43. 家族
庭から戻り、アリアナがユアンとともにサロンの扉を開けると、いつも通り家族が揃って夕食までの時間を過ごしていた。
母とセシリアが並んでソファへ腰かけ、これから生まれてくる赤ん坊のために用意したベビードレスを膝に広げている。純白の柔らかな生地には、愛らしい小花や繊細なスカラップ刺繍が形作られており、ふたりは顔を見合わせては楽しそうに針目を確かめ合っていた。
その向かいでは、父が先ほど片づけたはずの生地見本を広げている。オリビアは父の隣に立ち、その中から勝手に一枚を取り上げて、窓の光へ透かしていた。
「この色、デレクに似合いそうだわ」
「それは肌着用だぞ」
「肌着にしたって、似合う色を選んで悪いことはないでしょう?」
父は何か言い返そうと口を開いたものの、入ってきたアリアナたちに気づき、言葉を止めた。
続いて母もこちらを振り向き、アリアナがユアンの腕へ手を添えているのを見て、意味ありげに目を細める。
「あら、戻ったのね。ちょうどあなたたちの話をしていたところよ」
「ずいぶん長い散歩だったわね」
オリビアが意味ありげに笑う。セシリアは何も言わなかったが、アリアナがユアンの腕へ添えている手を見て、穏やかに目元を和らげた。
アリアナは、その場で足を止めた。
庭では、両親へ話そうと自然に口にできた。それなのに、家族全員を前にすると、何と切り出せばよいのか分からなくなる。
皆の視線がユアンの腕へ回した自分の手に集まっている気がした。今さら離すのも、かえって意識しているようで不自然に思える。指先だけが落ち着かず、服の袖を小さく撫でた。
「アリアナ?」
母に名を呼ばれ、息を整えた。
「お父様、お母様。それから、セシリアお姉様とオリビアお姉様……つまり全員に、お話があります」
父が生地見本を机へ置いた。母は手にしていた扇を閉じ、身体ごとアリアナへ向き直る。
オリビアも茶化すのをやめたらしく、手にしていた布を父へ返した。セシリアは背中へ当てていたクッションの位置を整え、静かに答えを待っている。
「ええ。何かしら」
母の声がいつもより優しく聞こえたせいで、かえって喉が詰まった。
隣でユアンが、わずかに身じろぎする。
アリアナが顔を上げると、彼はこちらを見て待っていた。代わりに話そうとも、先を促そうともしない。腕を預けたまま、アリアナ自身が言葉にするのを待ってくれている。
その眼差しに背中を押され、家族へ向き直った。
「私、ユアン様と結婚したいと思っています」
母が小さく息をのむ。
父は何も言わず、アリアナを見つめていた。セシリアの瞳もわずかに見開かれ、オリビアは驚いたように何度か瞬きをする。
「先ほど、私からユアン様へお伝えしたの。二人で話し合って、そう決めました」
「アリアナ嬢と結婚させていただきたいと思っています」
ユアンも静かに告げた。
いつもの軽さを抑えた声を隣で聞きながら、アリアナは彼の腕から手を離した。
自分の意思で決め、自分の言葉で伝えたのだということを、きちんと受け止めてもらいたかった。
しばらく続いた沈黙を破ったのは、オリビアだった。
「ようやく決めたのね」
「オリビアお姉様、どういう意味?」
「だって、ずっと見ているこちらのほうが焦れったかったんだもの。手を繋いでは違うと言い、至近距離で見つめ合っては、婚約は期限つきだと言い張っていたでしょう?」
「そんなことないし」
頬へ熱が集まる。ユアンが隣で笑った気配がしたため、アリアナは振り向かずに肘で軽く彼の腕を押した。
「オリビア。もうその辺で許してあげましょう?」
セシリアが妹をたしなめたものの、その口元にも柔らかな笑みが浮かんでいた。
「アリアナ。あなたが自分で選んだのね?」
確かめるようなその問いには、ほかの誰よりも重みがあった。
夫のもとで自分の望みを押し殺し、ようやく自分の人生を取り戻そうとしているセシリアだからこそ、尋ねずにはいられないのだろう。
「ええ」
アリアナは迷わず頷いた。
「誰かに求められたからでも、事件を一緒に乗り越えた責任を感じたからでもないわ。ユアン様と一緒に生きていきたいと、私が思ったの」
セシリアの目元へ、薄く涙が滲んだ。
「そう。それなら、心からお祝いできるわ」
「セシリアお姉様……」
「おめでとう、アリアナ」
姉の穏やかな祝福を胸へ受け止めたところで、父が低い声で問いかけた。
「本当に、それがお前の望みなのだな」
「はい」
「法案のことも、侯爵家への恩も、考えに入れる必要はないぞ。今なら、まだ婚約を解消しても――」
「分かっています」
父の眉間には、深い皺が刻まれていた。
形式上の婚約を決めたときとは、まるで違う問いかけだった。
事件のあと、父はアリアナが一人で出歩くことさえ嫌がるようになった。汽車から飛び降り、工場で銃口を向けられた娘を失うかもしれなかった恐怖は、今も父の中に残っているのだろう。
「ユアン様と一緒にいたいの。だから、結婚したいと思いました」
もう一度はっきりと告げると、父は長く息を吐いた。その肩からわずかに力が抜けるのを見て、アリアナもようやく呼吸を取り戻したような気がした。
「そうか」
短く答えてから、父はユアンへ目を向ける。
「この娘は、納得しないことには頷かない。私に似て、扱いにくいところもある」
「お父様」
「褒めているんだ」
「どの辺りが褒め言葉なの?」
アリアナが眉を寄せると、オリビアが声を上げて笑った。
「そっくりよ。お父様も、自分が正しいと思ったら誰の話も聞かないもの」
「私は必要な意見なら聞いている」
「それを決めるのも自分でしょう?」
父が口を閉ざす。家族の視線が集まる中、ユアンが小さく笑った。
「アリアナ嬢が簡単に頷かないことは、よく存じあげています。むしろそういう部分を好ましいと思っています」
ためらいなく言われ、アリアナは思わず彼を見た。
家族全員の前なのだから、少しは控えてほしい。そう思うのに、真っすぐ向けられた眼差しから目を逸らすことができなかった。
「あらまあ」
母が嬉しそうに頬へ手を添え、オリビアは面白そうに身を乗り出す。
「本人を前にして、よくそこまで堂々と言えるわね」
「言わなければ伝わりませんから」
「ユアン様まで、お姉様に応じなくて結構です」
アリアナが睨んでも、ユアンは悪びれる様子を見せない。そのまま父へ向き直ると、表情を改めた。
「ただ、彼女が何も言わなくなったときのほうを、心配するべきだと思っています。不満も怒りも、言葉にしてくれるうちは向き合えますから」
父はしばらくユアンを見つめたあと、アリアナに目を向けた。
「アリアナ。今の言葉を聞いたな。結婚しても、遠慮せずに言いなさい」
「今も十分言っています」
「これからも言い続ければいい」
セシリアが穏やかに加わった。
「嫌なことを嫌だと言える夫婦でいるのよ。分かったふりをして、何もかも飲み込んでは駄目」
姉の言葉に、アリアナは深く頷いた。
「ええ。約束するわ」
「ユアン卿も、よろしいですね?」
「もちろんです。言い負かされないよう、僕も努力します」
「勝つ必要はありませんわ」
セシリアが真顔で返したため、今度は全員から笑いがこぼれた。
張り詰めていた空気が和らいだところで、母が膝の上の扇を脇へ置いた。
「アリアナ、こちらへいらっしゃい」
近づくと、母が立ち上がって両手を取った。指先を包む手は温かく、その目元には薄く涙が浮かんでいる。
「おめでとう」
「お母様」
「嬉しいわ。あなたが、自分でそう言ってくれたことが」
アリアナは頷こうとしたものの、胸がいっぱいになり、うまくできなかった。母に手を握られたまま、込み上げてくるものをこらえるように唇を結ぶ。
「あなたが安心して笑っていられるなら、それが一番よ」
優しい声に、目の奥が熱くなった。
母の手を握り返した途端、たまらなくなったように抱き寄せられる。懐かしい香水の匂いに包まれ、アリアナも母の背へ腕を回した。
「私も混ざっていいかしら」
セシリアがゆっくりと立ち上がる。
「もちろんよ、姉様」
アリアナが手を伸ばすと、セシリアは母とは反対側から、そっと肩を抱いてくれた。
「仲間はずれは酷い。私も参加する」
オリビアまで加わり、三方から抱きしめられる。
「オリビア姉様、少し苦しいわ。むしろ恨みを込めてない?」
「これくらい我慢しなさい。ロゼリアの分なんだから」
「ロゼリア?」
「アリアナの結婚祝いで頂いた、孔雀の剥製のことよ」
「オリビアお姉様、名前までつけてたの?」
「だって、返送されるかもしれない運命を背負った剥製なんて可哀想でしょう? せめて名前くらい必要だと思って。でも結局、返さなくて済みそうでよかったわ」
「喜ぶところはそこなのね」
涙ぐんだまま笑うアリアナの背を、母と姉たちの手が代わる代わる撫でる。
少し離れた場所では、ユアンが静かにその様子を見守っていた。目が合うと、その唇に柔らかな笑みが浮かぶ。
自分で選んだ人を、家族がこうして受け入れてくれる。
その喜びが胸の奥へ満ちていき、アリアナはもう一度、母と姉たちを強く抱きしめた。
その背後で、父が遠慮がちに咳払いをする。
「それでは、結婚の時期についてだが」
「あなた」
母が娘を抱いたまま振り返った。
「今、とてもよいところなのですから、少しお待ちになって」
「待っているうちに、決めるべきことが増えるだろう」
「増えません。あと少し、娘を抱きしめる時間をくださいな」
「私たちの時間でもあるわ」
オリビアが当然のように言い、セシリアも微笑みながら頷く。
三人に囲まれたアリアナは、父の困った顔を見て、とうとう声を上げて笑った。




