44. 唇にできた傷の真相
ユアンと結婚することを家族へ報告してから数日後。今度はストーンハースト侯爵家からの正式な招待を受け、アリアナは両親とともに侯爵邸の晩餐へと足を運ぶことになった。
てっきりストーンハースト侯領に、両親と共に向かうと思っていたのだが、侯爵が王都にいるタイミングに合わせてくれた。そのお陰で移動の負担もなく集まることができた。
馬車が立派な鉄柵を潜り抜け、重厚な館の前へと到着する。かつてなら「どうせ、成り上がりって馬鹿にされるに違いない」と身を硬くし、身構えていたかもしれない。けれど今、アリアナの手を引いて馬車から降ろしてくれるユアンの瞳には、包み込むような甘い温度だけが宿っていた。
「ユアン様、今日はお招き頂き、ありがとうございます」
「うん。よくきてくれたね」
馬車から降りた途端、挨拶もそこそこに、ユアンがアリアナに顔を近づける。
「今夜は、父の話をあまり真に受けないで」
「何か困ることでも?」
「僕の子供時代を知っている」
「それは、ぜひ伺いたいわ」
「やはり、先に言っておくべきではなかったな」
困った顔を見て笑っていると、玄関の奥から侯爵が現れた。ユアンはすぐに姿勢を正し、アリアナも彼から手を離して挨拶をする。
侯爵は両親へ歓迎の言葉を述べてから、アリアナを見た。
「また、お会いできるのを楽しみにしていました」
「お招きいただき、ありがとうございます」
「息子から色々と話は聞いています。今夜は、どうぞ気楽に過ごしてください」
穏やかに言われても、すぐに緊張が解けるわけではなかった。アリアナは微笑んで頷きながら、差し出されたユアンの腕に手を添えた。
案内された館の中を進みながら、アリアナは密かに周囲を見回した。
アークライト家が貴族の列に加わったのは、十年前のことだ。邸内の調度品や内装は新しく華やかで、どこか誇らしげな光沢を放っている。それに対し、ストーンハースト侯爵邸に並ぶ品々は、どれも時の積み重ねを静かに物語っていた。
廊下に飾られた燭台の足元や、階段の手すりの飴色に艶めく木肌。壁に掛けられた織物の落ち着いた色合いには、代々大切に手入れされ、愛され続けてきた歴史の重みが宿っている。
新しいものにない、この深み。これが歴史あるお家柄というものなのね。
派手さで圧倒するのではなく、住まう人の暮らしと時間を優しく包み込むような空間。こうした落ち着いた場所で育ったからこそ、ユアンにはどこか洗練された余裕が漂っているのかも知れない。
「どうしたの? 緊張している?」
隣を歩くユアンが、アリアナだけに聞こえるよう声をひそめて尋ねてくる。
「いいえ。とても素敵なお屋敷だと思いました。古いものを大切に引き継いでおられるのが、よく分かりますわ」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。古いだけで、あちこち手狭で不便なところも多いのだけれどね」
ユアンはそう言って柔らかく微笑むと、彼の腕に添えられたアリアナの手に、自身の手をそっと重ねた。その温もりに導かれるように、アリアナは前を歩く侯爵と両親の背中を追い、ゆっくりと歩みを進めた。
食事の間、侯爵はアリアナが父の仕事を手伝い始めたことに関心を示した。
何を任されることになったのか、どのような品物を考えているのか。尋ねられて答えているうちに、アリアナは少しずつ肩の力を抜いていった。
ただ、父が説明を補い始めると、話はたちまち織機や生産量へ広がった。
「お父様。そのお話は、食事が終わってからでも」
「侯爵もご興味をお持ちだ」
「ええ。ですが、今はアリアナ嬢のお話の続きを伺いましょう」
侯爵が笑って取りなしてくれたので、アリアナはほっとした。
隣のユアンが、小さな声で囁く。
「今日は強力な助っ人がいて良かったね」
「あなたも助けてくださっていいのよ」
「僕まで加わると、お父上が気の毒だ」
「いつもは、あなただって父の話から逃げようとするくせに」
言い返すと、ユアンが笑った。
向かいの侯爵がこちらを見ていることに気づき、アリアナは慌てて姿勢を正したが、侯爵の表情は穏やかなままだった。
◇
食後、父がユアンを相手にストーンハーストの農地や工場について話し始め、母が侯爵夫人の集めた陶器へ興味を向けた頃、ストーンハースト侯爵がアリアナへ静かに声をかけた。
「息子とは、きちんと話せていますか?」
「はい」
頷くと、侯爵は少し考えるように間を置いた。手元のグラスへ一度視線を落としてから、改めてアリアナを見る。
「婚約が決まったときとは、事情も変わりました。あなたが今も息子との結婚を望んでいるのか、私からも一度確かめておきたかったのです」
アリアナは膝の上で両手を揃えた。
ユアンの姉のことが頭をよぎる。侯爵がどのような思いで尋ねているのか、すべては分からない。それでも、形式的な確認でないことは、真剣な声から伝わってきた。
「私の意思です。ユアン様とこれからのことを話し合って、結婚したいと決めました」
「そうですか」
侯爵の目元がわずかに緩む。安堵したようにも見えるその表情を眺めているうちに、アリアナは一つ気になっていたことを思い出した。
「ストーンハースト卿。私からも、お尋ねしてよろしいですか?」
「もちろんです」
「最初の婚約についてです」
口にした途端、侯爵の顔へわずかな緊張が走った。
「夜会の翌日、新聞記事に私とユアン様のことが掲載されて大騒ぎしていた時に、ユアン様が我が家にいらしたのですけど、その……ユアン様はストーンハースト卿に命じられて、私との婚約を申し出たのだと仰っていたんです」
「私が命じたと?」
「え」
何で驚くのだろうと、逆にアリアナが目を丸くする。
あの日のユアンの姿は、今もよく覚えている。切れた唇の端は青く腫れ、普段の端整な顔立ちへ危うい色気を添えていた。
オリビアは一目見るなり、何があったのか察したように尋ねた。
『侯爵様にこっぴどく叱られて、新聞記事の責任を取るためにいらしたのね?』
それに対し、ユアンは否定しなかった。
『おっしゃるとおりです』
あまりにも素直に認めたため、アリアナも今までずっと、父親に命じられて結婚を申し込みに来たのだと疑ってもいなかった。
「息子は、そのような説明をしたのですか」
侯爵は、眉間へ深い皺を寄せた。
「違うのですか?」
「私が殴ったことは事実です」
侯爵は重々しく認めた。
「例の記事によって君の名誉を傷つけ、危険な騒動へ巻き込んでしまったことについて、父親として息子を強く叱責しました。そろそろ身を落ち着けると私に約束した矢先の出来事でしたから、つい手が出てしまったほどです」
侯爵は自分の手を見つめた。その手は長年家を守ってきた人らしく、骨太でしっかりとした節が刻まれている。
「だが、勘違いしないでほしい。私は一度たりとも、息子に君との結婚を命じたことはない」
「では、婚約を提案したのは……」
「ユアンです」
侯爵は迷いなく答えた。
「ユアン様は、何と?」
「これは、責任を取るためだけの結婚ではないと」
侯爵の答えに、アリアナは息を詰めた。
「あなたが醜聞へ巻き込まれたのは、自分にも責任がある。両家が手を結べば、あなたを守ると同時に、法案へ反対する者たちへ屈しない意思も示せる。だから婚約という形で協力を申し出たい、と」
「それで、期限つきの婚約を?」
「ええ。あなたの意思を縛らないための条件を整え、受けるかどうかはあなた自身に決めてもらうと言っていました」
「そんなこと、一言も……」
「息子なりに、あなたへ余計な負担をかけまいとしたのでしょう。もっとも、あの子が当時、あなたをどのように思っていたのかまでは、私にも分かりませんが」
最後の言葉が、胸へ小さく引っかかった。
ユアン自身が婚約を望んだと知り、思わず甘い意味を見いだしかけていた。しかし、婚約を申し出たことと、初めからアリアナを愛していたことは同じではない。
「でも、どうしてユアン様は、オリビア姉様の言葉を否定しなかったのでしょう」
「そこは、本人に聞いてください。私にも息子の考えることがすべて分かるわけではありません」
侯爵は苦笑したあと、わずかに声を低くした。
「ただ、あの子は肝心なことほど軽口で隠す癖があります。本人にさえ、当時の気持ちをうまく説明できなかったのかもしれません」
それは、アリアナの知るユアンの姿とも重なった。
怖いと認める代わりに冗談を言い、傷ついても平然と笑う。女性たちとの関係についても、初めの約束を守っているのだから誰も傷つかないはずだと、自分の心まで誤魔化していた。
「もちろん、あれから息子の気持ちも変わったでしょう。だからといって、あなたまで同じ気持ちである必要はありません」
侯爵は改めて、アリアナを見つめた。
「ですから、お尋ねしたかったのです。今度の結婚は、あなた自身が望んだものなのかと」
「はい」
今度は、先ほどよりはっきりと頷くことができた。
「私が望んだことです。仕事のことも、暮らす場所のことも、まだ決めなければならないことはたくさんあります。でも、ユアン様と二人で相談していきたいと思っています」
「それを聞けて安心しました」
侯爵はグラスへ触れていた指の力を抜き、穏やかに目元を和らげた。
「何か困ったことがあれば、私にも話してください。ウィリンガム家へ嫁ぐからといって、すべてをこの家のやり方へ合わせなければならないとは思わないでほしい」
「ありがとうございます」
アリアナは深く頷いた。
気の利いた言葉は見つからなかったが、礼を告げる声は自然に出た。
侯爵はそれ以上重い話を続けず、少しだけ口元を緩める。
「ただし、ユアンには、すぐ調子へ乗るところがありますので」
「存じあげています」
思わず即答すると、侯爵が声を立てて笑った。
「では、父親の私から申し上げることはなさそうですね」
「父上。何の話です?」
ちょうど父との会話を終えたらしく、ユアンがこちらへ近づいてきた。
侯爵は何でもないというようにグラスを傾ける。
「お前の婚約者は、お前という人間をよく分かっていらっしゃるという話だ」
「どの辺りを?」
「いろいろと、だ」
アリアナまで同意するように頷くと、ユアンは二人を見比べた。
「もう父を味方につけたの?」
「侯爵様は、とてもお話ししやすい方ね」
「それは嬉しいけれど、僕の立場が少し心配になってきたな」
そう言いながらも、隣へ腰を下ろしたユアンの表情は明るかった。
アリアナは、その横顔をそっと盗み見る。
父親に命じられたのではなく、ユアンは自分で婚約を申し出ると決めていた。
では、あのとき彼は、どのような気持ちでアリアナの手を取ったのだろう。
「ユアン様」
「何だい?」
「あとで、少しお話があります」
ユアンは目を瞬いた。
「叱られる話?」
「さあ、どうでしょう」
侯爵が再び笑ったため、ユアンはますます困惑した顔で、父とアリアナを見比べていた。




