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42. 私が選んだあなた

 父との話が終わった頃には、窓から差す光が傾き始めていた。


 父はまだ何か説明したそうだったが、使用人が母からの伝言を持ってきたことで、ようやく見本の箱を閉じた。ちなみに母からの伝言は、夕食まではまだ時間があるから、客を少し休ませるように、という内容だった。


「助かった。危うく、明日の朝までお邪魔するところだった」


 書斎を出たところでユアンが囁き、アリアナは笑った。


「長くなると申し上げたでしょう?」


「聞いていたよ。ただ、君があまりに楽しそうだったから、止めるのが惜しくなった」


「退屈だった?」


「いいや。君のお父上に質問を褒められた。今日はかなり点を稼げたと思う」


「父に気に入られるために質問していたの?」


「半分くらいは」


「残りの半分は?」


「君に、頼りになる婚約者だと思ってもらうため」


「全部、ご自分のためじゃない」


 呆れてみせると、ユアンは楽しそうに笑った。夕暮れの光を受けたその笑顔は、社交界で噂される洗練された微笑みとは違う、飾らない柔らかさを帯びている。


 その顔を見ながら、アリアナは廊下の先へ目を向けた。庭へ続く硝子扉の向こうで、木々が夕日に照らされ、金色に縁取られている。


「ユアン様、少し、歩きませんか」


「もちろん」


 すぐに差し出された腕へ、アリアナは自分から手を添えた。ユアンがこちらを見たが、今日は何も言わせないよう、先に歩き始める。


 後ろから侍女がついてくる気配を確かめながら、アリアナは庭の小道へ出た。


 今日、ユアンに話したいことがあった。


 けれど、父の仕事の話をしている間は自然に言葉が出てきたのに、二人になると、何から切り出せばいいのか分からなくなる。胸の内側で、心臓だけが早鐘を打っていた。


「アリアナ」


「何?」


「そんなに真剣な顔で歩かれると、何か叱られるのかと不安になるんだけれど」


 見上げると、ユアンが眉を下げていた。そのわざとらしい困り顔に、少しだけ肩の力が抜ける。


「今日は、何か叱られるようなことをなさったの?」


「生地見本を見ている君に、しばらく見惚れていた」


「真面目に聞いていなかったのね」


「ほら、叱られた」


 アリアナは小さく笑い、彼の腕に添えた手を見た。


 森で引かれた手は、離したら生きて帰れないように思えた。今は一人でも歩ける小道を、こうして並んで歩いている。それなのに、あの夜と同じくらい、いやそれ以上に、この手を離したくないと思う自分がいた。


 ユアンに隣にいてほしいのは、自分だった。


「ユアン様。あちらに座っても?」


 噴水の近くのベンチを示すと、彼は頷いた。侍女は声が届かない距離で足を止め、二人は並んで腰を下ろした。


 水音が絶え間なく響く中、ユアンから手を離し、アリアナは膝の上で指を重ねた。冷たくなった指先が、これから口にする言葉の重さを物語っていた。


「この間、結婚したあとのお話をしたでしょう」


「ああ」


「あれから、考えていたの。王都で暮らすことも、領地へ行くことも、父の仕事を手伝うことも」


「何か、変えたいところがあった?」


「いいえ。そうではなくて」


 アリアナは一度息を整えた。ユアンが急かさずに待っていることが、かえって胸を熱くする。夕日に照らされた彼の横顔を見つめながら、アリアナは初めて、自分の中にある気持ちをそのまま言葉にしようと決めた。


「何を考えていても、あなたがいるの」


 彼の表情から、笑みが薄れた。青い瞳が、まっすぐにアリアナだけを映している。


「仕事で面白いことがあったら、あなたに話したいと思うし、困ったことがあれば、聞いてほしいと思うわ。きっとあなたは余計なこともおっしゃるでしょうけれど、それに言い返すところまで考えてしまうの」


「なるべく、有益なことを言うようにするよ」


「時々で結構です」


 返すと、ユアンの口元がわずかに緩んだ。アリアナも微笑んだが、今度はそのまま話を逸らさなかった。


「今日、父の隣で話を聞いているあなたを見て、嬉しかった。私が大切にしているものを、あなたも知ろうとしてくれていることが」


「君のことは、何でも知りたいからね」


「私も、あなたのことを知りたいわ。楽しかったことだけではなくて、困っていることも、嫌だったことも。軽口で済ませずに話してほしいし、私もそうしたい」


 ユアンは黙ってこちらを見ていた。夕風が二人の間を通り抜け、彼の前髪をわずかに揺らす。その一瞬さえ、アリアナの目には焼きつくほど鮮やかに映った。


 アリアナは膝の上の手をほどいた。緊張で冷たくなった指先を、自分の掌へ一度押し当ててから、顔を上げる。


「あなたと、結婚したいです」


 言い終えたあと、噴水の水音が急にはっきり聞こえた。世界のすべての音が、その一言のために静まり返ったかのようだった。


 ユアンは動かなかった。いつもなら、こちらが言い終わるのを待たずに何か返してくるのに、その唇がわずかに開いたまま止まっている。


「ユアン様?」


「少し待って」


 彼は片手で口元を覆い、視線を落とした。その耳元が、夕日のせいだけではないだろう色に染まっている。


「今、都合のいいところだけ聞こえた気がする」


「そんなに長い言葉を口にしてません」


「では、もう一度聞いても?」


 アリアナの頬が熱くなった。それでも、彼が笑ってからかおうとしているのではないことは分かった。こちらへ戻された眼差しが、あまりに真剣だったからだ。


「あなたと結婚したいの。私が、そうしたいと思っています」


 ユアンはゆっくり息を吐いた。その顔に笑みが戻るまでを、アリアナは目を逸らさずに見つめた。


「困ったな」


「何が?」


「君が承諾してくれたら、もっと気の利いたことを言うつもりだった」


「用意していらしたの?」


「何通りか。でも、全部忘れた」


 アリアナは笑った。笑った拍子に、目の奥が熱くなる。


「それなら、普通にお返事をください」


「ああ」


 ユアンが身体ごとこちらへ向き直った。夕日を背にした彼の輪郭が、金色の光で縁取られている。


「僕も、君と結婚したい。君と暮らして、年を取って、何年先もこうして口説いていたい」


「結婚しても、まだ口説くの?」


「油断したら、仕事とお父上に君を取られそうだからね」


「私が選ぶと、申し上げたばかりでしょう」


「そうだった」


 ユアンは嬉しそうに笑った。その笑顔を見た途端、胸の奥に残っていた緊張がほどけ、アリアナは彼の手へ自分の手を重ねた。


「好きです、ユアン様」


 指の下で、彼の手がわずかに動いた。触れた場所から、確かな熱が伝わってくる。


「あなたが帰ると寂しいし、次に会う日が待ち遠しいの。一緒にいると腹が立つこともあるけれど、それでも、もっと一緒にいたいわ」


「それは、かなり僕を好きだね」


「せっかく真面目に言ってるのに」


「真面目に聞いているよ。今の言葉は、一生覚えておく」


 握り返された手が温かかった。ユアンはその手を見つめてから、ゆっくりと顔を上げる。夕暮れの光の中で、彼の瞳がいつになく澄んで見えた。


「僕も愛している、アリアナ」


 まっすぐに告げられ、今度はアリアナが言葉を失った。


 甘い言葉には慣れてきたと思っていた。けれど、彼の声で自分の名を呼ばれるだけで、こんなにも胸がいっぱいになる。指先まで、じんわりとした幸福感が広がっていくようだった。


 ユアンの視線が、ほんの一瞬、アリアナの唇へ落ちた。


「抱きしめても?」


「ええ」


 近づいてきた腕が、背中へ回る。アリアナも彼の上着へ手を添え、少しだけ身体を寄せた。肩の向こうには侍女がいるはずだと思い出したが、今は離れたくなかった。


 彼のつける香水の香りが、ふわりと鼻先をくすぐった。腕の中に閉じ込められる感覚は、これまで感じたどんな温かさとも違っていた。


 ユアンの胸が、思っていたより速く上下している。


「あなたも、緊張なさるのね」


「君は僕を何だと思っているんだろう」


「こういうことには、慣れていらっしゃる方だと」


「今、人生で一番嬉しいことが起きたんだ。慣れているはずがない」


 耳元で言われ、アリアナは彼の上着を握る指に力を込めた。低い声が肌の上を滑るように響き、背筋がふるりと震える。


 しばらくして身体を離すと、ユアンは腕を緩めたまま、こちらを見つめた。指先はまだ、アリアナの背中に触れたままだった。


「口づけてもいい?」


 アリアナは頷きかけ、少しだけ顎を上げた。


「今度は、私もそうしたいわ」


 ユアンの目が細められる。その顔が近づくのを見ながら、アリアナは静かに目を閉じた。夕日の温もりよりも近く、彼の吐息だけを感じる距離だった。


 触れた唇は温かく、思っていたよりも優しかった。上着に添えた指を緩めると、背中を支える腕がわずかに近づく。アリアナは逃げずに、彼の唇へ自分から小さく応えた。


 噴水の水音も、風の音も、その瞬間だけは遠くへ消えていた。世界にあるのは、重なった体温と、静かに絡み合う鼓動だけのように思えた。


 離れたあとも、すぐには顔を上げられなかった。ユアンの胸元を見つめていると、頭の上から低い声が降ってくる。


「もう一度、とお願いしたら?」


「夕食に遅れるわ」


「まだ少し時間がある」


「父が呼びに来るかもしれません」


「それは困る。今日稼いだ点を、一度で失いそうだ」


 ようやく顔を上げると、ユアンが笑っていた。夕焼けの色を映したその顔は、これまで見てきたどの笑顔よりも柔らかく見えた。アリアナも笑い返し、彼の腕から離れた。


 立ち上がると、ユアンがいつものように腕を差し出す。


「戻ろうか」


「ええ。父と母に、お話ししなくては」


「君のお父上には、仕事を手伝う時間を減らすつもりはないと、先に伝えたほうがよさそうだね」


「その前に、結婚のお話でしょう?」


「そうだった。どうも今日は、調子が狂うな」


 アリアナは差し出された腕へ手を回した。邸の窓には明かりが灯り始めている。あの中へ戻れば、母はきっと喜び、父は真面目な顔でいくつも確認をするだろう。


 その一つ一つに、今度は二人で答えればいい。


「ユアン様」


「何?」


「食事のあと、もう少しいてくださる?」


 ユアンはアリアナを見て、嬉しそうに口元を緩めた。


「喜んで。帰れと言われるまで居座るつもりだったけれど」


「言われる前に、お帰りになってください」


「では、明日も会ってくれる?」


「明日は、私からお手紙を書くわ」


「それは待ち遠しいな」


 そんな話をしながら、アリアナは彼と並んで歩いた。繋いだ腕から伝わる体温だけが、夕闇の中で確かなものとして残っている。明日の約束も、その先の暮らしも、話したいことはまだいくらでもあった。


 二人が歩いた小道には、夕焼けに染まった花びらが静かに舞い落ち、これから始まる長い物語の最初の一ページを、そっと彩っていた。

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