47. 帰るべき家が増えるということ
結婚式の朝、アリアナは鏡の前に座り、手袋に包まれた親指を何度も撫でていた。
今日のために仕立てられた手袋は、指先から手首まで寸分の狂いもなく馴染んでいる。縫い目に歪みはなく、親指のつけ根に余分な布が浮くこともない。
それでも確かめずにはいられないのは、緊張すると縫い目へ触れることが、いつの間にか癖になっていたからだ。
「まだ気になるところがあるの?」
鏡越しにオリビアが尋ねる。
アリアナはようやく親指から手を離し、小さく首を横へ振った。
「いいえ。どこにも直すところがないから、かえって落ち着かないだけ」
「式の直前まで針を持とうとしないでよ。ほつれを見つけても、今日は職人に任せるの」
「分かっているわ」
「本当に?」
疑わしそうに尋ねながら、オリビアはアリアナの肩へ流れるヴェールを整えた。
純白のウェディングドレスに使われているのは、父の工場で、この日のために織られた絹だった。光沢は華美になりすぎず、身体を動かすたびに、真珠の内側にも似た柔らかな光が生地の上を滑っていく。
この一着が完成するまでには、文字どおり紆余曲折があった。
生地の選定から裾の長さ、真珠の数に至るまで、家族全員が意見を譲らなかったのだ。
特に父は、縦糸と横糸を二本ずつ引き揃えて密に織り上げた、新しい絹地を全面に使うと主張した。丈夫で形崩れしにくく、アークライトの織機技術を示すには最適だというのが、その理由だった。
しかし母は、婚礼衣装には、もう少し優雅な光沢が必要だと譲らない。オリビアも、丈夫さばかりを追求しては布の落ち感が損なわれ、花嫁が鎧をまとっているように見えると反対した。
『鎧とは何だ。これほど織り目の美しい布は、ほかにないぞ』
『美しい布を使えば、無条件に美しいドレスになるわけではないの。お父様は織機のことしか考えていないでしょう』
『生地を知らずに、服の形だけを考えても意味はない』
『私は、生地の張りまで計算して描いているわ!』
やがて母とセシリアまでオリビアに加勢し、アークライト家の女性陣対頑固な父という構図ができあがった。家族会議が、生地見本を挟んだ全面戦争へ発展しかけたことも、今となっては微笑ましい思い出だ。
結局、父自慢の絹はドレスの中心となる部分へ使い、袖や裾には、オリビアが選んだ軽やかな生地を組み合わせることで決着した。父は最後まで不満そうだったが、完成した試作品を見ると、「悪くない」と一言だけ呟いて目を細めた。
アークライト家の言葉に訳せば、それは最高の出来だという意味だった。
「本当に、よく似合っているわ」
ヴェールを留め終えたオリビアが、満足そうにアリアナの両肩へ手を置く。
鏡の中には、純白のドレスと繊細なレースに包まれた花嫁が映っていた。それが自分なのだと、アリアナにはまだ実感できない。
幼い頃に思い描いた、おとぎ話の姫君とは違う。王子に選ばれ、ただ迎えを待っていた少女でもない。疑い、悩み、傷つき、それでも自分の意思でユアンを選んだ。これは、自分の足で彼のもとへ歩いていくためのドレスだった。
織り上げられた糸の一本一本に、家族の愛情と、ここへ至るまでの日々が込められているように思える。
「オリビア姉様」
「何?」
「このドレスをデザインしてくれて、ありがとう」
「まだ式も始まっていないのに、お礼を言うのは早いわよ」
オリビアは得意げに鼻を鳴らしたものの、口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
鏡の中のドレスを改めて眺めてから、オリビアはわずかに首を傾げる。
「でも、少しだけ我が家を主張しすぎたかもしれないわね」
その言葉を受け、アリアナも鏡の中の自分へ目を凝らした。
ドレスの土台となったのは、父が最後まで譲らなかった高密度の絹地である。胸元と腰回りには、母が選び抜いた小粒の真珠が、光の粒を散らすように縫いつけられていた。
袖からヴェールへ続く繊細なレースは、セシリアが勧めた職人が、一針ずつ手仕事で編み上げたものだ。
そして裾を縁取る蔓模様には、ストーンハーストの麦と、アークライトの歯車の刺繍に紛れて、セシリアの息子ノエルが誕生した日に加えられた、小さな蕾が散らされていた。
父の技術と、母の美意識。セシリアの穏やかな優しさと、新しく家族へ加わったノエルの印。そのすべてを、オリビアが一着のドレスへ見事にまとめ上げてくれた。
「確かに、アークライト家をそのまま着ているみたいね」
「今ごろ気づいたの?」
「侯爵家の婚礼なのに、よかったのかしら」
「いいのよ」
オリビアは迷いなく答えた。
「あなたはウィリンガム家へ嫁ぐけれど、アークライト家の娘でなくなるわけではないでしょう?」
肩へ置かれた姉の手に、優しく力がこもる。
「生まれ育った家も、仕事も、これまで生きてきた時間も、全部持っていけばいいの。誰かの妻になるために、今までの自分を置いていく必要なんてないわ」
アリアナは鏡に映るオリビアと目を合わせた。
胸の奥へ込み上げてきたものを堪えるように、ゆっくりと息を吸う。
「そうね」
改めてドレスを見下ろし、スカートの裾へ指先で触れた。
「これくらい主張したほうが、私らしいわ」
「そうでしょう? このドレスを見れば、侯爵家の誰だって、あなたの後ろにどれほど頼もしい家族がいるか分かるもの」
「それでは、ウェディングドレスというより、宣戦布告みたいじゃない?」
「結婚は家同士の交渉でもあるのよ。最初が肝心だわ」
オリビアが真顔で言うため、アリアナは堪えきれずに笑った。
張り詰めていた緊張が、少しずつほどけていく。鏡の中では、アークライト家のすべてをまとった花嫁が、先ほどよりも自然な顔で笑っていた。
「きれいよ、アリアナ」
長椅子に座っていたセシリアが、柔らかな声で言った。
その腕には、半年前に生まれたノエルが抱かれている。眠っている小さな頭には、アリアナが縫った二作目の帽子が載っていた。二作目なのは、赤ん坊の頭が大きくなる速度が想像していたよりもずっと速く、一作目がすぐに小さくなってしまったからだ。
何度も縫い直した縁が、ノエルの柔らかな頬へきれいに沿っている。
「ノエルの帽子、きつくない?」
「ちょうどいいわ。先ほども確かめたでしょう?」
「そうだけれど、少し赤くなっているような……」
「それは、この子の頬が赤いのよ」
セシリアは穏やかに答え、ノエルの背を優しく撫でた。
「この子の心配は、今日は私に任せて。あなたは自分のことだけ考えなさい」
「お姉様こそ、無理をしていない?」
「座って見守っているだけだもの。それに、かわいい妹の花嫁姿を見逃すつもりはないわ」
セシリアの笑顔は、以前よりもずっと穏やかだった。離縁の手続きは、まだすべて終わったわけではない。それでも今、姉は自分で選んだ場所にいて、自分の意思で息子を抱いている。
その姿を見ていると、アリアナの胸へ静かな喜びが広がった。
扉が開き、母が入ってくる。
「支度はできたかしら。お父様が廊下を何往復もしているの」
「時間には、まだ余裕があるでしょう?」
「余裕があるから落ち着かないのよ。先ほどから、時計が遅れていないか三度も確認しているわ」
母は呆れたように言ってから、アリアナの前で足を止めた。
ドレスの裾からヴェール、髪飾りまでをゆっくりと眺め、最後にアリアナの顔を見る。
その目に、薄く涙が浮かんだ。
「本当によく似合っているわ」
「ありがとう、お母様」
「あなたが夜会の壁際から動こうとしなかった頃は、どうなることかと思っていたけれど」
「今日くらい、昔のことは忘れてくれてもいいでしょう?」
「忘れられないわ。何人紹介しても、着ている服のことしか覚えてこないんですもの」
母の隣で、オリビアが吹き出す。
「そのおかげで、最後には誰よりも顔がよくて、誰よりも面倒な男性を捕まえたのだから、結果は悪くないわよ」
「捕まえたわけではありません」
母がピシャリと言い返した。
「いいえ、捕まえたのよ。だって、王都で一番の放蕩者をアリアナのことしか目に入らない、一途な男に仕上げたのだから、立派な戦果だと胸を張っていいと思うわ」
「お姉様、表現が物騒ですわ……」
アリアナが苦笑すると、部屋中にあたたかな笑い声が弾けた。
「さあ、行きましょう」
母が目元をそっと押さえ、扉へ顔を向ける。
「これ以上待たせたら、お父様が教会中の時計の針を進めてしまいかねないもの」
アリアナが立ち上がると、オリビアが裾を整え、母がヴェールの位置を確かめてくれた。
扉の前で一度振り返り、セシリアの腕の中を覗く。ノエルは目を閉じたまま、小さな口を動かしていた。
「また、すぐに会いに来るわ」
「ええ。今度は、私たちがあなたの家へ遊びに行くわね」
あなたの家。帰る場所に、新しいものが追加されたことを胸へ留め、アリアナは頷いた。
◇
廊下で待っていた父は、アリアナを見るなり動きを止めた。
「お父様?」
「ああ。支度ができたか」
「ええ」
近づくと、父は気持ちを落ち着かせるように、ドレスの袖へ目を向けた。
「やはり、その生地にしてよかったな」
「お父様が譲らないせいで、家族間戦争が勃発しかけたのを忘れたの?」
「選択肢を示しただけだ」
いつもの言い方に、アリアナは笑った。
父も少しだけ口元を緩めたが、差し出した腕へアリアナが手を添えると、急に黙ってしまった。
二人でゆっくりと廊下を歩き始める。
父の歩調は、普段よりずっと遅かった。
「お父様。歩きにくいドレスではありませんよ」
「分かっている」
それでも速くならない足取りに、アリアナは何も言わずに合わせた。
幼い頃、ストーンハーストの工場を歩いたときは、父の歩調についていくために何度も小走りになった。十年の歳月を経た今、父のほうが、娘を手放す瞬間を惜しむように歩みを遅くしている。
しばらくして、父が前を向いたまま口を開いた。
「生地見本の件だが」
「お母様に叱られますよ」
「仕事を頼むのではない。戻ってからでよいと言おうとしたんだ」
アリアナは父を見上げた。
結婚式のあと、二人は短い旅行へ出ることになっている。その間の仕事はすでに引き継いであり、父にも何度も説明した。
それでも今朝まで、何か忘れているのではないかと気にしていたのは、アリアナのほうだったらしい。
「急ぎのものはこちらで進めておく。お前が戻ってから見てほしいものもあるが、今は仕事のことなど忘れていなさい」
「はい」
「それから、家へ来るのに、仕事を口実にする必要はない」
胸が詰まり、アリアナは父の腕へ添えた手に力を込めた。
「分かっています」
「何もなくても帰ってくればいい。お前の好きな菓子くらいは、いつでも用意できる」
「ユアン様も一緒でいい?」
「置いてきても、どうせすぐに迎えに来るのだろう?」
あまりにも想像しやすくて、アリアナは笑ってしまった。
父も短く笑い、やがて大扉の前で足を止めた。向こう側から、式の始まりを告げる音楽が聞こえてくる。
「幸せになりなさい」
父の低い声が、かすかに震えていた。
アリアナは横顔を見上げ、はっきりと頷く。
「ええ。幸せになります」
父に添えた手に少しだけ力を込めると、重厚な扉がゆっくりと開き始めた。




