46. 花嫁衣装と、もう一つの慶事
その日の午後、アークライト邸のサロンは、さながら商会の特別仕立室と化していた。
長椅子からテーブルに至るまで、純白や象牙色の生地見本が所狭しと広げられている。光沢の異なる絹織物、薄く透ける紗、花模様を織り込んだジャガード。その脇には、王都や北部の工房から取り寄せたレース見本が、何冊もの台帳に綴じられていた。
「アークライト・ファブリック商会の威信が懸かっているのよ」
母は真剣な顔で、真珠の刺繍が施されたレースを光へ透かした。
「娘の婚礼衣装で、生地屋が手を抜いたなどと言われるわけにはいきません」
「誰も、手を抜けとは言っていないわ。ただ、歩けないほど重いドレスにはしたくないという意見を言ってるだけよ」
アリアナは肩へ当てられた絹を押さえながら、鏡の中の母へ訴えた。
先ほどから胸元へレースを重ねられ、腰へ飾り布を巻かれ、頭には長さの違うヴェールを何枚も載せられている。まだ形すら決まっていないのに、すでに一度結婚式を終えたような疲労を感じ始めていた。
「花嫁が多少重い思いをするのは仕方がないのよ。格式とは、だいたい重いものなのだから」
「そんな理由じゃ納得できないわ」
「だったら、裾を短くしたらどうかしら」
窓辺の長椅子へ座っていたセシリアが、穏やかに口を挟んだ。
臨月を迎えた腹部を締めつけない、淡い若草色のゆったりとしたドレスをまとっている。背中にはいくつもクッションが重ねられ、足元には台まで用意されていた。
家族から休むよう言われても、妹の婚礼衣装を決める場には立ち会いたいと譲らなかったのだ。
「アリアナには、長すぎる裾より、歩くたびに靴先が少し見えるくらいの軽やかな形が似合うと思うわ」
「侯爵家へ嫁ぐのに、軽やかすぎてはいけません」
「でも、お母様の案では、アリアナが自分で歩けないでしょう?」
「侍女に持たせればいいのよ」
「私は自分で歩いて結婚したいの」
アリアナが反論すると、セシリアが楽しそうに笑った。
「それなら、やっぱり短くするべきね」
「裾は長くても、自分で歩ける形にすればいいでしょう」
オリビアは先ほどから会話へ加わらず、スケッチブックへ鉛筆を走らせていた。
長椅子の肘掛けを机代わりにし、迷いのない線で次々とドレスの形を描いていく。襟の高さを変え、袖の膨らみを抑え、腰から流れるスカートの線を何度も描き直している。
「オリビア姉様。何か思いついたの?」
「少し黙っていて。今、いいところだから」
普段の自由奔放な様子とは違い、その横顔は真剣だった。
オリビアは新しいページを開くと、今度はほとんど手を止めず、一着のドレスを描き上げていった。
首元を包む繊細なレースと、ふんわり広がるチュールスカート。透け感のある生地に浮かぶ美しい刺繍が、上品でロマンチックな佇まいを際立たせていた。
長い裾は背後へ流れるように伸びているが、前方は歩きやすい長さに整えられていた。裾を縁取るレースには、三本の麦と小さな歯車を思わせる模様が組み合わされている。
「こちらなら、正面から見たときは軽やかだけれど、後ろ姿には侯爵家の婚礼に必要な格式が出るわ」
オリビアがみんなに見えるように、スケッチブックを立てる。
「ストーンハーストの麦と、アークライトの歯車をレースへ入れるの。二つの家の意匠をそのまま並べると紋章だらけで暑苦しいから、蔓模様の中へ紛れ込ませるわ」
アリアナは差し出された絵を覗き込み、思わず息をのんだ。
描かれているのは、華やかでありながら、飾りへ埋もれないドレスだった。裾へ向かって伸びる線には伸びやかさがあり、まるで着る人が自分の足で前へ進む姿まで計算されているように見える。
「すてき……」
「でしょう?」
オリビアが得意げに顎を上げた。
「あなたは、ただ守られて侯爵家へ運ばれていく花嫁ではないもの。自分で歩いてユアン卿の隣へ行くのだから、それが分かる形にしたほうがいいわ」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
「オリビア姉様に、こんな才能があったなんて知らなかったわ」
「失礼ね。デレクの服も、半分くらいは私が考えているのよ」
「いつもデレク様を着せ替えているだけだと思ってた」
「着せ替えるためにも才能が必要なの」
堂々と言い切ったオリビアから、母がスケッチブックを取り上げた。
「確かに、形は悪くないわね」
「素直に褒めてもいいのよ、お母様」
「この胸元へ、もう少し真珠を足しましょう」
「人の絵へ勝手に足さないでちょうだい」
「商会の威信が懸かっているのです」
また同じ言葉を持ち出した母へ、オリビアが眉を寄せる。
二人が真珠の数を巡って言い合う横で、セシリアが腹部へ手を添えた。
「どうしたの、お姉様?」
アリアナが尋ねると、セシリアは一度呼吸を整えてから微笑んだ。
「少し、お腹が張っただけよ」
「やはり部屋で休んだほうがいいんじゃない?」
「大丈夫。最近はよくあることなの」
そう言いながらも、腹部へ添えた指には力がこもっている。
アリアナが心配して駆け寄ろうとすると、セシリアは大丈夫だと示すように片手を上げた。
「それより、袖にはどのレースを使うの? 私は、こちらの細いものがよいと思うわ」
セシリアが手を伸ばした直後、その顔が再び強張った。
先ほどよりも明らかに長く、息を止めている。
「セシリア?」
母も異変に気づき、手にしていたスケッチブックをオリビアの胸に押し付けた。
「本当に、ただの張りなの?」
「そうだと思っていたのだけれど……」
セシリアはゆっくりと息を吐き、困ったように微笑んだ。
「先ほどから、一定の間隔で痛むの」
衝撃の事実が明かされた瞬間、室内が静まり返った。
「一定の間隔って、どれくらい?」
母の問いに、セシリアは時計へ目を向ける。
「十分くらいかしら」
「それを、どうして今まで黙っていたの!」
「アリアナのドレス選びに参加したかったから」
「ドレスどころではないでしょう!」
アリアナが駆け寄ったとき、セシリアの足元へ、わずかに水が広がった。
全員の視線が、一斉にそこへ落ちる。
セシリア本人が最も落ち着いた声で告げた。
「どうやら、本当に生まれるみたい」
「産婆を呼んで!」
母の声が、屋敷中へ響き渡った。
そこからサロンは、瞬く間に混乱へ陥った。
侍女の一人は呼び鈴へ駆け寄り、もう一人は湯を沸かすため厨房へ走る。母はセシリアの肩を支えながら、産室として整えてある二階の部屋へ運ぶよう指示を飛ばした。
「オリビア、そちらを持って! アリアナは反対側よ!」
「そっちって、何を持つの? お姉様? クッション?」
「オリビアふざけないで。セシリアお姉様に決まっているでしょう!」
「ちょっと、アリアナ。スケッチブックを踏まないで!」
「オリビアお姉様、今は絵の心配をしている場合ではないわ!」
「このドレスはアークライト商会の威信が懸かっているのよ!」
「こんなときだけお母様の言葉を使わないで!」
パニックになったアリシアとオリビアが騒いでいる間にも、セシリアは長椅子から立ち上がろうとしていた。
「二人とも、少し静かにして。余計に痛くなりそうだわ」
「「ごめんなさい!」」
アリアナとオリビアの声が見事に重なった。
二人で左右からセシリアを支え、ゆっくりと廊下へ向かう。その途中で新しい痛みが来たらしく、セシリアの指がアリアナの腕へ強く食い込んだ。
「お姉様、痛い?」
「ええ。かなり」
「どうすればいい?」
「私が聞きたいわ」
穏やかな姉から返された率直な答えに、アリアナの顔から血の気が引く。
「間違いなく、緊急事態だわ」
青ざめた顔のオリビアが呟いたとき、騒ぎを聞きつけた父が書斎から飛び出してきた。
「何があった!」
「セシリアが産気づいたの!」
母が父に告げる。
「何だと? 医師は! 馬車を出せ! いや、私が走って呼びに行く!」
「あなたが行ってどうするの! 産婆も医師も、すぐ近くへ待機してもらっています!」
「では、私は何をすればいい?」
「廊下を塞がないでください!」
母に一喝され、父は壁際へ目にもとまらぬ速さで退いた。
工場の危機にも、議会を巡る陰謀にも怯まなかった父が、今は壁に背をつけ行き場をなくした両手を宙へ浮かせている。
「お父様、湯をお願い!」
アリアナが咄嗟に役目を与えると、父は何度も頷いた。
「湯だな。分かった。工場の蒸気釜なら、いくらでも――」
「厨房の湯で足りるから!」
オリビアに止められ、父は今度こそ厨房へ走っていった。
◇
セシリアが産気付いてから数時間ほど、アークライト邸は落ち着きを失ったままだった。
産室には母と産婆、医師が付き添い、アリアナとオリビアは廊下で待つよう言い渡されていた。
扉の向こうからセシリアの苦しげな声が聞こえるたび、アリアナは両手を強く握りしめた。隣を見れば、オリビアも先ほどまでの勢いを失い、膝の上のスケッチブックを閉じたまま俯いている。
「お姉様、大丈夫よね」
「大丈夫に決まっているわ」
オリビアは強い口調で答えたものの、その声はかすかに震えていた。
父は廊下を何度も往復している。産婆に邪魔だと叱られて一度は階下へ下りたものの、十分もしないうちに戻ってきていた。
「まだか?」
「お父様。それを今聞いても、誰にも分からないわ」
「しかし、もう随分経っているぞ」
「生地が織り上がるのを待っているわけじゃないのよ」
「そんなことは分かっている」
そう答えながらも、父は落ち着かない様子で懐中時計を確かめた。
やがて日が傾き、廊下へ長い影が差し始めた頃。扉の向こうから、甲高い泣き声が響いた。
アリアナは弾かれたように顔を上げる。
オリビアが隣で息をのみ、父は持っていた懐中時計を取り落とした。床へ落ちた時計が乾いた音を立てたが、誰も拾おうとはしない。
間もなく扉が開き、疲れた顔の母が姿を現した。その目元は涙で濡れている。
「生まれたわ」
「お姉様は?」
母に飛びつく勢いでアリアナがたずねる。
「無事よ。元気な男の子ですって」
その言葉を聞いた途端、全身から力が抜けた。
アリアナは隣のオリビアへ抱きついた。オリビアも強く抱き返し、二人で泣き笑いのような声を漏らす。
父は何度も頷いてから、目元を拭いながら顔を背けた。
◇
セシリアと赤ん坊のいる部屋へ入ることを許されたのは、それからしばらくしてからだった。
寝台へ横たわるセシリアは、髪を額へ張りつかせ、すっかり疲れ切っていた。それでも、腕に抱いた小さな赤ん坊へ向ける表情は、これまでに見たことがないほど穏やかで、とても美しかった。
「お姉様」
アリアナがそばへ寄ると、セシリアは顔を上げた。
「心配をかけたわね」
「本当よ。どうして十分おきに痛んでいたことを黙っていたの?」
「花嫁衣装の形が決まるまでは、待ってくれると思ったの」
セシリアは腕の中の赤ん坊を見下ろし、困ったように笑った。
「この子は、ずいぶん気が早かったみたい」
「アークライト家の人間だもの。思いついたら待てないのよ」
オリビアが当然のように言う。
「それは、お父様とオリビアお姉様だけでしょう?」
アリアナが言い返すと、部屋に柔らかな笑い声が広がった。
赤ん坊は、その声に反応するように小さく身じろぎした。柔らかな布に包まれた顔は赤く、目もほとんど開いていない。あまりの小ささに、触れることさえためらわれる。
「オリビア、抱いてみる?」
セシリアがそう声をかけると、オリビアは一瞬だけ目を見開いた。けれどすぐに表情を和らげ、どこかぎこちない手つきで赤ん坊を受け寄せる。
「いいの? 壊してしまいそうだわ」
そう呟くオリビアの眉尻は心なしか下がり、いつものすました表情は影を潜めていた。
抱き上げられた赤ん坊は、ふにゃりと小さな声をあげてオリビアの胸元に顔を寄せる。生まれたての柔らかな温もりと微かなミルクの香りが届いたのか、オリビアの息がふっと詰まった。
「……本当に、ちいさな固まりなのね」
指先ひとつで軽く触れることすら躊躇うように、そっと頭を撫でる手つきはどこまでも優しい。いつもは自由奔放な性格で家族を翻弄する姉の、見たこともないほど愛おしげな眼差しに、アリアナの胸もあたたかな感触で満たされていく。
「お姉様、なんだか本物のお母様みたい」
「茶化さないで頂戴。……でも、悪くない心地ね」
照れくさそうに顔を背けながらも、オリビアは愛おしそうに腕の中の小さな命を見つめ直し、静かに目を細めた。
「アリアナ、あなたも抱いてみる?」
セシリアに尋ねられ、アリアナは反射的に首を横へ振りかけた。
「私が抱いても平気?」
「あなたの甥よ。平気に決まってるわ」
産婆に支え方を教えられながら、恐る恐る腕を差し出す。
受け取った身体は驚くほど軽いのに、確かな温もりと重みがあった。小さな手が動き、アリアナの指を握る。
「かわいい……」
胸の奥から、自然に言葉がこぼれた。
この子は、セシリアが自分の意思で守ると決めた命だった。誰かの家を立て直すための跡取りではなく、姉が自分の人生とともに選び取った、大切な息子だ。
「そうだわ」
オリビアが突然スケッチブックを開いた。
「何をしているの?」
「この子がアリアナの結婚式に着るお洋服を考えるのよ。せっかくだから、あなたの婚礼衣装と同じ麦のレースを使いましょう」
「生まれたばかりなのに、もう服の話?」
「アークライト・ファブリック商会の威信が懸かっているもの」
母の口癖を真似ると、オリビアは赤ん坊用の小さな祝い着をさらさらと描き始めた。
母も横から覗き込み、早くも注文をつける。
「肌へ触れるところにレースを使ってはいけませんよ。それから、着替えさせやすい形にしてちょうだい」
「分かっているわ。飾りは外側だけにする」
「真珠もつけるの?」
アリアナが尋ねると、母は真剣な顔で考え込んだ。
「付けたい気持ちはあるけれど、赤ん坊には重いわね」
「私のドレスには、つけるつもり?」
「当然でしょう?」
寝台のセシリアが笑い、腕の中の赤ん坊が小さなあくびをする。数時間前までの騒ぎが嘘のように、部屋には穏やかな空気が流れていた。
婚礼衣装の生地を決めるはずだった一日は、思いがけず、新しい家族を迎える日となった。オリビアのスケッチブックには、アリアナのウェディングドレスと、その隣に並ぶ小さな祝い着が描かれている。
「これで決まりね」
オリビアが満足そうに鉛筆を置いた。
「何が?」
「あなたの婚礼衣装よ。この子が生まれるのを待って、ようやく完成したんだわ」
新たに描き足された裾のレースには、三本の麦と歯車の蔓模様に寄り添うように、小さな蕾が一つ加えられていた。
アリアナは腕の中の甥と、その蕾を見比べる。
「そうね。これがいいわ」
今度は迷わず頷いた。
商会の威信も、侯爵家にふさわしい格式も大切だ。しかし何より、この日の喜びまで一緒に縫い込まれたドレスを着て、ユアンのもとへ歩いていきたいと思った。




