40. 二人で決めること
月曜日の午後、ユアンは約束の時刻より少し早く訪れた。
裁縫籠を抱えて応接室へ向かっていたアリアナは、廊下で鉢合わせるなり、彼の顔と柱時計を見比べた。
「まだ、お約束の時間ではありませんけれど」
「知っているよ。馬車が思ったより順調に進んでね」
「御者に急ぐよう、おっしゃったのでは?」
「少しだけ」
悪びれもせずに認められ、笑いそうになるのをこらえた。本当は自分も昼食のあとから、何度も時計を見ていたけれど、もちろんそのことは黙っておく。
ユアンは抱えている籠へ目を向けた。
「進んだ?」
「少しだけ。まだ完成ではないけれど」
「では、今日も途中のものを見せてもらおう」
当たり前のように言われると、仕上がっていないことを断る必要もなくなる。彼とサロンへ入り、ソファに腰を下ろすと、籠から帽子を取り出した。
両脇を縫い合わせたことで、平たかった布は丸みを帯びている。縁の始末はまだ残っていたが、前よりは帽子らしくなったはずだ。
「おや。もう被れそうだ」
「内側を縫い終えていないから、まだ駄目よ」
「僕には、もう出来上がって見えるけれど」
「外から見えないところほど、きちんとしておきたいの。肌に当たるものだし」
縫い代を指で示すと、ユアンが覗き込んだ。その顔が思ったより近く、アリアナは説明の途中で少し声を落とす。
「ここを包んで、糸が直接当たらないようにするの」
「なるほど。僕なら見えないからいいかと済ませてしまいそうだ」
「そういう細かい部分を無視すると、お父様に叱られるわよ」
「では、今の発言は内緒にしておいて」
ユアンが真面目な顔をするので、とうとう笑ってしまった。
使用人が紅茶を置いて下がると、彼は上着の内側から手紙を一通取り出した。
「今日は、父から伝言を預かっているんだ」
「ストーンハースト侯爵から?」
「よければ、君を晩餐へ招きたいそうだ。もちろん、ご家族も一緒に」
アリアナは帽子を籠へ戻し、姿勢を正した。
ストーンハースト侯爵には、事件のあとに挨拶をしたきりだった。父とともに法案の成立へ力を尽くした人であり、ユアンの姉の話を聞いてからは、以前とは違う思いでその名を受け止めている。
「何か、お話があるのかしら」
少しだけ身をこわばらせると、ユアンは柔らかく目を細めた。
「そんなに身構えなくて大丈夫だよ。君と、もう少しゆっくり話したいらしい。あとは、僕がきちんと振る舞っているか、君の口から確かめたいんだろうね」
「何とお答えすればよろしいの?」
「見た目も性格も申し分のない婚約者です、と」
「では、お断りしたほうがよさそうね。ストーンハースト侯爵に嘘はつけませんもの」
「少しくらい褒めてくれてもいいのに」
ユアンは肩を落としてみせたあと、手紙をテーブルへ置いた。
「返事は急がなくていい。君のご両親にも、都合を聞いてもらえる?」
「ええ。伺っておくわ」
「それと、これは父からではなく、僕からの話なのだけれど」
いつもよりわずかに慎重な声に顔を上げた。ユアンは紅茶カップへ伸ばしかけた手を戻し、こちらを見ている。
「もし、いずれ君が結婚を承諾してくれたら、どこで暮らしたいか、考えたことはある?」
不意に具体的なことを尋ねられ、胸が小さく跳ねた。
結婚するかどうかについては、何度も考えている。けれど、結婚したあとの朝をどこで迎えるのかまでは、まだはっきり思い描いたことがなかった。
「領地にある侯爵家のお屋敷に住むものだと思っていたわ」
「父のいる屋敷に住むこともできるし、別に家を構えてもいい。王都にいる時間を多くするか、領地で過ごすかということもある」
「あなたは、どうしたいの?」
「領地にいる時間を増やしたいと思っている」
迷いのない答えだった。アリアナが黙っていると、ユアンは言葉を続けた。
「いずれ継ぐのに、君のほうが森に詳しいままでは格好がつかないだろう?」
「今さらではなくて?」
「手厳しいな。まあ、それだけではないけれどね」
ユアンは少し笑ってから、テーブルの上の手紙へ目を落とした。
「父が元気なうちに、教わっておきたいこともある。これまでは王都にいるほうが気楽だったけれど、いつまでもそうしてはいられないから」
アリアナは膝の上で手を重ねた。
ストーンハーストで暮らすこと自体は、嫌ではなかった。懐かしい土地だし、工場もある。かつてのように、そこへ戻れば何もかも元どおりになるとは流石に思っていないが、今も大切な場所には違いない。
むしろ人の揚げ足を取ろうと待ち構える王都の社交界から距離を置けるなら、その方がずっと心が休まるはずだ。
けれど、すぐに頷こうとすると、セシリアの顔が浮かんだ。
「私は、しばらく王都にいたいわ」
口にした瞬間、思わず息を詰め、ユアンの表情を盗み見てしまう。彼はその言葉に小さく目を見張り、浮かべていた笑みをすっと消したものの、責めるような色は見せなかった。ただ静かに、先を促すように深々と頷いてみせる。
「君が気にかけているのは、セシリア嬢のこと?」
「ええ。出産も控えているし、生まれたあとも、できるだけ会いたいわ。母もいるし、オリビアお姉様もいるから、私がいなくても困らないとは思うけれど」
言いながら、自分の希望を小さくしようとしていることに気づいた。
出産後も側にいてとセシリアに頼まれているわけではない。ただ単に、アリアナがそばにいたいだけだ。生まれた赤ん坊に帽子を被せたいし、疲れている姉の話も聞きたい。離婚を申し立てたあとも続いていく姉の暮らしを、もう少しだけ近くで見ていたかった。
「やっぱり、今の言い方は違うわね。姉様が困るからではなくて、私がそうしたいの」
「うん」
「それに、結婚したら実家へ行くのにも気を遣うようになるのは嫌なの。今日は帰りたいと思ったときに、いちいち悪いことをするような気持ちにはなりたくないわ」
ユアンはしばらく考えたあと、背もたれから身体を起こした。
「僕に気を遣って、会うのを諦める必要はないよ。ただ、夕食までに帰る予定が変わったら、知らせてほしい」
「帰ってきなさいとおっしゃるつもり?」
「迎えに行っていいか聞く」
「迎えに?」
「君のご実家に泊まっていいなら、それも聞く」
アリアナは瞬きをした。
「あなたまで?」
「僕だけ家で夕食を食べるのは寂しいだろう?」
「毎回ついてこられても困るわ」
「それなら、君が嫌だと思う日は諦める。だけど、たまには君の家族に混ぜてほしい」
あまりに率直に言われ、アリアナは俯いて笑った。ユアンはそのまま、少し声を和らげた。
「ただ、領地のことは、僕も先延ばしにしたくないんだ。君が王都にいる間も、領地ですべきことはあるからね」
「ええ。それは分かるわ」
「できれば一緒に来てほしいけれど、いつもとは言わない。最初から一年中同じ場所にいなければならないと決めなくてもいいと思う」
アリアナは彼を見つめた。
「しばらく王都を暮らしの中心にして、あなたがお仕事で領地へ行くときに、私も行けそうなら一緒に行くということ?」
「ああ。君が行きたい用事に、僕がついていくこともあるだろうしね」
「暮らしてみて、都合が悪かったら?」
「また相談しよう」
その答えは、思っていたより簡単だった。
何もかもアリアナの望むままにするとは言われていない。ユアンにはユアンの希望があり、譲れない事情もある。それを聞いたうえで、自分の希望を口にしても、どちらかが黙るまで言い争うことにはならなかった。
それは未来を見据えた場合、重要な発見だった。
アリアナはカップを持ち上げた。紅茶は少し冷めていたが、喉を通る程よい温かさが、強張っていた身体へゆっくり広がっていく。
「もう一つ、あるの」
「どうぞ。今日は遠慮なく聞いておきたい」
「私、結婚しても、今までみたいに父の仕事を手伝いたいと思っているの」
ユアンはカップを置いた。アリアナは膝の上で手を重ね、言葉を続けた。
「父も、そうしてほしいと思っているはずよ。はっきりとは言わないけれど、生地について意見を求めてくるときなんか、答えると妙に嬉しそうになるから」
「分かりやすいね」
「本人は隠しているつもりなのよ。私が気づいていないと思っているみたい」
思い返すと、少し笑ってしまう。何気ない相談を装いながら、アリアナが口を開くと熱心に耳を傾ける父の姿は、何度も見てきた。
「でも、父が望んでいるからというだけではないの。私自身が、やりたいと思っているわ。知っていることを役立てたいし、自分の意見を出すだけでなく、その先まで関わりたいの」
「その先?」
「どの生地を選んで、何に仕立てて、誰に届けるのか。出来上がったものを見て感想を言うだけではなくて、作るところから手伝いたいということよ」
口にすると、以前から胸の中にあった願いが、はっきりした形になっていく。アリアナはユアンの目を見た。
「侯爵家へ嫁ぐなら、覚えなければならないことも、果たすべき役目もある。それを放り出したいわけではないけれど、結婚したからという理由で、父の仕事から離れるのは嫌なの」
ユアンはしばらく考えるように黙った。その間、アリアナも言葉を足さずに待った。軽い気持ちで口にした願いだとは、思われたくなかったからだ。
「一つ、困ることがあるな」
「何?」
「君のお父上と、君の限りある時間を取り合うことになる」
真顔で言われ、アリアナは眉を寄せた。
「真面目に話しているのよ」
「僕も真面目だよ。仕事の話を始めたお父上から、君を取り戻せる気がしない」
「私を、父の持ち物のように言わないで」
「失言だった。では、君に僕との時間も確保してもらいたい」
さらりと言い直され、アリアナは笑いそうになるのをこらえた。
「それは、仕事を手伝うことには反対しないという意味?」
「ああ。ただ、引き受ける前に、どのくらい時間が必要なのかは話してほしい。こちらの予定もあるだろうし、お父上も、君が手伝うとなれば頼みたいことが次々に出てきそうだからね」
それは十分にあり得た。父が喜ぶ様子を想像すると、アリアナにも否定はできない。
「最初に、何をどこまで引き受けるのか、父ときちんと決めておくわ」
「そうしてもらえると助かる。君も、期待されると頑張りすぎそうだし」
「あなたほど無茶はしません」
「傷の話をされる前に、頷いておこう」
ユアンがおとなしく頷くので、とうとう笑ってしまった。
「でも、忙しい時期はあると思うの。いつも同じように時間を取れるとは限らないわ」
「僕にもあるよ。そのときは、また相談しよう。どちらかが我慢し続けるようなら、やり方を変えればいい」
簡単に何もかも両立できるとは言われなかった。その代わり、うまくいかなくなったときにも、話をするつもりでいてくれる。そのことに、アリアナはほっとした。
「あなたも、一緒に父の話を聞いてくださる?」
「もちろん。ただし、僕に理解できるところからお願いしたいな。君たち二人だけで話が進むと、置いていかれそうだ」
「分からなければ、聞けばいいでしょう?」
「君が教えてくれる?」
「私に分かることなら」
「それは楽しみだ。わざと何度も質問してしまうかもしれない」
「そうなったら、父に代わってもらいます」
「一度で覚える努力をするよ」
即座に返され、アリアナは微笑みながら肩の力を抜いた。
父の仕事を手伝いたいと話せば、結婚後の役目を心得るよう諭されるかもしれない。そんな身構えがあったことに、今になって気づく。けれどユアンが尋ねたのは、諦められるかどうかではなく、どうすれば一緒に暮らしながら続けられるかということだった。
「父は、喜ぶと思うわ」
「君が手伝うことを?」
「ええ。それに、あなたも一緒に話を聞くと知ったら、きっと張り切るわね」
「では、その日は夕食まで空けておこう」
「夕食で終わるかしら」
「君と一緒なら、多少長くても構わないよ」
またそんなことを言う。呆れながらも、アリアナは父と向かい合うユアンの姿を思い浮かべていた。その隣に自分が座り、ときには説明を補い、ときには彼の問いに答える。
結婚したあとにも続けたいと思っていたことの中へ、彼が加わってくる。その光景を、アリアナはもう少し詳しく思い描いてみたくなった。




