08. 狙われた両家
扉が閉まり、廊下の足音が遠ざかる。父は向かいの椅子へ腰を下ろし、ユアンにも席を勧めてから、改めてアリアナに目を向けた。
「何があった」
アリアナは卓上の新聞へ手を伸ばす。
「この記事に書かれた小部屋にいたとき、人が来たの。男の人と、女の人が」
「新聞社に話を持ち込んだ者か?」
「それは分からないわ。私たちは、見つからないように隠れていたので」
口にした途端、頬が熱くなった。
隠れていた理由まで尋ねられたら、どう答えればいいのだろう。困り果て隣を窺うと、ユアンは父をまっすぐに見つめている。
「あの部屋でご令嬢と二人きりになった経緯は、後ほどご説明します。今は、先に彼女の話を聞いていただけますか」
父の口元が険しくなる。それでも、続きを促すように頷いてくれた。
「その二人が、お父様の話をしていたんです。来週開催される予定の議会で採決される、女性の財産を守る法案のことも」
椅子の背に預けかけていた父の体が起きる。
「何と言っていた」
「あと一人、賛成する人が考えを変えれば、否決に持ち込めると。それから、お父様はお金では動かないから、別の方法が要ると……」
声にするにつれ、暗い小部屋の匂いまで蘇ってくる。ユアンのすぐそばで息を潜め、扉の向こうに耳を澄ませていた。男女の口調が妙に落ち着いていたことも、今となっては恐ろしい。
アリアナは、新聞の端を握った。
「男の人が、ユアン様や私を攫うような話をしていたの。従わないなら、『手段を選ばない』とも」
父は黙っている。
その沈黙に、胸がざわついた。そんな話はよくあるとか、酒の上の冗談だとか、打ち消してほしい気持ちがどこかにあったのかもしれない。
「最初は、また誰かが隠れて会っているだけだと思ったのよ。でも、お金を受け取っているようだったし……法案を否決させるために、誰かに雇われた人たちなんじゃないかと思って」
父の視線がユアンへ移る。
「君も聞いたのか」
「はい。彼らは単に法案への反対意見を交わしていたのではありません」
先ほどまでの柔らかさが消えた声に、アリアナは新聞を握る手を緩めた。自分の思い違いではないと分かることが、心強くもあり、恐ろしくもある。
「誰の差し金だ」
「依頼人の名前は出ませんでした」
「顔は?」
ユアンは首を横に振る。
「物陰から出れば、こちらが見つかる状況でした。声にも、僕は覚えがありません」
父に目を向けられ、アリアナも答えた。
「私も顔は見えなかったわ。ただ、男の人は、お父様のお名前をはっきり口にしていたの」
「つまり、私やストーンハースト侯爵を脅すために、お前たちを誘拐しようとしている、ということか?」
「たぶん……」
頷きかけて、アリアナは唇を噛んだ。分からないことまで断言するのは怖い。けれど、耳に残る言葉だけは消えてくれなかった。
「手段を選ばないと言っていたんです。それなら、私たちだけでなく、お父様を傷つけるかもしれないでしょう。お姉様たちだって危ないわ」
新聞を押さえる指が震える。
「それに、この記事で、私たちがあの部屋にいたと分かってしまったから……」
父が見出しへ目を落とした。
つい先ほどまで腹立たしいだけだった大仰な文字が、今は、自分たちの居場所を指し示す印のように見える。あの二人がこれを読んだら、何を考えるだろう。
「僕たちが近くにいたと知れば、向こうも警戒するかもしれません」
ユアンが低い声で口を開く。
「計画を変える可能性もあります。これまでどおりに動くとは考えないほうがいいでしょう」
廊下の向こうで、食器の触れ合う小さな音がした。ほんの数分前まで、母は嫁入りを心配し、姉は挿絵の鼻を笑っていた。その朝が、もうひどく遠い。
「この記事も、その人たちが書かせたのかも」
アリアナは思い切って、朝から抱えていた疑いを口にした。
「私が何か話しても、誰にも信じてもらえないように」
「それは、まだ分かりません」
ユアンは新聞に目を落としたまま、静かに続ける。
「たまたま目撃した誰かが、面白がって話しただけかもしれない。記事の出どころと、昨夜の二人が繋がっているかは、調べる必要があります」
「でも、知られたことは確かでしょう」
「僕たちが部屋にいたことは。だだし、会話を聞いたかどうかまでは、記事には書かれていません」
事実と推測を、一つずつ分けるような口調だった。大丈夫だという気休めを口にしないことが、今はかえって信用できる。
父が膝へ手を置き、わずかに身を乗り出した。
「なぜ、昨夜のうちに言わなかった」
アリアナは顔を伏せる。
本当は、ユアンに口止めされていたから言えなかった。けれどこの状況でさらにユアンに不利になることを言えば、父の不信感を煽るだけだ。
「怖くて……それに、何かの聞き違いかもしれないと思って」
「僕の判断です」
思わず顔を上げると、ユアンは父を見据えていた。
「夜会の最中に人を呼べば、あの二人にも気づかれる。確証がないまま騒ぎを広げるより、まず僕から父へ話すと申し上げました」
父の厳しい眼差しがユアンへと向けられる。息の詰まるような沈黙が部屋を支配した。
「……君の判断か」
父は低く呟き、膝に置いた手にゆっくりと力を込めた。怒りというよりは、事態の深刻さを噛み締めるような重い響きだった。
「それで、侯爵には話したのか」
「はい。父は今朝から、会場にいた者の確認に動いています。ただ、これほど早く、僕たちが部屋にいたことまで公になるとは考えていませんでした」
父はしばらくユアンを見つめ、それから厳しい声で告げた。
「娘に黙っているよう言う前に、私へ知らせるべきだった」
「おっしゃるとおりです」
ユアンが頭を下げる。父は深く息を吐くと、アリアナの近くに椅子を寄せた。
「顔を上げなさい」
促されて目を上げると、握り潰しかけていた新聞をそっと抜き取られる。
「聞いた言葉を、後でもう一度、思い出せるかぎり書いてほしい。分からないところは、そのままでいい。無理に辻褄を合わせる必要はない」
アリアナは頷いたものの、気に掛かっていたことが口をついて出た。
「お父様は法案に――」
「賛成している」
返事に迷いはなかった。
「お前の姉が、自分の金を使うのに、いちいち夫の機嫌を窺わねばならん。それをおかしいと思っている。だが、今するのは採決の話ではない。お前たちの安全を確保することだ」
「私の話を、信じてくれるの?」
父の眉間に深い皺が寄る。
「お前がこんなことで嘘をつくものか」
その一言に、喉の奥が熱くなった。
朝から張り詰めていたものが緩み、慌てて瞬きを繰り返す。父はそれに気づかないふりをするように立ち上がると、呼び鈴へ手を伸ばした。
「侯爵とも直接お会いして話さねばならんようだな。昨夜、使用人が見掛けた者も調べさせよう。お前は当分、一人で外へ出ないように」
「はい」
「母さんと姉さんたちにも、必要なことは私から伝える。家の者が何も知らずにいるのも危ない」
そこで父はユアンへ向き直った。
「君も残ってくれ。昨夜のことを詳しく聞きたい」
「承知しました」
「ただし、娘を危険から守る話と、君の求婚は別だ。混同してもらっては困る」
再び低くなった声に、ユアンがアリアナを見る。
先ほどまでは、その顔を見るたびに昨夜の口づけが蘇り、どこか居心地が悪かった。それが今は、同じ暗がりであの声を聞いた相手が、ここにいてくれることに安堵する気持ちの方が大きくなっている。
けれど、その安堵まで結婚の理由にはしたくなかった。
「私も、まだお返事はできません。今は結婚より、昨夜の人たちのことを考えたいんです」
ユアンはわずかに顎を引く。
「分かりました。求婚の返事は、お待ちします」
彼は小さく頷くと、父へ向き直り、背筋を伸ばした。
「まず、覚えている会話を最初から整理していきましょう」
アリアナは膝の上で手を開いた。爪の跡がついた掌は、まだ冷たい。それでも、父が隣にいて、ユアンが昨夜の出来事を語り始めている。その声を聞きながらアリアナはようやく、詰めていた息をゆっくりと吐いた。




