37. それぞれの手で掴むもの1
女性の財産権と離婚請求権を認める法案が成立してから二週間後、アークライト男爵家では、法案成立を祝う夜会が開かれていた。
大広間にはいくつものシャンデリアが眩い光を放ち、磨き上げられた大理石の床を黄金色に染めている。窓辺を彩るアークライト・ファブリック商会の新作カーテンは、上質な絹の光沢に緻密な銀糸の刺繍が映え、優美な存在感を放っていた。
壁布と一人掛けのソファには同じ意匠のダマスク織が使われ、ローテーブルの木彫やクッションの刺繍まで統一されている。楽団の奏でる華やかな旋律に合わせ、色とりどりのドレスが花弁のように舞う光景も含め、どこを見ても妥協がない。
潤沢な資金を惜しみなく注ぎ込んだ、いかにもアークライト家らしい豪奢な夜会だった。
招待客の中には法案の賛成派だけでなく、最後まで成立に反対していた者たちもいる。
母は当初、なぜそのような人々まで招くのかと不満を露わにしていた。
『娘たちを危険な目に遭わせた者と繋がっていたような人たちなのよ。そんな方々に、我が家の敷居を跨いでもらいたくないわ』
母の言い分はもっともだった。
アリアナとしても、自分が命を狙われ、ユアンが傷を負うことになった事件と無関係とは言い切れない者たちを、手放しで歓迎できるはずがない。
しかし父は、招待客の一覧を前にして、きっぱりと言い切った。
『法律で権利を認めたところで、それを使う女性が責められる世の中のままでは意味がない。変わるべきなのは制度だけでなく、それを受け入れる側の意識もだ。成立した翌日から敵味方に分かれて睨み合っていたら、何も進まんよ』
いかにも父らしい、現実的な考え方だった。
争った相手だからこそ同じ場所へ招き、食事と酒を囲んで話をする。今すぐ意見が一致しなくても、少なくとも議論を続ける道は閉ざさない。
その信念を表すように、父は反対派だった紳士たちを相手に熱弁を振るっていた。
「この新型織機なら、従来の三分の二の時間で同じ長さの布を織れる。しかも、糸の張力を自動で調整するから、熟練工でなくとも品質にばらつきが出にくいのです!」
ただし、語っているのは法案についてではなく、自ら設計した織機の素晴らしさについてだった。
相手の紳士たちは圧倒された様子で頷いている。話題が政治から機械へ移った途端、父は水を得た魚のように生き生きとしていた。
その少し離れた場所では、母が数人の貴婦人と輪を作っている。
「娘を実家へ戻したいのです。でも、無理に連れ帰れば、かえってあの子の立場が悪くなるのではないかと……」
母と同じくらいの年齢に見える夫人が、扇の陰で声を震わせた。
「まずは、お嬢様ご本人の意思を確かめましょう」
母は夫人の手へ自分の手を重ね、ゆっくりと語りかける。
「戻りたいと望んでいるのなら、ご実家はいつでも受け入れると伝えて差し上げて。それから、弁護士だけでなく信頼できる医師にも相談したほうがいいわ。長く虐げられた方は、安全な場所へ戻っても、すぐには心を休められないものですから」
母の周囲に集まっているのは、嫁ぎ先で娘が苦しんでいることに気づきながら、これまで手を差し伸べる方法がなかった母親たちだった。
できるだけ争いを長引かせずに離縁するための交渉方法。持参金や相続財産を取り戻すために必要な記録。傷ついた娘へ、家族としてどのように寄り添えばよいのか。
これまでは家の恥として隠されていた悩みが、少しずつ言葉になり始めている。
法案が成立しただけで、すべてが変わるわけではない。それでも、黙って耐える以外の道を話し合えるようになったことは、確かな前進だった。
そんな希望を含んだ賑わいの中、アリアナは一人、壁際に立っていた。
壁の花と化すのはいつもと変わらない。それなのに、今夜は普段よりも多くの視線を感じる。顔を向けなくても、それが同世代の令嬢たちから注がれているものだと分かった。
彼女たちは扇を口元へ寄せ、アリアナと目が合いそうになると、慌てて顔を背ける。その表情に浮かんでいるのは、羨望よりも同情に近かった。
――よりによって、ユアン・ウィリンガムと婚約するなんて。
いくら容姿と家柄に恵まれていても、社交界でこれ以上ないほど評判を落とした放蕩者だ。そんな男に傷物にされた挙句、責任を取らせるという名目で婚約し、命懸けの事件をともにした勢いのまま結婚へ進もうとしている。
彼女たちの目には、アリアナは貧乏くじを引かされた哀れな令嬢と映っているのだろう。
憐れむような視線をやり過ごすため、精いっぱい借りものの微笑みを顔へ貼りつけた。
噂の的になっても気にしないと言い切れるオリビアほど、アリアナは強い心を持っているわけではない。むしろユアンの過去を知ったばかりだからこそ、周囲の視線は胸の奥へ鋭く突き刺さった。
もしかすると、彼女たちの判断のほうが正しいのではないか。
どれほど慎重に選んでも、いつか裏切られるのではないか。ユアンが今は真剣なのだと信じたい気持ちも、彼の美しい顔と甘い言葉に惑わされているだけではないのか。
胸の奥に根を張った不安は、少しも消えてくれなかった。
笑みを貼りつけたまま、天井から下がるシャンデリアを見上げる。
いつもは自分を値踏みするように思えた光が、今夜ばかりは、選択を誤らないかと冷たく試しているように感じられた。
応接室で話し合った翌日から、ユアンは約束を守っている。
ほかの女性と二人きりになることはなく、必要があって会話を交わしたときには、尋ねられなくてもアリアナへ話してくれた。触れる前には必ず許可を求め、早く信じてほしいと急かすこともない。
それでも、わずか数日の振る舞いだけで、彼の過去も含めたすべてを信じることなどできるわけがない。
婚約解消の申立書には、まだ署名していない。破り捨てることもできず、自室の机へ大切にしまってある。
ただ、このまま何年も彼を待たせるわけにもいかなかった。彼は言葉通りに自分を尊重し、変化を示してくれている。それに対して、自分だけが安全な場所にとどまり、傷つかないための盾として婚約解消の申立書を抱え続けているのは卑怯なことだと、理解できるからだ。
「デレク、踊りましょう」
聞き慣れた声に、アリアナはシャンデリアに向けていた視線を下ろす。
少し離れたところで、オリビアがデレクへ片手を差し出している。繊細な銀糸の刺繍が施された礼服は、今夜も姉が用意したものらしく、彼の甘やかな容貌によく似合っていた。
しかし、差し出された手を前に、デレクは困ったように周囲を見回している。
「僕が踊ったら、また余計なことを言われます」
「誰に?」
「皆さんにです。身分もないただの画家が、男爵令嬢の相手をしていると」
「言わせておけばいいのよ」
オリビアは平然と答えた。
「私は、あなたと踊りたいの」
「でも……」
「他人が私と誰を踊らせたがっていようと、そんなこと私には何の関係もないわ」
「ですが、僕と踊ったらオリビア様まで笑われるかもしれません」
「今さらね」
姉は肩をすくめると、ためらっているデレクの手を自分から取った。
「あなたを選んだ私まで笑われるというのなら、堂々と並んで見せたほうがいいでしょう? 隠したら、それこそ恥じていると思われるもの」
デレクは耳まで赤くしながら、握られた手を見下ろした。
「僕は、あなたほど強くありません」
「知っているわ。だからこうして私が、あなたの手を引いているのよ」
オリビアは得意げに微笑み、そのままデレクを舞踏場へ連れ出した。
色とりどりのドレスが舞う輪の中へ入っても、姉の背筋は少しも揺らがない。デレクの肩へ手を添え、まるで誰よりも誇らしい相手と踊っているかのように顔を上げている。
はじめこそ緊張していたデレクも、オリビアと目が合うと、諦めたように柔らかく笑った。
二人へ向けられる視線には、好奇も嘲りも混じっている。
それでも、オリビアの横顔には後悔の影など微塵もなかった。
売れない平民画家へ入れ込み、身分も財産もない男を囲っている。そう陰口を叩かれていることなど、姉も知っているはずだ。
それでも彼女は、自分の目でデレクを選び、その才能を信じていることを隠そうとしない。むしろ、彼の手を取った自分自身を誇っているように見えた。
あんなふうに強くなれたなら、どれほど楽だろう。
そう思いかけて、アリアナはすぐに考え直した。
オリビアと自分は姉妹でも、性格はまるで違う。
姉のように迷わず突き進めないからといって、自分が弱いわけではない。アリアナにはアリアナの考え方があり、結論を出すまでに必要な時間もある。
オリビアが迷わずデレクの手を取ることも、アリアナが不安を一つずつ確かめながらユアンとの未来を考えることも、自分の手で幸せを掴もうとしている点では変わらない。
姉妹だからといって、答えを出す早さまで同じである必要はないのだ。
「アリアナ」
隣から声をかけられ、振り向く。
淡い若草色のドレスをまとったセシリアが立っていた。
以前の姉なら、夫の瞳の色に合わせたサファイアブルーを選んでいただろう。けれど、今夜身にまとっているのは、セシリア自身が好きだった色で仕立てられたドレスである。
そのささやかな変化を、アリアナは密かに嬉しく思った。
「少し、外の風に当たりたいの。付き合ってくれる?」
「もちろん。私もちょうど、外の空気を吸いたいと思っていたところよ」
アリアナは微笑んで姉の腕を取り、人の多い広間を抜けた。




