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06. 結婚に向かない男とゼロ距離

 ユアンは迷いなくアリアナの手首を掴むと、そのまま暗い収納場所へ引き込んだ。厚手のカーテンが二人の背後で滑り落ち、視界を一瞬のうちに闇で覆う。


 直後、小部屋の扉が開いた。


 どうにか間に合ったものの、収納場所はアリアナが思っていた以上に狭かった。背中は壁に押しつけられ、目の前にはユアンの胸がある。片側には棚があり、反対側には古い箒や熊手が立てかけられているため、身体の向きを変える余裕すらない。


「もう少し離れてください」


 声を潜めて訴えると、ユアンは困ったように眉を下げた。


「僕もそうしたいけれど、これ以上は無理だ」


「なら、せめてこちらを向かないで」


「向きを変えたら、後ろの箒を倒すことになる」


 それでも距離を取ろうとアリアナが身じろぎした途端、ユアンの腕が腰へ回された。驚いて顔を上げると、彼は唇の前に人差し指を立てる。


「動かないで。床が軋む」


「だからといって、こんなに近づく必要はないでしょう」


「見つかったら、傷つくのは君の評判だ。僕がどう思われようと構わないが、未婚の君が悪名高い男と二人きりで小屋にいたと知られるのはまずい」


 囁く声は思いのほか真剣だった。先ほどまで冗談ばかり口にしていた男と同一人物とは思えず、アリアナは反論を呑み込む。


 それでも、彼の言うとおり大人しくしているのは容易ではなかった。厚手とはいえ、綿のシャツ一枚を隔ててユアンの体温が伝わってくる。噴水へ落ちて身体が冷えているはずなのに、触れ合った胸元は驚くほど温かかった。


 髪にはまだ水気が残っていた。濡れた前髪が額にかかり、先ほどまでの華やかで隙のない姿とはまるで違って見える。首筋を伝った一滴の雫が、シャツの襟元へ吸い込まれていく。思わず目で追ってしまったことに気づき、アリアナは慌てて視線を逸らした。


 結婚相手として、最も選んではいけない種類の男であることは、頭では十分すぎるほど分かっている。それなのに、見目麗しい青年と息が触れそうな距離で向かい合っていると、心臓はまるで言うことを聞いてくれなかった。


 鼓動の速さを悟られたくなくて、アリアナはユアンの胸元を押し返そうとした。しかし、動かした手をすぐに掴まれ、そのまま二人の間へ閉じ込められてしまう。


「本当に離れてください」


「もう少しだけ我慢して」


「そんなことを言って女性へ近づくのが、あなたの常套手段なのではありませんか?」


「この状況でも、まだ僕を疑うんだね」


「日頃の行いのせいでしょう」


 ユアンがわずかに笑い、吐息がアリアナの額をくすぐった。顔が熱くなるのを感じたせいで、ますます腹立たしい。


 そのとき、カーテンの向こうから男女の話し声が聞こえてきた。


「暖炉に火が入っているわ。それにこの服」


 アリアナはピクリと肩をあげた。それから上を向いて「なんで置きっぱなしにしたのよ」と非難を込めた視線をユアンに送りつけた。しかし、ユアンは動じた様子もなくニコリと余裕の笑みを返してきた。


「どこかの貴族が羽目を外して休んでいたんだろう」


 扉が閉まり、内側から鍵をかける音がした。


 衣擦れの音に続いて、室内を確かめるような足音がゆっくりと動き始める。窓、洗い桶、暖炉の前と順に巡り、やがて二人が隠れている収納場所へ近づいてきた。


 アリアナが反射的に身を縮めると、背後に立てかけられていた熊手の柄が傾いた。


 ユアンは素早くアリアナの腰を引き寄せ、倒れかけた熊手を片足で押さえた。同時に、二人の身体に押されて開きかけたカーテンの端を、空いている手で掴む。


 その結果、アリアナの頬が、ユアンの胸へ押しつけられた。


 心臓の音まで向こう側に聞かれそうな距離だった。離れてほしいと訴えようにも、カーテン一枚隔てた場所には何者かがいる。アリアナは文句の代わりにユアンのシャツを軽くつねったが、彼は腰へ回した腕を緩めてくれない。


「誰もいないようね」


 カーテンの向こうから聞こえた女性の声は、先ほどまでとは別人のように低くなっていた。


「だから言っただろう。この部屋は夜になると使われない。話を聞かれる心配もない」


 男の声からも、それまでの浮ついた響きは消えている。


 二人は逢瀬のためにここへ来たのではない。


 そう気づいた途端、アリアナの背筋を冷たいものが走った。顔を上げると、ユアンも唇に指を当てている。その表情からは、人を食ったような笑みがすっかり消えていた。


「予定どおり?」


「今のところは五分五分だ」


「既婚女性に財産を持たせたうえ、妻の側から離縁を求める権利まで認めようなんて、ずいぶん酔狂な法案だもの」


 女性が嘲るように笑うのを聞きながら、アリアナは息を呑んだ。


 父とロズウェル卿が話していた法案に違いない。あのとき父は、妻の財産を夫のものとするほうが、よほど収拾がつかないと言い切っていた。


 身重のまま夫の不貞に耐えるセシリアの姿が、脳裏に蘇る。姉が離縁を望んでも、子供も財産も伯爵家に奪われてしまう。その理不尽を変えるために、父は議会で戦っていたのだ。


「どちらに転んだところで、俺たちには関係ない。支払われた分だけ、きっちり働けばいい」


「それで、アークライト男爵家は説得できそうなの?」


「無理だろう。あの織物屋は、法案成立のためなら金も人脈も惜しまない。自分の娘たちだけではなく、工場で働く女たちを守るためだと本気で信じている」


「成り上がりらしい、庶民への同情というわけね」


「厄介なのは、ストーンハーストの侯爵家まで同じ側についていることだ。あの家が動けば、追随する議員も出てくる」


 ユアンの身体が、ほんのわずかに強張った。


 アリアナはユアンの顔を見上げた。薄暗がりの中でも、その瞳から柔らかさが消えたことが分かる。腰へ回された腕にも力が加わったが、それはアリアナを抱き寄せるためではなく、音を立てて動かないよう制止するためのようだ。


「それで、二つの駒は?」


「どちらも今夜、この屋敷にいる。織物屋の娘と、ストーンハーストの放蕩息子だ」


 アリアナの胸が大きく跳ねた。


 娘とは誰を指しているのか。姉たちの顔が順に浮かんだものの、すぐに、今夜の夜会で母が自分を盛んに紹介して回っていたことを思い出す。


「採決が済むまで、どこかで大人しく客人になってもらえそう?」


「両家が物分かりよく振る舞えば、それで済むけどな」


「男爵家の娘のほうは、誰にするか決めたの」


「既婚者は利用しにくい。真ん中は扱いづらそうだ。だから未婚のアリアナ嬢がいいだろう。父親が最も近くに置いている娘らしいし」


 自分の名前が聞こえた途端、血の気が引いた。


「ウィリンガム家の放蕩息子も今夜来ているはずだ。二人には採決が終わるまで、どこかで大人しく客人になってもらう」


 アリアナは、頭を殴られたような衝撃を受けた。


 自分とユアンが狙われている。客人になってもらうなどという穏やかな言い回しをしているが、要するに二人を攫い、父とストーンハースト侯爵を脅すつもりなのだ。


「じゃ、これ前金ね」


「おう」


 重い金属の擦れ合う音が響いた。何十枚もの金貨が、革袋の中で鳴っているらしい。てっきり密会中の恋人同士だと思っていた男女が、金で雇われた工作員なのだと分かり、アリアナの指先から血の気が引いていく。


「そうだ。もし二人が抵抗したらどうする?」


「依頼者からは、手段を選ぶなと言われているわ」


 アリアナは頭を殴られたような衝撃を受けた。顔をあげてユアンを見つめる。


「いま、手段を選ぶなって――」


 驚きと怒りで、言葉が口からこぼれかけた。


 その瞬間、ユアンが素早く顔を寄せ、アリアナの声を重ねた唇で塞いだ。


 あまりにも突然のことで、何をされたのか理解するまでに時間がかかった。


 水に濡れていたはずの唇は、思いのほか温かい。逃げようにも背中は壁に押しつけられ、腰にはユアンの腕が回っている。押し返そうとして上げた手も、なぜか彼のシャツを強く掴んだだけだった。


 それでも、アリアナの頭の中は真っ白になった。


「何か聞こえなかった?」


 カーテンの向こうで、女性が声を潜める。


 こちらへ近づいてくる足音がした。


 ユアンは唇を離さなかった。カーテンの端を握ったまま、アリアナの身体を覆い隠すように身を屈めている。


 口づけは、声を封じるために触れているだけだった。それでも、これまで誰にも触れられたことのない唇に伝わる感触が、アリアナの思考をすっかり乱していく。


 自分の口を塞いでいるのは最低な男だ。女性との噂が絶えず、池へ突き落とされても笑っていられる筋金入りの放蕩者。


 分かっているのに、胸は苦しいほど激しく脈打っていた。密着した身体から伝わる鼓動が、自分のものなのか、それともユアンのものなのかもわからない。


 カーテンがわずかに揺れ、ユアンの身体に力がこもった。


「誰かいるの?」


 女性がすぐ近くで問いかけた直後、暖炉の薪が大きくはぜた。


 女性が短い悲鳴を上げ、足音がカーテンから遠ざかっていく。


「驚かせないでよ」


「古い薪が爆ぜただけだ。ここに長居する必要はない。詳しい手順は、明日の夜、いつもの場所で聞け」


「分かったわ。私が先に戻るから、あなたは時間をずらして」


 二人はそれ以上話さなかった。ほどなく鍵が外され、扉の開閉音が響く。


 足音が完全に遠ざかるまで、ユアンはアリアナの唇を塞いだままだった。やがて張り詰めていた腕から力が抜け、重なっていた唇がゆっくりと離れる。


 吐息が触れ合うほど近くに、ユアンの顔があった。暗がりの中で、その瞳だけがアリアナを真っ直ぐに見つめている。


「申し訳ない」


 先に口を開いたユアンの声は低く、冗談めいた響きは少しもなかった。


 アリアナは何か言い返そうとしたが、唇にはまだ彼の感触が残り、うまく言葉が出てこない。遅れて押し寄せてきた羞恥に頬が熱くなり、ようやく両手で彼の胸を押し返した。


「声を塞ぐにしても、ほかに方法があったでしょう!」


「両手が塞がっていたんだ。君が声を出す前に止めようとしたら、あれしか思いつかなかった」


「だからといって、普通は口づけなんてしません!」


「それについては、本当に悪かったと思っている。ごめん」


 あまりにも素直に謝られ、アリアナは振り上げかけた手を止めた。つい先ほど別の令嬢に叩かれ、赤くなった頬が目に入る。同じ場所を打つのは、さすがに躊躇われた。


 ユアンはアリアナの手を見つめたあと、さらに声を低くした。


「僕を殴るのは、ここを出てからにしてくれ。今の二人に見つからないうちに屋敷へ戻ったほうがいい」


「そうね。お父様にも知らせないと」


「知らせる必要はある。ただし、今すぐ大勢の前で騒ぐのは危険だ。誰が連中を雇ったのか分からない以上、招待客の中に仲間がいると考えたほうがいい」


 先ほどまで池に落ちて笑っていた放蕩者とは思えないほど、ユアンの判断は冷静だった。


「今夜のことは、ひとまず僕と君だけの秘密にしてほしい」


「今夜のことって、どちらのことを仰っているの?」


 自分の唇を指先で押さえながら尋ねると、ユアンはさすがに返答に詰まったらしい。気まずそうに視線を逸らした。


「できれば、両方とも」


「都合がよすぎます」


「それは認めるよ」


 いつもの笑みを戻そうとしたものの、ユアンの表情はすぐに険しくなった。


「だが、連中の話を聞いたことは、本当に知られないほうがいい。法案を潰すためなら手段を選ばない者たちだ。こちらが計画を知っていると悟られれば、何をしてくるか分からない」


 真剣な眼差しに射抜かれ、アリアナは喉の奥で息を呑み込んだ。


 あの男女が話していたのは、ただの貴族同士の駆け引きではない。アリアナとユアンを巻き込み、アークライト家とストーンハースト侯爵家、さらには国の行方まで揺るがそうとする計画だった。


「分かりましたわ。お父様へ伝える時期も含めて、慎重に動きます」


「助かるよ」


 ユアンは安堵したように息を吐くと、ずれた手袋を直すアリアナの指先へ視線を落とした。


「その代わりと言っては何だが、今夜のもう一つの秘密については、あとでいくらでもお詫びをさせてもらう」


「結構です。二度と思い出させないでくださるほうが、よほど助かります」


 アリアナが熱くなった顔を背けると、ユアンの唇が意地悪く、それでいてひどく魅力的な弧を描いた。


「それは少し難しい要求だな。僕にとっても、忘れられない夜になりそうだから」


「本当に最低ですわ、ユアン卿!」


 アリアナは今度こそ彼の足を軽く踏みつけると、収納場所のカーテンを押し開けた。


 逃げるように小部屋を飛び出すと、火照った頬を冷ますように夜風が吹きつけてくる。背後でユアンが低く忍び笑う声を、木々のざわめきがかすかに打ち消した。


 唇に残る熱と、手袋越しに伝わる硬い縫い目の感触を抱えたまま、アリアナは光のあふれる大広間を目指し、庭に面した暗い回廊を足早に進んだ。


 その途中、植え込みの奥から、誰かが草を踏みしめる音が聞こえた気がした。


 アリアナは一度だけ足を止めたものの、振り返ることができなかった。今はまだ、ユアンに奪われた唇の感触だけで頭がいっぱいだったからだ。


「もう、なんなのよ……」


 誰もいない回廊で唇を押さえ、再び歩き出した。


 あのとき立ち止まり、植え込みの奥を確かめなかったことを、アリアナは翌日になって激しく悔やむことになるのだった。

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