↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/49

05. 水が滴る女の敵

 人目につかない場所としてアリアナが選んだのは、庭園の端にある庭小屋だった。


「いいですか。ここで大人しくしていてください」


 アリアナは声をひそめ、念を押すように命じた。


 庭小屋の中は静まり返っており、小さな窓から差し込むかすかな月光だけが、うっすらと室内を照らしている。使い古された農具や木箱の匂いが漂う狭い空間は、華やかな大広間とは完全に切り離されていた。


「こんな場所に可憐な女性と二人きりになれるだなんて、池に落ちた甲斐がありました」


「能天気なことをおっしゃらないでください」


 アリアナは小さく溜息をつき、呆れたようにユアンを見下ろした。濡れた上着を脱ぎ捨て、木箱の上に腰掛けた彼の髪からは、まだ水滴が滴っている。月光を浴びて煌めくその雫さえ、どこか絵になってしまうのが忌々しい。


 小部屋には、古い暖炉と洗い桶があった。


 アリアナは迷わず暖炉に火を起こす。


「くれぐれも、大人しくしていてください」


 再度言いつけて、一旦屋敷に戻ることにした。一瞬、このまま放置しても許されるのでは? という悪戯心が頭をよぎった。


 あの不躾な視線や軽薄な口ぶりに少しはお仕置きが必要かもしれない。何より、濡れた彼を置いて自分だけぬくぬくと大広間へ戻る想像は、ほんの少し魅力的に思えたのだ。


 だが、もし彼が本当に風邪でも引いたら、後味が悪いのは自分の方で間違いない。


「……はぁ。本当に、なんでこんな羽目に」


 アリアナは小さく首を振ってため息をつくと、屋敷の裏手へと急いだ。


 保管庫に並ぶ大量のサンプル品の中から、ユアンに合いそうな服を探す。いっそ、家族会議で「イマイチだ」と満場一致で不採用になった、派手なチェック柄の試作品を着せてやろうかとも思った。


「でもな……」


 嫌がらせをしたと見透かされるのも癪だったため、結局は最も無難な、無地の厚手の綿シャツと吊りズボンを選んだ。


 急いで庭小屋に戻り、扉をそっと押し開けた瞬間、暖かい薪の匂いと爆ぜるような小さな音がアリアナを出迎えた。


 暖炉の火はすでに赤々と爆ぜており、その柔らかな熱が静かに部屋を満たしている。だが、肝心のユアンの姿がどこにもない。


「ユアン卿……?」


 アリアナが戸惑いつつ足を踏み入れた途端、影の中から伸びてきた腕にぐっと手首を掴まれた。


「あっ——」


 声を与える間もなく引き寄せられ、背中が木の壁にトンと軽く打ちつけられる。目の前に現れたのは、濡れた髪を軽く拭い、上半身を肌蹴けさせたままのユアンだった。


 暖炉の火が彼の彫りの深い輪郭を怪しく浮かび上がらせ、青い瞳が至近距離でアリアナを射抜く。


「遅かったね。寒さで凍えてしまうかと思いました」


「……っ、驚かせないでください! それに、服を着てから喋ってください!」


 アリアナはカッと頬を熱くしながら、抱えていた綿シャツとズボンを彼の胸に押し付けた。逃げようと身を引こうとしたが、ユアンの手はアリアナの腰の後ろ、壁へと添えられたまま退いてくれない。


「サンプル品にしては上等な手触りだ。君が選んでくれたなら、どんな服でも着るつもりだったのに」


「不採用になった派手なチェック柄にしなかったことを、いま心底後悔していますわ」


 アリアナが唇を尖らせて睨みつけると、ユアンは胸を揺らして低く笑った。その息が耳をかすめ、頬に熱がこもる。


「……からかわないでください。早く着替えて」


 アリアナは顔を背けながら、胸元に押し当てた服をぐいと押し返す。これ以上彼の温もりを感じていると、心音まで伝わってしまいそうで恐ろしい。


「怒らせてしまいましたか?」


 ユアンは苦笑を漏らしながらも、素直にアリアナの腰から手を離すと、差し出された服を受け取った。


 拘束から解放されたアリアナは、逃げるように二、三歩後退りし、パタパタと手で熱した頬を煽る。後ろを向いたまま「着替えが済んだら、扉を叩いてください」と告げると、逃げるように小部屋を出た。


 外で待つあいだ、冷えた指を胸元で握り合わせる。こちらには何も後ろめたいことなどないというのに、男の着替えを扉の前で待っているというだけで、ひどく落ち着かない。


「なんだか、今日は男運が最悪だわ」


 アリアナは夜空を仰ぎ、小さくため息をついた。


 雲の合間から覗く月は、今夜起きた不条理な出来事のすべてを嘲笑うかのように、冷たい光を投げかけている。


 身重の姉を傷つける最低な義兄と、目の前の小部屋で着替えている筋金入りの放蕩者。貴族社会に生きる男というものへの失望が、夜風とともに身へ染み込んでくるようだった。


「あの人だったら、こんなことはしないのに……」


 ひとり呟くと、アリアナの心は遠いストーンハーストへ向かった。


 牧場と麦畑が広がる、生まれ故郷の田舎町。そこには、幼馴染のサイモンがいる。


 彼は、アリアナが男爵令嬢になるよりもずっと前からの友人だった。二人で肩を並べて丘を駆け、血悪の森を探検して遊んだ。あの頃のサイモンを思い出すと、今でも胸の奥が少しだけ温かくなる。


 いつか彼のもとへ戻り、王都にはない静けさと穏やかさの中で暮らせたらいいのに。


 それが、アリアナのひそかな夢だった。


 今は遠くなってしまった故郷を思いだしていると、扉が内側から二度叩かれた。


「現実は、そう簡単にはいかないわよね」


 小さくため息をつき扉を開けた。


 仮の服に着替えたユアンは、肩幅こそぴったり合っていたものの、シャツの袖とズボンの裾が少しばかり短く、どことなく不格好に見えた。


  ところが、当の本人は気にした様子もなく、短いシャツの袖を二度ほど折り返し、ズボンの裾を軽く整えた。そうして腕を曲げ伸ばしすると、心から感心したように呟く。


「驚いたな。生地が柔らかくて、ずいぶん動きやすい。さすが、アークライト・ファブリック商会の服だ」


「お言葉ですが、高級な絹や羊毛になじんだあなたには、ただの粗末な服にしか見えないと思っていました」


 アリアナは棘のある声を返しつつ、温まり始めた暖炉の前へユアンを促した。


 袖が短く、手首の覗いている彼は、先ほどまでよりもずっと普通の青年に見える。アリアナはタオルを渡すと、火ばさみを手に取り、燃え始めた薪の位置を整えた。


 しばらくは薪の爆ぜる音だけが室内に響いていたが、居心地の悪い沈黙に耐えかね、アリアナのほうから口を開いた。


「先ほどの方には、きちんと謝ったほうがいいわ」


「そうします」


「結婚するつもりもないのに、相手を期待させるなんて最低な行為だもの」


 渡されたタオルで首元を拭いていたユアンの手が止まる。


「結婚しないことは、最初から二人で決めていました」


「それでも、傷つくことはあるでしょう」


「ええ。だから、冗談で済ませようとしたのは僕の間違いです」


 素直に非を認められると、かえって次の言葉に困ってしまう。アリアナが誤魔化すように薪を動かすと、赤い火の粉が小さくはぜた。


「男性は、そうやって謝れば、女性は何でも許すと思っていらっしゃるんだわ」


「何かあったんですか?」


「何もありません」


「では、僕のしたことだけで、そこまで怒っている?」


 顔を上げてユアンを見た瞬間、アリアナは姉の冷たい手を思い出した。


「夫が何をしても、妻は平気な顔をしていなくてはいけないんですって。私は、そんな結婚は嫌です」


 ユアンは笑わなかった。タオルを膝へ置き、しばらくアリアナの顔を見つめていた。


「それなら、我慢しなくていい相手を選ぶべきです」


「簡単に見分けられるなら、誰も苦労しません」


「確かに、そのとおりだ」


 ユアンは低く声を揺らし、心の底からおかしそうに笑った。


 貴族たちが社交場で浮かべる完璧で嘘めいた微笑みでも、相手を煙に巻くための軽薄な作り笑いでもない。胸の奥から押し出されたような、飾りのない本物の笑い声。


 薪の爆ぜる橙色の光に照らされて、彼の目元が柔らかく緩む。その屈託のない表情があまりに眩しくて、アリアナは思わず瞬きを繰り返した。


 それからハッと気付いて、暖炉に顔を向ける。


「何がそんなにおかしいの?」


「あなたが、僕に少しも愛想よくしてくれないことが」


「愛想よくする必要があります?」


「ありません。あなたの実家は、僕の家に媚びを売らなくても十分にやっていける」


 からかわれているのだと思う。それでも、ユアンの声には嫌な響きがなく、アリアナはどう返せばよいのか分からなかった。


 ユアンが椅子から立ち上がり、暖炉のそばまで歩いてくる。火ばさみを手にしたアリアナは、彼から距離を取る機会を失い、その場でわずかに身を強張らせた。


 そのとき、扉の向こうから誰かの足音が聞こえてきた。


 アリアナが顔を上げると、ユアンも笑みを消し、戸口へ視線を向けた。近づいてくるのは一人ではない。何かを囁き合う男女の声が、足音とともに次第にはっきりと聞こえてくる。


「ここなら、平気?」


「庭師が使う部屋だ。こんな時間には誰も来ないさ」


 声や話し方からすると、夜会へ招かれた貴族の男女らしい。人目を忍んで二人きりになれる場所を探し、ここまで来たのだろう。


 よりによって、どうして今夜はこうも男女の密会に出くわすのか。


「どうしよう」


「窓から出るのは?」


「このドレスで?」


 壁に設けられた小窓は、人ひとりがどうにか通り抜けられる程度の大きさしかない。しかも、その下には庭仕事に使う道具が積み上げられていた。ドレス姿で無理によじ登れば、大きな音を立ててこちらの存在を知らせることになる。


「そうだ。扉を押さえましょう」


 アリアナは火ばさみを置き、扉へ駆け寄ろうとした。しかし、ユアンがすぐに首を横へ振る。


「扉が開かなければ、余計に怪しまれるよ。屋敷の敷地内に不審者がいると、大騒ぎになっても構わないのなら止めないけれど」


 ユアンは室内を見回したあと、部屋の奥を仕切っている厚手のカーテンへ目を留めた。その向こうには、庭師の作業着や予備の布、掃除道具などを収めるための狭い収納場所がある。


 身を隠すには都合がよさそうだったが、どう見ても二人で入るには狭すぎる。


「あ、私だけ隠れればいいんだわ」


 アリアナの提案に、ユアンは呆れたように片方の眉を上げた。


「僕一人をここに残して、あの二人を迎えろと? 他人の服を着た僕が、夜会の最中にこんな部屋へ一人でいたら、それこそ大騒ぎになる」


「でも、二人であそこに隠れるなんて――」


「文句を言っている時間はないみたいだ。ほら、来るよ」


 足音は、すでに扉のすぐ外まで迫っていた。


 アリアナが振り返るより早く、扉の取っ手が音を立てて回り始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。