03. 私は、嫌よ
夫の不貞行為を目撃したというのに、一切動じずその場を離れることを選んだ姉に引かれ、アリアナは広間に戻る道を歩く。背後から伯爵が追いかけてくる気配はない。それどころか、少し離れたところまで来ると、先ほどの女性が何事もなかったかのように笑う声まで聞こえてきた。
「なんなの、あの女」
思わず振り返ろうとしたアリアナの腕を、セシリアが強く引く。
「見なくていいの」
「でも、お姉様」
「アリアナ」
もう一度名前を呼ばれ、アリアナは言葉を呑み込んで唇を噛んだ。
人気のない回廊まで来たところで、セシリアはようやく足を止めた。
「ごめんなさいね。嫌なものを見せてしまって」
「どうしてお姉様が謝るの?」
思わず声が大きくなる。
「あの人が悪いのでしょう? お姉様は何も悪くないじゃない」
「声を抑えて。誰かに聞かれるわ」
「聞かれたって構わないわ。むしろ、みんなに知られればいいのよ。妻が身重だというのに、その妻の実家で開かれている夜会で、別の女性とあんなことをしていたのよ? 恥をかくべきなのはセシリア姉様ではなく、あの人でしょう?」
怒りに任せて言い切ると、セシリアは困ったように眉尻を下げた。
「あなたは昔から変わらないわね」
「何が?」
「曲がったことが大嫌いなところよ」
「お姉様だって嫌でしょう?」
問い返すと、セシリアの笑みがわずかに消えた。その変化を見た途端、アリアナの胸に嫌な予感が広がる。
「まさか、知っていたの?」
セシリアは答えなかった。
「お姉様、知っていたの?」
「ええ、知っていたわ」
あまりにも静かな返事に、アリアナは言葉を失った。
「あの方だけではないわ。ほかにも何人かいるみたい」
「何人かって……」
「結婚して三年でしょう? その間に、いろいろあったのよ」
まるで天気の話でもするような口調だった。しかし、セシリアの手は腹部を覆ったまま、少しも動こうとしない。そこには、まだ生まれていない姉の子供がいる。
「だったら、どうして何も言わないの?」
「言って、どうなるの?」
セシリアの問いかけに、アリアナは一瞬、答えに詰まった。
「お父様に言えばいいわ。お父様なら、絶対にお姉様の味方をしてくれる。あの人の家が困窮していたとき、助けたのはアークライト家でしょう? お姉様が持参金を持って嫁いだから、伯爵家だって立て直せたのに」
「だからこそよ」
「どういうこと?」
「私はアークライト家から多額の持参金を持って、あの家へ嫁いだ新興貴族の娘なの。夫が少しくらい女性と遊んだからといって騒ぎ立てれば、世間から何と言われると思う?」
セシリアは自嘲するように唇を歪めた。
「成り上がりの娘は貴族の妻としての心得もない。夫の多少の火遊びすら許せない。金で伯爵家に入り込んだくせに、今度は家の中まで支配するつもりなのかとでも言われるでしょうね」
「そんなのおかしいわ」
「ええ。おかしいわね」
あっさりと肯定されて、かえって何も言えなくなった。セシリアも納得しているわけではないのだ。それでも、理不尽を受け入れるしかない理由があるのだろう。
「それに、私はもう一人ではないもの」
セシリアの手が、膨らんだ腹部をゆっくりと撫でる。
「この子が生まれるの。私が感情のままに騒げば、この子にまで余計な噂がついて回るかもしれない。それだけは避けたいわ」
「だからって、お姉様だけが我慢するなんて……」
「これが、貴族の結婚よ」
その言葉は諦めというより、すでに何度も自分へ言い聞かせてきた呪文のように聞こえた。
「離婚すればいいじゃない。お姉様が、あんな男のために我慢する必要なんてないわ」
「簡単に言わないで」
それまで穏やかだった姉の声が、初めて硬くなった。
「私が離縁を望んだところで、この子は伯爵家の子として引き取られる。財産だって、私の手元には何も残らない。実家へ戻ったところで、出戻りだと後ろ指をさされるだけよ。好きとか嫌いとか、そんな単純な話ではないの」
アリアナは言葉を失った。
伯爵を愛しているのか、すでに愛していないのか。それすら曖昧なまま、セシリアはこの婚姻制度の中に閉じ込められている。逃げたくても、生まれてくる子供と一緒に逃げられる場所がないからだ。
これこそが貴族の結婚の正体なのだと、思い知らされた。
セシリアは昔から美しかった。夜会に出れば誰もが振り返り、母が望んだとおり由緒ある伯爵家へ嫁いだ。結婚式の日には、誰もが羨む良縁だと祝福したし、アリアナも姉は幸せになるのだと信じていた。
しかし、華やかな祝福の先に待っていたのは、こんな未来だったのだ。
「私は嫌よ」
胸の奥から込み上げた言葉が、気づけば口をついて出ていた。
「何が?」
「そんな結婚」
アリアナは姉の腹部へ目を落とした。
「夫が何をしても妻だけが我慢して、それを貴族の妻として当然だと言われるくらいなら、私は結婚なんてしたくない」
「アリアナ」
「絶対に嫌よ」
セシリアはしばらくアリアナの顔を見つめたあと、小さく息を吐いた。
「だったら、あなたは私のようにならないで」
「お姉様……」
「自分で選びなさい。家柄でも、お金でも、お母様の期待でもなく、あなたが一緒にいたいと思える人を」
アリアナは目を瞬いた。
脳裏に浮かんだのは、十一歳まで住んでいたストーンハーストの景色だった。風に揺れる麦畑と、のどかな牧場。その向こうにある小さな丘で、記憶の中のサイモンが笑っている。
「いるのでしょう?」
「え?」
「あなたが一緒にいたいと思う人」
図星を突かれ、思わず姉から視線を逸らした。
「べ、別に、そういうわけでは……」
「あなたは昔から、嘘をつくのが下手ね」
セシリアが、久しぶりに姉らしい笑みを浮かべた。
「さあ、戻りましょう。お母様が本当にあなたを探しているわ。今夜こそ良い方を紹介するのだと、張り切っていたから」
「今の話をした直後に、よくそんなことが言えるわね」
「それとこれとは別よ」
「私にとっては同じよ」
アリアナはげんなりした。今しがた結婚への不信を深めたばかりだというのに、これから母が選んだ結婚相手候補と愛想笑いを交わさなければならないらしい。
「お姉様は先に戻っていて。私は少し風に当たってから行くわ」
「でも……」
「大丈夫よ。逃げたりしないから」
「その言い方をする人は、たいてい逃げるものよ」
姉の指摘は正しかったが、今は一人にしてほしかった。セシリアもその気持ちを察したのか、それ以上は追及しなかった。
「分かったわ。でも、あまり遅くならないでね」
「ええ」
侍女を伴って去っていく姉を見送り、アリアナは深く息を吐いた。
胸の中は、ほどけた糸が絡み合ったように乱れていた。姉の夫も、その振る舞いを許してしまう社交界も、妻だけに我慢を強いる結婚という制度も、何もかもが腹立たしい。
このまま大広間へ戻れば、母に紹介された男性へ、何事もなかったように笑顔を向けなければならない。今のアリアナには、それだけは到底できそうになかった。
少しでも気持ちを鎮めようと、庭の奥へ向かった。
歩みを進めるにつれて夜会の喧騒は遠ざかり、代わりに木々を揺らす夜風の音が耳に届く。庭園の中央には月明かりを映した大きな噴水があり、その周囲に招待客の姿はほとんどなかった。
ようやく一人になれると思い、肩の力を抜いた矢先だった。
「あなたって、本当に最低の男性だわ!」
甲高い女性の声が庭園に響き渡り、驚いて足を止めた。
どうやら今夜は、男女の揉め事にとことん縁があるらしい。




