↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
38/49

38. それぞれの手で掴むもの2

 裏庭へ出ると、夜の冷たい空気が火照った頬を撫でた。


 室内から流れてくる音楽は、扉を閉めた途端に遠ざかる。美しく整えられた庭には淡い月光が降り、噴水の水面を銀色に輝かせていた。


 アリアナは身重のセシリアへ腕を貸し、ゆっくりと小道を進む。


「お姉様、大丈夫? 疲れていない?」


「少しだけ。みんなが気遣ってくれるのはありがたいけれど、同情されることには慣れていないの」


「その気持ち、よく分かるわ」


 アリアナは寄り添う姉の身体を支える手に、少しだけ力を込めた。


 法案の成立を待ち構えていたかのように、セシリアが夫へ離縁を申し立てたことは、瞬く間に社交界へ知れ渡った。


 今夜も広間へ姿を見せた途端、数え切れないほどの視線が姉に注がれた。気の毒がる者もいれば、よく決断したと称賛する者もいる。その一方で、夫を見捨てた冷たい妻だと眉をひそめる者もいた。


 普通の状態でも耐え難いはずなのに、姉のお腹には新しい命が授かっている。


 アリアナは隣を歩くセシリアに、たまらず声をかける。


「嫌だったら、無理に広間へ戻らなくてもいいのよ」


「いいえ。今夜は私もあの場所にいたいの」


 セシリアは優しく微笑んだものの、その声には固い決意が滲んでいた。


「これから離縁する女性が人前に出ることを恥じて隠れていたら、同じことを望んでいる方たちが不安になるでしょう?」


「お姉様が、そこまで背負う必要はないんじゃない?」


「背負っているわけではないの。ただ、今まで隠れていた分、少しくらい堂々と歩いてみたいだけよ」


 穏やかな横顔の奥に、これまでにはなかった強さが見えた。


「お姉様のことが誇らしいわ」


 アリアナが姉の腕へ添えた手にそっと力を込めた、そのときだった。


 前方にある生垣の陰から、一人の男が姿を現した。


 月明かりを受けた顔を認めた瞬間、セシリアの身体が強張る。


「セシリア」


 姉の夫、グレアム伯爵だった。


 アリアナは反射的にセシリアを庇い、一歩前へ出た。


「どうして、あなたがここに?」


「招待状を受け取ったからだよ」


「嘘よ。父があなたを招待するわけないわ」


「妻が参加する夜会なんだ。夫である私が参加するのは義務であって、何らおかしなことはない」


 必死に言葉を紡ぐグレアム伯爵は以前よりもやつれて見えた。仕立てのよい礼服をまとっているものの、目の下には濃い隈がある。


 覇気を失ったようにも見える伯爵がこの場にいる理由は明らかだ。


 セシリアの持参金とアークライト家の後ろ盾を失えば、ようやく持ち直してきた伯爵家の財政が再び立ち行かなくなるからだ。


 なんせ事業で成功を収めた父に、「申し訳ないが、あいつは経営の才が壊滅的だ。セシリアに任せたほうが、よほど上手く回るだろう」と言わしめた男なのだから。


 何よりセシリアは離婚したがっている。だったら、その意見を尊重するまでだ。


 アリアナはツンと顎をあげて胸を張る。


「今夜は、法案の成立を祝う会です。セシリアお姉様へ勝手に接触してよいという意味ではありません」


「セシリアと二人で話したい」


 すがるような声音とは裏腹に、伯爵の瞳には執着と焦燥が入り交じった暗い色が宿っていた。


「頼む。少しだけでいいんだ」


 背後に庇ったセシリアの身体が、一瞬だけ硬くなる。


「お断りいたします」


 アリアナは伯爵の視線を遮るように立ちはだかり、毅然とした声で拒んだ。


「セシリアお姉様は体調を崩されています。それに、離縁の申し立てについては、すべて弁護士を通すようお伝えしたはずです。これ以上お引き取りいただけないのであれば、警備の者を呼びます」


「アリアナ、君には関係のない話だ」


 伯爵が苛立ちを露わにして一歩踏み出した、そのときだった。


「私は、もうあなたの妻でいるつもりはありません」


 セシリアの声が、夜の庭へ静かに響いた。


 アリアナの背後から一歩踏み出し、伯爵を正面から見据える。その顔を目にした途端、伯爵の表情が大きく歪んだ。


「分かっている。だからこそ、話し合いたいんだ」


 伯爵は突然、二人の前で深く頭を下げた。


「すべて私が間違っていた。反省している」


 あまりにも素直な謝罪に、アリアナの警戒心はかえって強まった。


 隣に立つセシリアの指が、小さく震えている。


「何を反省しているのですか?」


 姉の問いかけに、伯爵が顔を上げた。


「お前を寂しくさせたことだ。ほかの女性たちとの関係も、すべて終わらせる。これからは、生まれてくる子供とお前との家庭を大切にすると誓う」


「それだけですか?」


「何?」


「あなたが私へしたことは、寂しい思いをさせただけなのですか?」


 セシリアの声は穏やかだった。しかし、夫から目を逸らさずに問いかける横顔は、張り詰めた弓のように硬い。


「私の持参金を、自分の財産として勝手に使いました。私が実家へ手紙を出すことを嫌がり、屋敷の外へ出るにも許可を求めさせた。あなたの不貞に傷ついたと訴えれば、身重で情緒が不安定になっているだけだと笑いました」


「それは……私にも家を守る責任があったからだ」


「私の財産を奪うことが、家を守ることなのですか?」


「夫婦なのだから、どちらの財産かなど問題ではないだろう」


 伯爵が言い返した瞬間、セシリアの目から最後の迷いが消えたように見えた。


「何も変わっていないのですね」


「セシリア」


「あなたが反省しているのは、私を傷つけたことではありません。法案が成立し、私の持参金を返さなくてはならなくなったことです」


 図星を突かれた伯爵の表情が強張る。


「違う。私はお前と、もう一度やり直したいと思っている」


「では、私が妊娠してから診ていただいているお医者様の名前を言えますか?」


「それは……」


「この子が、いつ生まれる予定なのかはご存じですか?」


 伯爵は答えられなかった。


 アリアナは、伯爵に冷めた視線を向けながら、セシリアが一人で耐えていた状況が具体的に明らかになり、思っていたよりずっと最悪だったことに少なからずショックを受けていた。


 隣にいるセシリアの身体が、かすかに震えている。それでも姉は逃げず、夫を正面から見据えていた。


「私が何を食べられなくなったのかも、どの夜に熱を出したのかも、あなたは知らない。私ではなく、アークライト家から持ち込まれた財産を失うことが怖いだけでしょう?」


「言葉が過ぎるぞ」


 伯爵の声へ怒気が混じった。


 アリアナは反射的に姉を背後へ庇おうとしたが、セシリアが押しとどめるように、その手を握った。


 指先は冷たく、細かく震えている。


 きっと怖いのだ。


 それでも姉は、自分の言葉で戦おうとしている。


 アリアナは繋いだ手を強く握り、そのぬくもりで姉の震えを包み込もうとした。


「言い過ぎではありません。今まで我慢していただけです」


 セシリアもまた、アリアナの手を強く握り返した。


「私は、あなたを許しません」


 伯爵の顔から表情が消え、冷たい蒼白が広がっていく。


「あなたが反省しようと、愛人との関係を終わらせようと、もう一度あなたの妻になるつもりはありません」


「子供はどうする。伯爵家の跡取りだぞ」


「この子は、あなたの家を立て直すための道具ではありません」


「父親から引き離すつもりか?」


「あなたはまだ一度も、この子を気遣ったことがないでしょう」


 セシリアは腹部へ片手を添えた。


「この子は渡しません。持参金も法律に認められた権利を使い、すべて返していただきます」


「そんなことをすれば、我が家はどうなると思っている!」


 伯爵の怒号が庭へ響き渡る。


 ちょうど見回りで通りかかった屋敷の護衛たちが、すぐにこちらへ顔を向けた。アリアナが呼ぶまでもなく、足早に近づいてくる。


 それでもセシリアは、一歩も退かなかった。


「あなたの家なのだから、ご自分で考えたらいかがですか」


「三年も夫婦として暮らしたんだぞ。情はないのか?」


「ありました」


 セシリアの返事は静かだった。


「何度裏切られても、いつか私を見てくれるのではないかと期待していました。あなたの好みに合う妻になろうと、好きでもない華やかな刺繍まで習ったし、あなたが嫌がるから、大好きな本を読むことも辞めたわ」


 月明かりを受けた姉の瞳に、涙が浮かぶ。


「けれど、あなたは私を見てくれなかった。そんな家で暮らし続ければ、私は私でなくなってしまう」


 涙が頬を伝う。だが、セシリアは目を伏せることなく、夫へ最後の言葉を告げる。


「あなたへの情よりも、これから生まれてくる子供と、私自身の人生を選びます」


「セシリア、待て」


「もう待ちません」


 その言葉は、これまで姉が飲み込んできた無数の声を、すべて解き放つように響いた。


 護衛たちが伯爵の前へ立つ。


「閣下、これ以上はお控えください」


「どけ。これは夫婦の問題だ!」


「離縁の協議中は、許可なくセシリア様へ接触させぬよう、アークライト男爵より申しつけられております」


 伯爵はなおも何か言おうとしたが、護衛たちに両脇を固められ、庭の出口へ連れていかれた。


 その背中が遠ざかっていくのを、セシリアは黙って見つめていた。


 やがて姿が完全に見えなくなると、張り詰めていた空気が緩むのと同時に、セシリアの身体から一気に力が抜ける。


「お姉様」


 崩れそうになった姉の身体を抱きとめた。


「アリアナ、ありがとう」


 セシリアはアリアナの肩へ額を預けると、震える息を吐いた。


「怖かったわ」


「ええ」


「今でも、これでよかったのかと考えてしまうの。私がもう少し我慢すれば、あの人も変わったのではないかって」


「お姉様は、十分に我慢したわ」


 アリアナは冷えた姉の手を両手で包む。


「それに、変わるかどうかは、あの人が自分で決めることよ。お姉様が我慢してあげなければ変われない人なら、これからもきっと同じだわ」


 セシリアは目を閉じ、何度か深く呼吸した。


「そうね」


 やがて顔を上げた姉の瞳には、まだ涙が残っていた。それでも、どこか肩の荷を下ろしたような安堵の色も浮かんでいる。


「私、幸せになりたい」


 その言葉は、願いというより決意に聞こえた。


「誰かに幸せにしてもらうのを待つのではなくて、自分とこの子のために、未来をこの手で選びたいわ」


 セシリアは膨らんだ腹部を、慈しむように撫でた。


 三姉妹の中で一番美しいと評判で、誰よりも物分かりがよく、両親にとって自慢の娘であろうと努力してきた姉。そんな立派な姉の背中を、まだ生まれていない小さな命が今は最も強く支えているように思えた。


「セシリアお姉様なら、きっとできるわ」


 自然と言葉が漏れた。


「あなたもよ、アリアナ」


 セシリアの手が、今度はアリアナの手を包んだ。


「私たちには、自分で選べる未来があるのよ」


 アリアナは小さく頷いた。


 セシリアは強いから夫を拒めたのではない。身体を震わせ、今も迷いながら、それでも自分と子供の未来を選んだのだ。


 オリビアは周囲の嘲笑をものともせず、自分の直感を信じてデレクの腕を取っている。


 二人の選び方は、まるで違う。


 それでも、どちらも自分の手で幸せを掴もうとしていた。


 アリアナもまた、誰かと同じように強くなる必要はない。


 迷いながらでも、自分の速度で答えを選べばいい。


「アリアナ、そろそろ中へ戻りましょう」


「ええ」


 アリアナは姉の腕を取り、ゆっくりと屋敷へ向かって歩き始めた。


 庭園を吹き抜ける夜風は冷たかったが、繋いだ手のぬくもりは、確かにそこにあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。