41. 動き出す未来
ユアンを招いた日の午後、父の書斎には、いつもの倍ほどの生地見本が積み上がっていた。
「お父様。今日は、私に何を任せるか相談するだけのはずよ?」
「分かっている。だが、判断するにも実物が必要だろう」
父は平然と答えたが、机の脇には生地見本を収めた箱が二つも置かれている。アリアナがそちらへ目を向けると、父はさりげなく椅子を引き、隠すように箱の前へ立った。
「そちらの箱は?」
「別件だ」
「私はまだ何も聞いていませんけれど」
隣でユアンが小さく咳払いをした。口元へ手を添えているが、肩がわずかに揺れている。どうやら笑いをこらえているらしい。
「ユアン様も、笑っていないで何か言ってください」
「いや。とても仲のよい親子だと思って」
「どこを見たらそう思えるのですか」
「隠しても見つかると分かっているのに、箱を用意しているところかな」
父が気まずそうに眉を寄せたため、アリアナも堪えきれずに笑った。
結局、隠されていた箱まで机へ載せることになった。
「前にも少し話したが、新しいブランドを立ち上げるつもりだ」
父は箱を開きながら、ようやく本題を切り出した。
中に入っていたのは、淡い色合いの綿布と、飾り気のない女性用肌着の試作品だった。柔らかさでは商会の高級品に及ばないものの、目が詰まっていて丈夫そうに見える。
「高級な肌着ではなく、価格を抑えた普段使いの品を作る。できるだけ多くの型を共通化し、工場でまとめて縫製すれば、今の半分近い価格で売れるはずだ」
「働く女性や、使用人でも買える品を作るのよね」
「それだけではない。肌着は誰もが毎日使う。ところが今は、家で仕立てるか、仕立屋へ頼むのが当たり前だ。傷んでも、すぐに新しいものを用意できない家庭は多い」
父は試作品を机へ広げ、縫い目を指で示した。
「寸法をある程度統一して店頭へ並べれば、必要なときに必要な枚数だけ買える。飾りは最低限にして、価格と丈夫さを重視するつもりだ」
アリアナは試作品を手に取った。
確かに、縫製は単純だった。同じ形の部品をまとめて裁断すれば、生地の無駄も減らせるだろう。だが、内側の縫い代へ指を滑らせたところで、わずかな引っ掛かりを感じた。
「安くすることには賛成だけれど、肌へ直接触れるものだから縫い代が硬いと、長く着たときに擦れてしまうわ」
「そこまで気になるものか?」
「お父様が一日中これを着て確かめてみます?」
「女性用の肌着を?」
「ご自分で試せないからこそ、実際に着る人の意見が必要なんじゃない」
言い返すと、父は口を閉ざした。
向かいに座るユアンは、試作品を見てよいものか迷ったらしく、先ほどから生地見本だけを熱心に眺めている。
「ユアン様」
「はい」
「今、なるべく関わらないようにしていましたね?」
「女性の肌着について、婚約者の父親と熱心に語り合う男だと思われたくなかったんだ」
「商売の話です」
「そう言ってもらえると助かるよ」
神妙な顔で答えたものの、ユアンの目には笑いが滲んでいる。
アリアナは呆れながらも、淡い生成りの綿布を指先で確かめ、窓から差し込む光へかざした。織り目を調べてから、隣に置かれた布と重ねてみる。
「こちらは少し薄すぎるわ。価格は抑えられても、何度か洗えば形が崩れそう」
「洗濯試験は済ませている。報告書もあるぞ」
「試験前と試験後の実物は?」
「用意してある」
「着用した人からも意見を聞いたの?」
「工場の女性職員へ試作品を渡した。回答は集計中だ」
質問を重ねるたび、父の机から書類や見本が取り出されていく。
アリアナは呆れ半分に父を見つめた。
「やっぱり、今日は相談だけではありませんでしたね」
「お前なら、そこまで確認するだろうと思っただけだ」
ぶっきらぼうに答えながらも、差し出された報告書は項目ごとにきれいに整理されていた。
洗濯回数による縮み。生地の毛羽立ち。縫い糸の傷み。試着した女性たちから寄せられた、肩紐の長さや胸元の開きに関する意見まで記されている。
初めから、自分へ見せるつもりで用意していたのだろう。
その事実に気づくと、胸の内がじんわりと温かくなった。
「お父様」
アリアナは報告書を受け取る前に、父の顔を見た。
「今までのように、感想を言うだけではなく、私にも仕事として任せてほしいの」
父の手が止まる。
「この新しいブランドの試作品作りから、私を関わらせてください。生地を選び、形を考え、実際に着る女性たちの意見を集めて改良したいわ。何をいつまでに仕上げるのかも、最初にきちんと決めましょう」
父は一度だけユアンへ目を向けた。
まるで、侯爵家へ嫁ぐかもしれない娘へ商会の仕事を任せてもよいのか、確かめようとしているように見える。
ところがユアンは何も口を挟まず、静かにアリアナを見返した。彼女の仕事について決めるのは自分ではないと、態度で示しているようだった。
父もそれを察したのか、すぐにアリアナへ視線を戻した。
「途中で嫌になったからやめる、では困るぞ」
「ええ。だからこそ、最初に責任の範囲を決めたいの。無理に何もかも引き受けて、途中で投げ出すようなことはしたくないもの」
「どこまでならできる?」
「まずは女性用の肌着を二種類。生地と形を変えた試作品をそれぞれ三着ずつ作ります。工場で働く女性たちに協力してもらい、二週間着てもらったあとで意見を集めたいわ。洗濯後の変化も、私が確認します」
「二週間後に改良案を提出できるのか?」
「できます。ただし、価格を決める前に、縫製を担当する人たちから作業時間を聞かせてください。作りにくい形では、いくら生地を安くしても量産できませんもの」
父はしばらく娘の顔を見つめたあと、机の上を空け、中央へ白紙を一枚置いた。
「分かった。では、お前に試作品の企画を任せる。期限と予算を決めよう」
正式に仕事を任された。
その事実を前に、胸の奥へ喜びが込み上げたものの、浮かれた顔を見せるのが気恥ずかしくて、アリアナは試作品の下着へ視線を落とした。
「こちらの布は、価格が安いようですね」
それまで話を聞いていたユアンが、一枚の生地見本を手に取った。
「丈夫さも十分にあるように見えますが、先ほどのものより硬い気がします」
「肌着には向かないと思うわ。洗えば柔らかくなる可能性はあるけれど、それを確かめずに採用はできないわね」
「価格を重視する家庭ほど、一着を長く使うことになる。買ったときだけではなく、長く着たあとの状態が大切ということか」
ユアンは二枚の布を折り重ね、厚みと手触りを慎重に比べている。
「そういうことです。安い品だからといって、使う人に我慢を押しつけてよいわけではありません」
「なるほど。ストーンハーストでも、手頃な価格で丈夫な肌着を求める家庭は多いはずだ。試作品ができたら、領内でも意見を集められると思う」
ユアンの申し出に、父が初めて明確な興味を示した。
「農家や牧場で働く女性の意見も得られるならありがたい。王都の女性とは、求められる丈夫さも違うだろうからな」
「手配します。ただし、アリアナがそれを望むなら」
二人の視線を向けられ、アリアナは頷いた。
「お願いします。王都だけで売る品ではありませんもの。いろいろな暮らしをする人に、実際に使ってもらいたいわ」
父は白紙の上部へ、新ブランドの仮称と、試作品完成までの日付を書き込んだ。その筆先は、心なしか普段より弾んでいるように見える。
「お父様、楽しそう」
「仕事だからな」
「口元が緩んでるわ」
「気のせいだ」
父は素っ気なく答え、顔を隠すように書類へ視線を落とした。
ユアンと目が合う。彼も同じことを思ったらしく、青い瞳へ柔らかな笑いが浮かんでいた。
アリアナは気づかないふりをして、ユアンへ次の生地見本を差し出す。
今まで商会の品へ意見を述べることはあっても、自分の名で仕事を任されたことはなかった。
父の机の上に並ぶのは、試作品や生地見本、そしてまだ何も描かれていない白紙の束だ。それでもアリアナには、そこへ自分の未来の一端が、鮮やかに描かれ始めたように思えた。




