39. 次に会う日の約束
ユアンに婚約の継続を告げてから、三週間が過ぎた。
婚約解消の申立書は、今もアリアナの部屋の引き出しに収められている。けれど、最近よく手に取るのは、その上の段にしまったユアンからの手紙だった。
訪問の日時を尋ねるだけなら、数行で済むはずだ。それなのに彼の手紙には、たいてい余計な一言が添えられていた。
『木曜日の午後、君に会いに行っても? 先約があるなら別の日に。ただし、あまり先になると、僕が用もなく君の家の前を散歩し始めるかもしれない』
最初に読んだときは呆れたものの、返事を書く頃には、アリアナも少しばかり対抗したくなっていた。
『木曜日は姉たちと出かけます。土曜日なら空いています。なお、邸の前を不審な方が歩いていたら、追い払うようにと門番に伝えておきますね』
すると翌日には、『では土曜日に、正面から堂々と伺います』と返ってきた。
約束どおり、木曜日にユアンは現れなかった。土曜日より前に会いたいという手紙も、不満を匂わせる伝言もなかった。そういうところは、きちんとしている。だからといって、口まで慎み深くなったわけではなかった。
「今日は一段と可愛いね。僕のため?」
サロンへ入ってきたユアンは、挨拶もそこそこにそう言った。
アリアナは立ち上がりかけた姿勢のまま、彼へ目を向けた。今朝、髪に結ぶリボンを二度も選び直して、結局ユアンの瞳の色に似たブルーを選んだこと。
いつもなら迷わず動きやすさを優先した仕立てを選ぶのに、今日ばかりはオリビアに「少しは恋する乙女らしくなったら?」とそそのかされるまま、レースと刺繍が華やかな一着を選んでしまったこと。
それら全てを見透かされた気がして、少し腹立たしい。
「朝からずっと、この格好です」
「それは嬉しいな。朝から僕のことを考えてくれていたんだ」
「誰もそんなことは言っていません」
「では、これから考えてくれればいいよ」
ユアンは悪びれもせずに笑い、向かいのソファへ腰を下ろした。あまりにいつもどおりなので、アリアナもそれ以上言い返す気を失い、用意された紅茶へ手を伸ばす。
「お姉様たちとの買い物は、楽しめた?」
「ええ。母も一緒だったのだけれど、買いすぎないように止めるのが大変だったわ」
「赤ん坊のもの?」
「そう。まだ生まれてもいないのに、靴を何足も選ぼうとするの。歩くのはずっと先でしょうって言ったら、飾っておくだけでも可愛いからって」
「その気持ちは分かるな」
「あなたまで?」
「可愛くて仕方のない相手には、必要のないものまで贈りたくなるんだよ」
わざとらしくこちらを見ながら言われ、アリアナはカップを置いた。
「先に申し上げておきますけれど、靴は足りています」
「惜しい。聞くのが少し遅かったら、一緒に選びに行く約束までできたのに」
「油断も隙もありませんね」
「ねえ、アリアナ。三週間も真面目に通っている婚約者に、厳しくない?」
「真面目な方は、ご自分でそうおっしゃいませんもの」
ユアンは楽しそうに笑った。その顔を見ていると、ついこちらの口元まで緩みそうになるので、アリアナは皿の上の焼き菓子へ視線を落とした。
彼と会うと、いつもこうなる。今日こそ落ち着いて話そうと思っていても、気づけば言い返している。以前は腹立たしさばかりが残ったのに、最近は帰ったあとで会話を思い出し、一人で笑ってしまうことまであった。
「君は何か選んだの?」
「帽子を作るための布を少し。小さなものなら、私にも縫えそうだったから」
「へえ。見たいな」
「まだ途中よ」
「では、途中のものを」
「上手にできているか分からないのに?」
「僕の前では、何もかも上手にできなくてもいいと思うけれど」
さらりと言われ、アリアナは顔を上げた。
ユアンは紅茶を飲みながら、返事を待っている。気負いのないその様子に背中を押されるようにして、アリアナは近くの使用人へ裁縫籠を持ってくるよう頼んだ。
やがて運ばれてきた籠から、縫いかけの帽子を取り出す。淡いクリーム色の布には、まだ片側にしつけ糸が残っていた。
「本当に小さいね」
ユアンが身を乗り出し、アリアナの手元を覗き込む。
「でしょう? 型紙どおりなのだけれど、本当に頭が入るのか心配なの」
「僕の手にも載りそうだ」
「載せてみます?」
「いいの?」
差し出された手のひらへ、帽子をそっと置く。彼の長い指と並ぶと、ますます小さく見えた。ユアンはひっくり返したり引っ張ったりせず、手の上に載せたまま眺めている。
「これを被るくらいの子が生まれてくるのか」
「生まれたときから、あなたの大きさでは困るもの」
「セシリア嬢に嫌われそうだね」
「私だって嫌よ」
言ってから、余計なことを口にした気がした。ユアンが顔を上げるより早く帽子を受け取ろうとしたのに、彼の口元には、すでに笑みが浮かんでいる。
「今、少し先のことまで考えてくれた?」
「帽子の話です」
「そういうことにしておこう」
追及されなかったことにほっとしたものの、勝手に満足されるのも面白くない。アリアナは帽子を籠へ戻しながら、彼を軽く睨んだ。
「まだ、あなたと結婚すると決めたわけではありませんからね」
「覚えているよ。だから、今日もせっせと口説きに来ているわけだし」
「少しは隠そうとなさらないの?」
「隠したら、君は気づかないふりをするだろう?」
否定しようとして、言葉に詰まった。ユアンはそんなアリアナを眺め、いっそう楽しげに目を細めた。
◇
紅茶を飲み終えると、二人は庭へ出た。
朝まで降っていた雨は上がり、葉先に残った雫が日の光を受けている。少し離れてついてくる侍女の足音を聞きながら、アリアナは小道を進んだ。
以前は、まるで監視されているようで嫌だと、侍女を伴わずに歩いていた。そもそも平民時代は、侍女などいないのが当たり前だった。貴族になったからといって、どこへ行くにもついてこられるのは落ち着かない。そう訴えれば、両親もあっさり許してくれていた。
けれど、法案にまつわる事件に巻き込まれてから、父は急に態度を変えた。
『お前たちを失うかもしれないと一度でも思ったら、過保護と言われようが譲れん。これからはアリアナとオリビアも必ず侍女を連れていきなさい』
言われたときは、自由をすっかり奪われたようで不服だった。けれど、侍女の目がなかったからこそ、あの庭小屋でユアンに唇を奪われる羽目になったのも事実だった。もちろん父には話せないが、付き添いなど必要ないと言い切ることもできず、今はおとなしく従っている。
曲がり角に差しかかったところで、ユアンが腕を差し出した。
「どうぞ」
「このくらい、一人で歩けます」
「知っているよ。君は僕を支えて森を歩けるくらいだからね」
「でしたら、必要ないでしょう?」
「必要があるのは僕のほう。君と腕を組んで歩きたいんだ」
あまりに堂々と言われ、アリアナは返事に困った。ユアンは差し出した腕をそのままに、わずかに首を傾げる。
「駄目?」
「今日は、結構です」
「残念」
彼はあっさり腕を下ろし、そのまま隣を歩き始めた。
拍子抜けするほど簡単に引かれたので、アリアナは思わずその横顔を見た。ユアンは気づいているのかいないのか、濡れた枝から落ちてきた雫を避けて、少しだけ身体をずらしている。
「本当に残念だと思っていらっしゃる?」
「かなり。顔に出したほうがよかった?」
「そういう意味ではなくて」
「ここで僕がひどく落ち込んだら、君は断りづらくなるだろう?」
何でもないことのように答えてから、ユアンはこちらへ顔を向けた。
「断られるたびに倒れていたら、君を口説くには身体がいくつあっても足りないしね」
「私が、いつも断ってばかりいるような言い方ね」
「では、次は期待しても?」
「そういうところです」
ユアンが声を立てて笑った。
アリアナも呆れながら、先ほど下ろされた彼の腕へ目を向ける。嫌だったわけではない。ただ、あまりに手慣れた仕草に、すぐ応じるのが悔しかったのだ。
こんな面倒な気持ちまで、説明しなくてはいけないのだろうか。少し迷った末に、アリアナは彼の上着の袖へ手を添えた。
「アリアナ?」
ユアンが足を止める。アリアナは前を向いたまま、その腕へ手を回した。
「この先は、まだ石が濡れているから」
ユアンは小道の先を見た。雨の名残は確かにあったが、歩けないほどではない。
「雨に感謝したのは、初めてかもしれない」
「大袈裟です」
「次の訪問日も、雨上がりだといいな」
「そういうことをおっしゃるなら、離しますよ」
「では、天気の話はやめよう」
即座に話題を切り上げられ、アリアナは笑いをこらえきれなかった。
腕を組んでみると、服越しにも彼の腕の確かさが伝わってきた。森で支えたときのように重みがかかることはなく、こちらの歩調に合わせてゆっくり動く。あの夜は血の匂いと冷たい水に気を取られ、こうして並んで歩けるだけでどれほど安心するかなど、考える余裕もなかった。
「傷は、もう痛まない?」
尋ねると、ユアンは脇腹へ目を落とした。
「普段はね。医者にも、順調だと言われている」
「痛むときは、きちんとおっしゃってください。あとから知るほうが嫌です」
「分かった。実はさっき、エスコートを断られたときに少し胸が痛んだ」
「そちらは、ご自分で何とかしてください」
「今、治ったよ」
腕に添えた手を見ながら言われ、アリアナは前を向いた。こちらが真面目に心配していても、彼はすぐにこうしてふざけてしまう。
それでも、あの森で震えていた腕を知っている。軽口を叩いているからといって、何も感じていないわけではないことも、今は分かっていた。
アリアナが彼の腕に添えた指へほんの少し力を込めると、ユアンは何も言わず、歩調をわずかに緩めてくれた。
◇
サロンへ戻ってしばらくすると、ユアンが置き時計へ目を向けた。
「そろそろ失礼するよ」
「もう?」
思わず尋ねると、彼は楽しそうに眉を上げた。
「その聞き方は、期待してしまうな」
「まだ、お茶が残っているでしょう」
「飲み終わるまで、一滴ずつ粘ってみようか?」
「そういう意味ではありません」
いつものように言い返したものの、ユアンが立ち上がると、部屋が急に静かになった気がした。
今日はこのあと、母と客を迎える約束がある。彼もそれを知っているから、支度の時間を残して帰ろうとしているのだろう。引き留めてはいけない理由は、アリアナにも分かっていた。
「次は、水曜日ならゆっくり伺えるけれど、君の都合は?」
「水曜日は、オリビアお姉様とデレクと、美術館に行く予定なの」
「では、金曜日は?」
「午後なら空いています」
「決まりだね」
ユアンは満足そうに頷いたが、アリアナはすぐには返事ができなかった。
今日は土曜日だ。金曜日までは、一週間近くある。三週間前には、会う前にあれほど身構えていたのに、今はその間隔がひどく長く思えた。
ユアンが手袋を取り、帰り支度を整える。そのまま扉へ向かいかけたところで、アリアナは口を開いた。
「月曜日は?」
ユアンが振り返った。
「月曜日?」
「午後、お時間はあるかしら?」
「あるよ」
「でしたら、その日にいらしてもいいけれど」
彼の口元がゆっくりと緩んだ。
「金曜日まで待てなくなった?」
「ご都合を聞いただけです」
「僕は金曜日まで待てないと思っていたから、ありがたいな」
ためらいなく言われると、逃げ道を塞がれたような気がする。そのくせ、不思議と嫌ではないと思ってしまうのだから、たちが悪い。
アリアナは身体の脇で指先を握り、顔を上げた。
「私も、少し長いと思ったの」
ユアンの笑みが止まった。今度はこちらが、彼の顔を見つめる番だった。ほんの短い沈黙のあと、ユアンは口元へ手を添え、困ったように息を吐いた。
「そういうことは、帰る前に言わないでほしいな」
「どうして?」
「帰りたくなくなるから」
その声音が思ったよりも柔らかくて、胸が熱くなった。
自分から誘っただけなのに、彼を喜ばせられたことが嬉しい。そんな気持ちまで顔に出てしまいそうで、アリアナはテーブルの上へ視線を落とした。
「では、月曜日に」
「ああ。約束する」
ユアンが手を差し出した。
「手を取っても?」
「ええ」
重ねた手を、彼の指がそっと包む。庭で腕を組んでいたときとはまた違う近さに、落ち着かなくなりながらも、そのまま彼を見上げた。
「口づけも?」
彼の視線が手元へ向けられ、尋ねているのは手のことだと分かった。それでも頬が熱くなり、アリアナは小さく頷いた。
「手袋の上からなら」
「今日は随分、僕に優しいね」
「嫌なら結構です」
「とんでもない」
ユアンはすぐに身を屈め、手袋越しに指の付け根へ唇を触れさせた。短い口づけのあと、顔を上げた彼と目が合い、アリアナは手を引くことを忘れていた。
「月曜日が遠いな」
「先ほど決めたばかりでしょう」
「決める前より、待ち遠しくなった」
同じ気持ちだとは、とても言えず、ただ、握られた手へ視線を落とした。
玄関で彼を見送ってから部屋へ戻ると、アリアナは裁縫籠を覗いた。縫いかけの帽子は、ユアンへ見せたときのまま、布の上に載っている。
月曜日までには、もう少し形にできるだろう。完成していなくても、彼ならまた覗き込んで、何か余計なことを言うに違いない。
そのときは何と言い返そうかと考えかけて、一人で笑ってしまった。母の客を迎える支度をするために鏡へ向かうと、髪に結んだ青いリボンが目に入る。
月曜日もこれにしようか。それとも、別の色にして気づくかどうか試してみようか。
鏡の前でリボンの端を整えながら、アリアナはもう、次に彼と会う日のことを考えていた。




