02. 貴族の結婚に愛人はつきものらしい
夜会が始まって二時間ほどが過ぎた頃、アリアナは広間の人混みから逃れるように廊下へ出た。
結婚適齢期を迎えたアリアナの相手探しに精を出す母からは、「そんな顔をしていたら、素敵な男性に逃げられてしまうわよ」と言われたものの、これ以上、誰がどこの家の息子なのかを覚える気力は残っていなかった。
「少し風に当たらないと、香水の匂いで窒息しそうだもの」
一人で抜け出すための真っ当な理由を口にしながら、庭に面した回廊を歩いていたときだった。テラスの奥、庭園へ続く暗がりに人影が見えた。
思わず足を止めると、夜風に乗って男女の話し声が届いた。
「今夜は、奥様もいらっしゃるのでしょう?」
「彼女は家族水入らずの時間を楽しんでいるだろうからね。邪魔をしては悪いだろう?」
男の声に聞き覚えがあった。
まさかと思いながら回廊の柱の陰に身を潜め、暗がりへ目を凝らす。
月明かりがかすかに照らす庭園の端で、扇子を弄びながら男に寄り添っていたのは、見知らぬ美しい女性だ。艶やかなブロンドの髪を片側へ流し、小さなカクテル帽を斜めにかぶっている。帽子にあしらわれた繊細なレースのベールが、思わせぶりに細められた目元を淡く陰らせていた。
その隣で、女性の腰へ優しげに手を回している男の横顔を認めた瞬間、アリアナは息を呑んだ。
男は、一番上の姉、セシリアの夫であるグレアム伯爵だった。
二人の距離は、単なる知人で通るような近さではない。
「まあ、お上手なこと。でも、奥様が着ていらしたドレスの布地は、とても美しかったわ。王妃陛下にもお納めしているという、アークライト家の新作でしょう?」
「ふん。成り上がりの織物屋が気取ったところで、所詮は成金の道楽だ。いくら高級な糸を使おうと、育ちの卑しさまでは隠せはしない」
伯爵は嘲笑を交えて言い放つと、女性の肩を抱き寄せた。
「君のような気品ある女性がまとってこそ、絹も輝くというものだ」
女性の甲高い忍び笑いが、夜の庭に響く。
気づいたときには、アリアナは柱の陰から出て、暗がりへ向かって足を踏み出していた。
「失礼ですが」
伯爵が振り返る。ところが、妻の妹に不貞現場を見られたというのに、その顔には悪びれた様子など欠片もなかった。
「これはアリアナ嬢。夜会を楽しんでいますか」
「そちらこそ、ずいぶん楽しんでいらっしゃるようですね。姉が身重で自由に動けないのをいいことに」
アリアナの皮肉を受けても、伯爵は煩わしそうに肩をすくめただけだった。
「そう睨まないでいただきたい。男には多少の息抜きが必要なものです。妻もそれくらいは分かっていますよ。彼女は聡明な女性ですから」
平然と紡がれた言葉に、アリアナは目の前が赤く染まるほどの怒りを覚えた。
「あなたは姉の気持ちを、一度でも聞いたことがあるのですか」
「アリアナ嬢は、まだ結婚というものをご存じないから、そう仰るのでしょうね」
伯爵は、世間知らずの子供をあやすような笑みを浮かべた。
「愛や誠実さなど、絵本の中だけの話ですよ。貴族の婚姻とは、家と家を結ぶ契約にすぎない。妻は伯爵家の家名を手に入れ、我が家は男爵家の資金を得た。それだけで、互いの役割は十分に果たされているのです」
幼子に世の理を噛み砕いて聞かせるような、余裕に満ちた口調だった。その傍らでは、ブロンドの女性がレースのベールの下に嘲るような笑みを隠している。
「では、姉が流した涙も、あなたにとっては契約の誤差にすぎないのですか?」
アリアナの声が震えたのは、恐れていたからではない。抑えきれない憤怒のせいだった。
夫の好みに近づこうと、柄にもなく華やかな刺繍を学んでいた姉の姿が脳裏をよぎる。その思いを踏みにじっておきながら、目の前の男には罪悪感すらないらしい。
「セシリアが涙を? それは情緒不安定になっているせいでしょう。命を宿せば、女性は気持ちが変わりやすくなるものですから」
事もなげに言い放つ伯爵の瞳には、妻への敬意も、生まれてくる子への慈しみも感じられなかった。アリアナの目には、成り上がりと蔑む家から注ぎ込まれる金銭への冷酷な計算と、己の欲望を当然の権利として満たそうとする傲慢さしか映らない。
これが、貴族の結婚なのだろうか。姉が選ばされた人生であり、父と母が選び、自分がいまだに溶け込めずにいる世界の現実なのだろうか。
アリアナは自分で縫い直した手袋の親指を、反対の手でそっと握りしめた。つないだ糸の感触が、冷え切った指先に確かな熱を取り戻してくれる。
「お言葉ですが――」
なおも言い返そうとしたとき、背後から伸びてきた手に肩を掴まれ、言葉を飲み込んだ。
「アリアナ」
その声を聞いた途端、彼女は天を仰ぎたい気持ちになった。
「セシリア姉様……」
振り返ると、そこには腹部の膨らみが目立ち始めたセシリアが立っていた。
姉が身にまとっているのは、夫の瞳の色に合わせた深みのあるサファイアブルーのドレスだった。夫への献身と愛の証として選んだはずのその色が、月明かりの下で皮肉なほど鮮やかに夜の闇へ溶け込んでいる。
「お姉様、どうしてここに……」
震えそうになる声を必死に抑えて尋ねると、セシリアは小さく首を横に振った。腹部にそっと手を添えるその姿が、かつて工場の裏庭で幼いアリアナを守るように抱きかかえていた母と重なる。
「お母様があなたを探していたわよ。紹介したい方がいるんですって」
セシリアの口調は静かで、いつもと変わらず穏やかだった。しかし、背後に控える侍女の掲げたランプは、暗がりに寄り添う男女の姿を容赦なく照らし出している。
伯爵は一瞬だけ表情を強張らせたものの、すぐに鼻で笑い、気取った仕草で胸元を整えた。
「セシリア。アリアナ嬢が少々誤解をしているようだったから、なだめていたところだよ」
「ええ。お手数をおかけして申し訳ございません」
セシリアは腹部を庇うように手を添え、夫へ優しく微笑んだ。その顔には驚きも怒りもなく、ただ静かな諦めだけが浮かんでいるように見えた。
「セシリア様、今日もとてもお美しいわ」
伯爵の隣に立つ女性が、真紅の薔薇の花弁を思わせる唇を柔らかく綻ばせる。
「ありがとうございます」
セシリアは穏やかに応じた。その声が少しも乱れていないことが、かえって耐え難かった。
「母の使いで妹を探しておりましたの。失礼しますわ。さあ、行くわよ」
セシリアはアリアナの腕を取ると、それ以上夫を見ることなく歩き出した。
「お姉様、待って」
「話はあとで聞くわ」
穏やかな声だったが、有無を言わせない響きがあった。




