04. 池に落ちた放蕩者
やめておけと脳のどこかで警告が鳴っていた。それでも、くだらない好奇心というものは、いつだって理性の制止を振り切ってしまう。
アリアナが声のしたほうへ目を凝らすと、植え込みが作る濃い影の中に、二人の姿が浮かび上がった。
一人は、ドレスの装飾からしてアリアナより年上の令嬢だと分かった。淡いパステルカラーや多重のレースで若々しさを誇示する若手とは異なり、くすんだワインレッドの上質な生地を主役にした、無駄のない洗練されたシルエット。だが、彼女の顔からはすっかり血の気が引いていた。握り潰さんばかりの圧力がかかった扇子は、細い竹骨が手元の震えに合わせて今にも悲鳴を上げそうだった。
その令嬢と向かい合うように、背の高い青年の影が夜の庭へ長く伸びている。
「だから、それは誤解だと言っているだろう?」
「何が誤解よ! 昨日はエレノア嬢と観劇に行っていたそうじゃない!」
「彼女とは偶然、劇場で会っただけだ」
「先週はマーガレット嬢と乗馬をしていたでしょう!」
「あれは彼女の兄も一緒だった」
「その前は?」
「その前?」
「アンナ嬢よ!」
「ああ、それは――」
「最低!」
乾いた音が響き、令嬢の平手が青年の頬を見事に打ち抜いた。
アリアナは思わず目を見開いた。ところが、叩かれた青年は怒るでもなく、赤くなった頬を押さえて困ったように息を吐いただけだった。
「少しは話を聞いてくれないか」
「聞きたくないわ!」
令嬢は勢いよく踵を返した。そのまま立ち去るのかと思いきや、二歩ほど進んだところで突然振り返り、青年の胸を両手で思いきり突き飛ばす。
「ちょっと待っ――」
青年の背後には、水をなみなみとたたえた噴水の池があった。
盛大な水音が、静かな夜の庭園に響き渡る。
「そこで一晩、頭を冷やしていればいいのよ!」
令嬢はそれだけ言い残すと、今度こそ足早に去っていった。
あとに残されたのは、静けさを取り戻した庭と、噴水の池へ落とされた男。そして、偶然その一部始終を見てしまったアリアナだけだった。
関わらないほうがいいと、即座に判断する。
つい先ほど、姉の夫の不貞を目撃したばかりだ。これ以上、女性関係でもめている男に関わる理由など一つもない。何も見なかったことにして戻ろうと踵を返しかけたところで、背後から水音が聞こえた。
「そこのご令嬢」
呼び止められたが、聞こえないふりをして歩き続ける。
「申し訳ないが、少し手を貸してもらえないだろうか」
足を速めても、青年は諦めなかった。
「待ってくれ。さすがに無視されると傷つく」
「池に落ちたくらいで死にはしないでしょう」
堪えきれずに返してしまい、自分の失敗に気づいた。しかし、すでに遅い。
「やはり聞こえていたんじゃないか」
どこか楽しそうな声が返ってくる。
仕方なく振り返ると、青年は池の中に座り込んでいた。正確には、尻もちをついた姿勢のまま、助けを求めるように濡れた腕を持ち上げている。
「そこで笑っている暇があるなら、手を貸してもらえませんか」
「笑っていません」
「でも、ずいぶん楽しそうな目をしている」
青年は月明かりを浴びながら、濡れた髪を無造作にかき上げた。すらりと長い手足を持つ彼は、これほど惨めな状況に置かれているというのに、その姿さえ絵になるほど整った顔立ちをしていた。
夜の闇を閉じ込めたような黒髪が額に張りつき、そこから滴る水が、高い鼻梁から滑らかな頬へ伝い落ちていく。濡れた唇には、この状況を面白がっているような余裕のある笑みが浮かんでいた。
その美貌には、見る者を一瞬で惹きつける華やかさと、毒のある花を思わせる危うさが同居している。
アリアナも思わず見入ってしまったが、すぐにどこかで見たことがある顔だと思い当たる。
実際に面と向かって話したことはない。それでも、社交界に出入りしていれば、嫌でも耳に入ってくる名前がある。
美しい容姿と侯爵家の跡取りという恵まれた身分を持ちながら、女性関係の噂が絶えない男。夜会へ出れば必ず誰かしらの令嬢と浮き名を流し、姉のオリビア以上に社交新聞を賑わせてきた筋金入りの放蕩者。
ユアン・ウィリンガム、二十五歳。
よりによって、アリアナが帰りたいと願っているストーンハーストを治める侯爵家の嫡男だった。
「最悪だわ」
「初対面の女性に、そこまで露骨に嫌そうな顔をされたのは初めてだな」
ユアンは池に落とされたとは思えないほど悠然としている。
「助けていただけないだろうか、アリアナ・アークライト嬢」
名前を呼ばれ、アリアナはさらに眉をひそめた。
「どうして私をご存じなのですか?」
「主催者の娘を知らずに来たと思う?」
言われてみれば、そのとおりだった。だからといって、警戒心が薄れるはずもない。むしろ先ほど目撃した光景を思い出し、アリアナの視線はますます冷たくなった。
「ご自分で上がればよろしいのでは?」
「それができれば、とっくにそうしている」
ユアンは池の縁へ手をかけて立ち上がろうとした。しかし、水を吸った服は重く、濡れた革靴が底の石に滑り、再び水の中へ沈みかける。
どうやら、本当に一人では上がれないらしい。
アリアナが無言で眺めていると、ユアンが助けを求めるように眉を上げた。
「アリアナ嬢?」
「何をしたんですか?」
「何が?」
「女性に池へ突き落とされるなんて、普通に生きていれば滅多に経験しないと思いますけれど」
「僕もそう思う」
「原因はあなたでしょう?」
「ずいぶんな決めつけだね」
「先ほどのお話が聞こえていましたから。何人もの女性と遊んでいらっしゃるとかなんとか」
ユアンが意外そうに目を瞬いた。その反応すら、腹立たしい。
つい先ほど、妻を裏切っておきながら、「男には息抜きが必要だ」と平然と言い放った義兄を見たばかりだ。アリアナの中で、池に落ちた男と義兄が、女性を傷つけても反省しない同類として同じ箱へ至極簡単に収められていく。
「なるほど。君は僕を女たらしだと思っているわけだ」
「違うのですか?」
「説明しても、信じてもらえそうにないな」
「それなら、説明していただかなくて結構です」
アリアナは再び踵を返した。
「待ってくれ」
「嫌です」
「この格好で広間へ戻れば、明日の新聞に載ってしまう」
「いつものことでしょう?」
「なかなか手厳しいな」
背後から、ユアンが笑う気配が伝わってきた。この状況でどうして笑えるのか、アリアナにはまるで理解できない。
「お願いだ、アリアナ嬢」
先ほどまでとは少し違う、真面目な声音に呼びかけられ、アリアナは足を止めた。
「せめて、人目につかずに着替えられる場所まで案内してくれないか。このまま屋敷の中を歩けば、僕だけではなく、君の家の夜会まで妙な噂の種になる」
その言葉を聞いて、アリアナは振り返った。
自分のためではなく、アークライト家の夜会への影響を持ち出したところが狡猾だ。この男は、アリアナが何を言われれば断りにくくなるのか、きちんと分かっている。
「卑怯ですね」
「よく言われる」
「褒めていません」
「分かっているよ」
ユアンが笑った。全身ずぶ濡れになっているくせに、その笑顔だけは腹立たしいほど様になっている。
アリアナは大きく息を吐くと、諦めて池の縁まで歩み寄った。
「今回だけですからね」
「恩に着るよ」
差し出された手を、アリアナは渋々掴んだ。
姉の夫の裏切りを目の当たりにし、結婚など絶対にしたくないと思った夜に、よりによって筋金入りの放蕩者と出会ってしまった。
このときのアリアナはまだ、池から引き上げたこの男によって、自らの結婚観も、故郷への思いも、これから歩む人生さえも、大きく揺さぶられることになるとは知らなかった。




