45. 唇の引力
帰り際、玄関広間には使用人たちが並び、父と母はストーンハースト侯爵へ改めて挨拶をしていた。
アリアナが外套の襟元を整えていると、ユアンがそばへ寄ってくる。
「疲れた?」
「少し緊張したけれど、楽しかったわ」
「よかった。父も嬉しそうだった」
「私も、また侯爵様とお話ししたいわ」
「僕には?」
すかさず尋ねられ、アリアナはユアンを見上げた。
「今、お話ししているでしょう」
「次に会う約束も欲しいと思って」
「明日は、試作品の打ち合わせがあるの」
「では、明後日」
「あなたは領地へ戻る準備があるのではなくて?」
「夕方なら空けられる」
真剣な顔で予定を調整しようとする様子がおかしくて、アリアナは笑った。
「それなら、明後日の夕方に。打ち合わせで決まったことをお話しするわ」
「楽しみにしているよ」
「その前に、確かめたいことがあります」
声の調子が変わったことに気づいたらしく、ユアンがわずかに首を傾げる。
「何かな?」
「最初にうちに来た時、唇に出来た傷を見たオリビア姉様に、侯爵様から結婚を命じられたのかと聞かれましたね」
ユアンの表情が、わずかに固まった。
「その話を父から聞いた?」
「ええ。侯爵様は、あなたへ結婚しろと命じていないそうですね」
「余計なことを……」
「なぜ、本当のことを言わなかったの?」
責めるつもりで尋ねたのに、思っていたほど声は鋭くならなかった。
ユアンはしばらく黙ったあと、観念したように息を吐く。
「父に殴られ、叱られたことは本当だったからね。オリビア嬢の言葉を否定しなければ、細かい説明をせずに済むと思ったんだ」
「ずいぶん都合のよい誤解ね」
「そのとおりだよ」
「それでは、あなた自身が婚約を申し出ると決めたのは、どうして?」
ユアンは、すぐには答えなかった。いつもなら軽口の一つでも返すところなのに、視線をわずかに落とし、自分の過去を探るように黙っている。
「正直に言えば、あのときの僕にも、はっきりとは分かっていなかった」
「分からないまま、婚約を申し込んだの?」
「そういうことになるね」
あまりに素直に認められ、アリアナは眉を寄せた。
「父にも王家の仕事を退き、領地を継ぐ準備を始めると宣言した後だったし、女性たちとの関係も整理して、今までの生き方を改めようとしていたところだった」
「それは聞きました」
「だが、頭では変わるつもりでも、本当に自分が変われたのかは分からなかった。そんなとき、別れを告げた女性に池へ突き落とされて、君には軽蔑された」
「軽蔑したわけではありません。呆れただけです」
「当時の僕には、あまり違いがなかったよ」
ユアンは苦笑した。
「自分では、誰も騙していないから誠実だと思っていた。それなのに、彼女は泣いていたし、君からは女性を弄ぶ男を見るような目を向けられた。あのとき初めて、自分が思っていたほど立派な人間ではないと、認めざるを得なくなったんだ」
アリアナは黙って、その横顔を見つめた。
「新聞の記事が出たとき、君を守らなければと思った。それは責任感でもあったし、事件を解決するために必要な判断でもあった。でも、もしかすると――」
「もしかすると?」
「少しくらい、女性に対して誠意ある人間になったつもりでいたかったのかも知れない」
ユアンは自嘲するように笑った。
「君を守れば、女性を傷つけてきた自分とは違う人間になれる。そんな浅い期待も、どこかにあったのだと思う」
ロマンチックとは言い難い答えだった。
できれば、自分に一目惚れし、何が何でも守りたいと思ったと言われたかった。それなのに、誠意ある人間だと思われたかったからなんて、言われた方は少し傷つく。
それでも、都合のよい美談を作らずに話してくれたことが、アリアナには嬉しかった。
「つまり、私に一目惚れして婚約を申し出たわけではないのですね」
「残念ながら」
「そこは少しくらい迷ってから答えてくれてもいいのに」
「君に嘘をつかないと約束したからね」
ユアンは困ったように眉を下げる。
「初めて会った夜の僕は、君をほとんど知らなかった。興味はわいたし、とても美しいと思った。だが、それを愛と呼ぶほど、当時の僕は君を知らなかったよ」
真っ当な答えだった。
分かっているのに、胸の奥へわずかな不満が残る。
「では、どうして口づけたの?」
尋ねた途端、ユアンの目がわずかに見開かれた。
アリアナも、自分が何を口にしたのか遅れて気づく。近くには両親も使用人たちもいるため、慌てて声を潜めた。
「庭小屋で、私の声を塞いだときです。手で口を塞ぐことだってできたでしょう?」
「それは……」
今度こそ、ユアンは本当に答えに詰まったようだ。
「必要だったから、ではないの?」
「君に静かにしてもらう必要はあったよ」
「口づけをする必要があったのかと聞いているのです」
「なかったね」
即答され、アリアナの頬が熱くなる。
「では、なぜ?」
「分からない」
「また、それですか?」
「仕方がないだろう? あのときは考えるより先に、身体が動いていたんだ」
ユアンは弁解するように片手を上げたあと、アリアナの唇へ視線を落とした。その動きを追ってしまったせいで、庭の小部屋で重なった唇の感触が鮮明に蘇る。
「おそらく、君のその魅力的な唇には、引力のようなものがあるんじゃないかな」
「真面目に答えてください」
「僕は真面目だよ。気づけば引き寄せられていたのだから、ほかに説明しようがない」
「そのような理屈が通ると思っているの?」
「通らない?」
「通りません」
きっぱり否定すると、ユアンは残念そうに眉を下げた。
「では、あのときの僕は、理由も分からないまま君へ惹かれていたということにしておこう」
「都合よく言い換えないでください」
「でも、今なら理由は分かるよ」
不意に声から軽さが消えた。
ユアンの青い瞳が、真っすぐにアリアナを映している。その眼差しに捉えられ、アリアナは目を逸らすことができなくなった。
「今は、どうしてなの?」
「君を愛しているからだ」
あまりにも迷いのない答えだった。
玄関広間のざわめきが遠ざかったように感じられ、アリアナの鼓動だけが大きく耳へ響く。
「最初から運命だと分かっていたわけでも、一目で恋に落ちたわけでもない。君と話し、何度も怒られて、一緒に逃げて、手を取り合った。その間に、気づけば君を失いたくないと思うようになっていた」
「それなら、引力ではないわ」
「恋も引力の一種かもしれない」
「まだ言いますか」
「君に引かれ続けているのは事実だからね」
アリアナは言い返そうとしたが、熱くなった顔では何を言っても負けたように思えて、口を閉ざした。
ユアンが片手を差し出す。
「手を取っても?」
「どうぞ」
その上へ手を重ねると、ユアンはすぐには持ち上げず、アリアナの顔を見た。手袋への口づけを求めているのだと察し、小さく頷く。
彼の唇が、手袋へそっと触れた。
「今度は、理由が分かっているの?」
「もちろん。君に触れたいからだよ」
ユアンの熱を帯びた視線が、ゆっくりとアリアナの唇へと落ちる。
「許可したのは、手袋への口づけだけです」
「分かっている。続きは、また許してもらえるまで待つよ」
甘い声に頬を熱くしながら、アリアナは手を引いた。
「明後日ですからね」
「ああ。今度は、試作品のデータに夢中になる時間の三分の一くらいは、僕を見てほしいな」
「話をきちんと聞いてくださるなら」
「必ず聞くよ。もう『努力する』では許してもらえそうにないからね」
アリアナは笑って、今度こそ彼の手を離した。
馬車へ乗り込むと、父が向かいの席で外套を整えながら、さっそく口を開く。
「明日の打ち合わせだが――」
「あなた。せめて家へ着くまでは、娘の祝いの余韻に浸らせてくださいな」
母にたしなめられ、父は不満そうに口を閉じた。
しかし、アリアナは気になっていたことを思い出し、身を乗り出す。
「お父様。新しい試作品の洗ったあとの見本も、もう届いているのよね?」
「今朝届いた。洗う前のものと比較できるようにしてある」
「それなら、縫い合わせた部分も確かめたいわ。生地が無事でも、糸が縮んで形が崩れたら意味がないもの」
「アリアナまで……」
母が呆れたように笑う。
アリアナもつられて笑いながら、動き始めた馬車の窓へ目を向けた。
玄関先に立つユアンが、まだこちらを見送っている。
アリアナが小さく手を振ると、彼もすぐに手を上げた。
やがてその姿が見えなくなると、アリアナは父へ向き直り、明日の仕事の話を再開した。
結婚を決めたからといって、商会で働きたいという望みが消えるわけではない。どちらか一つを諦めるのではなく、どちらも自分の意思で選び取る。その未来をユアンとともに築いていけるのだと思うと、明日から始まる仕事さえ、これまで以上に楽しみに感じられた。




