指先に残った粉を、もう一度水で流した。


それから籠の中身を全部洗って、絞って、ハンガーにかけた。手のほうが先に動いている。


順番の決まっている作業は楽でいい。考えなくて済む。


洗面所を出るころには、干し終わった下着が4枚、浴室のドアの前で揺れていた。


    *


「会社から連絡きた。今夜だけ出る」


風呂上がりの美緒は、髪をタオルで挟んだまま、へえ、という顔をした。


「こんな時間に?」


「システムの切り替えが明日でさ。電話が来る」


「じゃあ、朝ごはんまでには帰ってきてね」


「タクシー使う」


「歩いてよ。駅までなら明るいでしょ」


引き止められなかったことに、俺は少しだけ助かった。


    *


駅の裏のネットカフェで、ナイトパックの札を指さした。個室の鍵と、ドリンクバーの説明を受ける。


紙コップにコーンスープを注いだ。薄い。


粉が下に沈んだまま溶けきっていない。


隣のブースから深夜アニメの音が漏れている。笑い声のところだけ、壁を抜けてやけにはっきり届く。


ブースの椅子に座って、スマホの見守りアプリを開いた。半年ぶりだ。


ログインからやり直しになった。


パスワードは忘れていなかった。自分で付けて、自分で切って、それきり触っていない機械の名前だ。


管理者は俺のアカウントのままだった。家に入っているのは玄関と居間の2台で、録画はクラウドに90日ぶん残る。


それより前は順に消えていく。


共有の欄から、美緒の端末が消えていた。日付はわからない。


俺は一覧を上から見た。深夜に玄関が動いている日が、まばらにある。


居間の音声を一つ、40秒だけ再生して、止めた。


男の声がする。誰なのかは、俺には判別できない。


聞き取れた日付を一つ、手帳に書き写した。受注表と同じ書き方で、何月何日のどの記録から取ったのかも添えてある。


書いた日付から数えると、10週ほど前になる。


コーンスープを一口飲んだ。やっぱり薄い。


産んだのが美緒なのかどうかは、まだ俺の推測でしかない。


父親が誰なのかは、推測にすらなっていない。

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