07. 責任という名の求婚
翌朝の新聞は、朝食より先に運ばれてきた。
母は記事を読んで扇子を落とし、父は椅子を蹴って立ち上がる。オリビアだけは新聞を取り上げると、真っ先に挿絵へ文句をつけた。
「ひどい。アリアナは、こんな鼻じゃないわ」
昨夜、そのまま実家に泊まったセシリアも、「まぁ」と目を丸くして白湯を入れた紅茶カップを静かに戻した。少し目元が腫れているのが気に掛かるが、今は姉の顔を確かめる余裕もない。
アリアナは、見出しに躍る文字を唖然と眺める。
『アークライト家の密室劇! 侯爵家嫡男と未婚男爵令嬢、深夜の小部屋で過ち?』
記事によれば、アリアナは長らく侯爵令息と密会を重ね、ついに情熱を抑えられなくなったらしい。
長らくとは、どういうことだろう。まだ一度しか会ったことがないのに。
根も葉もない話が、さも紛れもない事実であるかのように綴られている。読み進めるほどに、胃のあたりがきりきりと痛んだ。
「オリビアの間違いじゃないの?」
母ソフィアがすがるような目を向けてくる。答える気力も湧かずにいると、横からオリビアが口を挟んだ。
「私が密会するならデレクだし、こんな趣味の悪い部屋は選ばないわ」
「そういう問題じゃないだろう……」
父は頭を抱え、母は倒れそうな様子で椅子の肘掛けを握りしめている。
「どうしましょう。王都中の噂になってしまうわ。アリアナのお相手探しが……」
「よりによって相手はあのウィリンガム家の放蕩息子だぞ! アリアナをあんな男の餌食にされてたまるか!」
「お父様、まずアリアナの話を聞いてあげて」
セシリアの落ち着いた声に、父が口をつぐんだ。
「私と別れたあとに、何があったの?」
隣に座るアリアナへ体を向けたセシリアが、そっと手を重ねてくる。昨夜は自分が支えていた姉の手に、今朝は気遣われている。そのことを申し訳なく思い、アリアナは小さく首を振った。
「記事に書かれているようなことは、何もないわ」
「そう。では、何があったのかゆっくり話してちょうだい」
母がハンカチを握りしめたまま、祈るようにアリアナを注視した。
アリアナは静かに息を吸い込み、昨夜の出来事を順を追って話し始めた。池から浮き上がってきた濡れ鼠の青年、彼のためにサンプル品の服を取ってきたこと、そして庭仕事用の小部屋で暖を取っていたことまでを話した。
流石に密会に来た男女がいて、カーテンの裏に隠れてユアンと口づけをしたとは明かせなかった。自分自身ですら、何がどうなってあの状況を許してしまったのか理解できずにいるのだから、家族を納得させる説明なんて浮かばない。
それから、怪しい二人組が既婚女性の財産権を拡大する改正法案を潰す話をしていたことも、ユアンと今はまだ秘密にしておくと約束したので省いておいた。
「そのあと、どなたかに見咎められて、それで誤解されたまま、新聞社に売られてしまったのだと思う」
アリアナの精一杯の嘘に、父ベンジャミンは悔しそうに拳を握りしめ、母ソフィアは涙ぐみながらハンカチを唇に当てた。
「なんて理不尽なんでしょう。善意で助けてあげたと言うのに、娘の名誉をそんな泥で汚すなんて」
「とにかく、相手のウィリンガム家がどう動くかだ。あそこが『ただの誤解だ』と突っぱねてしまえば、被害を被るのはこちらだけだぞ」
父が怒りと不安を隠せずに部屋の中を往復し始めた。
「少なくとも、この挿絵は間違いだらけだわ。デレクなら、もっと上手にアリアナの特徴を捉えられるのに」
オリビアは相変わらず新聞を睨んでいる。
「それでも、多くの人はこの記事を本当にあったことだと思うでしょうね」
セシリアが静かに吐き捨てた。その声には、貴族社会の身勝手さを知り尽くした者特有の冷めた諦めが滲んでいる。
「世間が求めているのは真実ではなく、娯楽としてのスキャンダルだもの。成り上がりのアークライト男爵家と、名門侯爵家の放蕩息子――これ以上ない格好の餌食だわ」
母ソフィアは「ああ、なんて恐ろしい……」と喘ぐように呟き、失神しかけた身体を椅子の背もたれに預けた。
家族がそれぞれの手法で混乱と失望を露わにするなか、アリアナは食卓を囲んで飛び交う声を、どこか他人事のように聞いていた。
視線を落とすと、冷めきった紅茶に自分の顔が映っている。昨夜、暗がりで触れたユアンの体の熱や、耳元に落ちた低く甘い息遣いが蘇り、胸の奥が落ち着かなくなる。こんなときに思い出してしまう自分が腹立たしい。
それに本人の気持ちなどお構いなしに、噂ひとつで人生まで決められかねない状況にも納得ができない。故郷のストーンハーストでのんびり暮らしていた頃には、こんな理不尽に怯える必要もなかったのに。
けれど、今いちばん恐ろしいのは、醜聞そのものではない。
あの庭仕事用の小部屋にいたことを、怪しい二人組に知られてしまうことだ。
「手段を選ばない、か」
小さく呟いた途端、背中に冷たい汗が滲んだ。あの暗闇で囁かれた言葉が、今になって生々しく迫ってくる。
昨夜、小部屋へやってきた男女は、単なる男女の逢瀬を楽しんでいたわけではない。次の議会で採決される、既婚女性の財産権と法的権利を拡大する改正法案を、どう否決に持ち込むか。その算段を、声を潜めて話し合っていたのだ。
秘密を聞いたことまでは、記事に書かれていない。それでも、あの場に潜んでいたと知られれば、何を耳にしたのかを勘ぐられる可能性が高い。
「まさか、私の信用を叩き潰しに来たってこと?」
「アリアナ?」
セシリアが顔を覗き込んでくる。何でもないと答えようとしても、うまく声が出なかった。
先に醜聞を広めておけば、アリアナが何を訴えても、まともに取り合ってもらえなくなるかもしれない。そんな考えが頭をよぎり、指先がいっそう冷えていく。
「侯爵だろうが何だろうが、うちの娘を傷物にしたなど許さん。殴り込みに行ってやる」
「あなたが怪我をするに決まっているでしょう。落ち着いてちょうだい」
「デレクの作品を新聞社に売り込もうかしら。この絵師よりは、よっぽどいい仕事をするわ」
家族の声は、遠い潮騒のようにしか耳に入らない。セシリアの手が重なっているのに、冷えは少しも収まらなかった。この次は、本当に命を狙われるのだろうか。
その想像に身を強張らせたとき、玄関の呼び鈴が重々しく鳴り響いた。
*
来客の名を告げられ、一家は朝食を中断してサロンへ移った。
セシリアが長椅子に腰を下ろすのを待ってから、アリアナもその隣に座る。昨夜あんなことがあったばかりなのに、今朝は自分のことで姉を休ませることもできない状況に唇を噛む。
執事に導かれて現れたユアン・ウィリンガムは、昨夜の不格好な綿シャツ姿とは見違えるような正装に身を包んでいた。襟元から靴の先まで、隙なく整えられている。
それだけに、唇の端に残る傷が目についた。
「ユアン卿、その怪我は……」
母が引きつった声を漏らす。切れたところにはまだ赤みが差し、今朝のうちについた傷のようにも見える。
「これは、その……父と少しばかり手合わせを……」
ユアンがすっと視線を逸らしたところへ、オリビアが遠慮なく切り込んだ。
「なるほど。侯爵様にこっぴどく叱られて、この記事の責任をお取りになるためにいらしたのね」
オリビアがここぞとばかりにユアンに新聞を突きつける。
「おっしゃるとおりです」
否定も言い訳もしない返答に、オリビアがわずかに眉を上げる。ユアンは父へ向き直り、深く頭を下げた。
「昨夜は、ご令嬢を軽率な行動に巻き込みました。申し訳ありません」
「軽率で済むと思っているのかね」
低い声に、アリアナまで背筋が伸びる。ユアンは応接間の中央に立ったまま顔を上げたが、父の剣幕にひるむ様子はなかった。
「いいえ。ですから、責任を取らせていただきたいと思っています」
「責任だと?」
「アリアナ嬢との結婚を、お許しいただきたく参りました」
母の扇子が、ぴたりと止まる。
隣で、セシリアの指が膝の上のドレスをわずかに掴んだ。
アリアナはユアンを見つめた。聞き間違いかと思っても、その顔に冗談めかしたところは少しもない。
「結婚……?」
自分の声とは思えないほど、頼りない響きだった。
ユアンがアリアナへ向き直る。
「このままでは、あなたばかりが好奇の目にさらされることになります。婚約を公にすれば、少なくとも、僕があなたを弄んだという話は否定できますので」
「それで、責任を取ったことになるのですか」
「そうしなければ、あなたの将来にも、アークライト男爵家の評判にも差し障りが出るでしょう」
膝の上で、アリアナは指を握り込む。
言っていることは分かる。母が先ほどから心配しているのも、まさにそれだ。けれど、昨日初めて会話を交わし、一度だけ口づけをした相手と、噂を鎮めるために一生共に暮らす。それがどうして、当然の解決策になるのだろう。
彼の言葉には、自分への愛情など一つもない。家の評判を守るために結婚するのなら、姉セシリアを縛りつけている婚姻と、何が違うというのか。
隣を見ることができなかった。昨夜、涙を堪えていた姉の顔を思い出すだけで、胸が痛む。
そもそも陛下から爵位を賜ったのは父であってアリアナではない。貴族社会を活動の場に選んだのは自分ではなく父や母だ。それなのに、押し付けられた「貴族令嬢」という枠組みのために、なぜ自分の人生まで誰かの思惑や体裁の道具にされなければならないのだろう。
ストーンハースト領に帰って、穏やかに過ごしたいだけなのに、その願いはどんどん自分の手からこぼれ落ちていく。
アリアナは「貴族なんて大嫌い」と、子どもっぽく叫びたい衝動に駆られた。
「侯爵様も、そのおつもりで?」
母が身を乗り出す。
「はい。父の了承は得ています。正式なお話は、改めて父から」
「まあ……それでしたら……」
「お母様。アリアナは、まだ何も答えていませんわ」
セシリアの静かな声に、母の言葉が途切れた。
「それは、もちろん。けれど、侯爵様もお認めになっているのなら――」
「ソフィア」
父の一声に、母は慌てて背筋を伸ばす。
椅子の背を掴む父の手に、力がこもっていた。
「君の父上が何と言おうと、娘を渡すかどうかは別の話だ。醜聞を起こしたから結婚するというのなら、その結婚に娘が何を期待できる?」
わずかな間を置いて、ユアンは答えた。
「妻として大切にし、誠実に接することをお約束します」
「君の評判を知っていて、その言葉だけを信じろと?」
「信じていただけるよう、努めます」
穏やかな口調ながら、目を逸らそうとはしない。父の怒りを受け止めてでも、話を進めるつもりらしい。
アリアナは二人を見比べた。父が怒ってくれるのはありがたい。ユアンが逃げずに訪ねてきたことも、無責任な振る舞いとは違うのかもしれない。
それでも、今は結婚より先に話さなければならないことがある。
「お父様」
呼び掛けても、父の視線はユアンへ向いたままだ。
「この話は、そう簡単には――」
「結婚の話は、待ってください」
ようやく父がこちらを見る。
アリアナは乾いた喉を潤すように唾を飲み、息を整えた。昨夜の出来事を口にすれば、聞き違いだったかもしれないと自分に言い聞かせることも、もうできなくなる。
けれど黙っていれば、家族は何も知らないままだ。
「お父様と、ユアン卿と、三人でお話ししたいことがあります」
「アリアナ。私がいては話せないことなの?」
母が目を丸くする。
「ええ。今は」
「でも、あなたの結婚の話でしょう。母親の私が席を外すなんて」
「結婚の話ではありません」
思いのほか強い声が出て、母の顔が曇った。アリアナは膝の上の手をほどき、できるだけ落ち着いて言い添える。
「お願いします、お母様。昨夜のことで、お父様に先に聞いていただきたいことがあるんです」
オリビアが、アリアナからユアンへ視線を移した。さっきまでの面白がるような笑みは、もう消えている。
「私たちが聞いていないところで、婚約の返事をするつもり?」
「いいえ」
「それなら、後でちゃんと話を聞かせて」
「ええ、約束するわ」
頷いてから、アリアナは隣のセシリアへ顔を向けた。
「セシリアお姉様にも、後で……」
「分かっているわ」
姉はそれ以上尋ねず、アリアナの手を軽く握った。
「さっきから、ずっと手が冷たいじゃない。隠さずに、お父様へお話ししてね」
その声に、胸が詰まる。アリアナが頷くのを確かめると、セシリアは長椅子の肘掛けに手を置き、ゆっくりと立ち上がった。
オリビアがそばへ寄り、その腕を支える。
「お母様、お茶を淹れ直してもらいましょう。セシリアお姉様にも、少し休んでいただかないと」
ソフィアはなおも言いたげにアリアナを見ていたが、父が頷くのを確かめると、ようやく腰を上げた。
扉の前で、セシリアが一度だけ振り返る。
「お父様、アリアナの話を最後まで聞いてあげてくださいね」
「分かっている」
父の返事を聞いて、姉は小さく頷いた。
アリアナは、母と二人の姉が部屋を出ていくのを黙って見送った。
*ウィリンガム家=ストーンハースト侯爵です。
ストーンハーストは領地名で、ウィリンガムは苗字みたいな感じです。ちなみに、アークライト家は、経済や産業への多大な貢献が認められて陛下より男爵の称号をもらったので領地は持っていません。




