36. 放蕩者の正体2
アリアナがユアン・ウィリンガムという男を初めて目にしたとき、彼は一人の令嬢に頬を打たれ、そのまま庭園の池へ突き落とされていた。
水に濡れたユアンを残し、令嬢は泣きながら立ち去った。その怒りも涙も、とても芝居には見えなかった。
王家の密命を受け、女性へ近づくことがあったとしても、彼にまつわる浮名のすべてが仕事だったわけではない。ユアン自身がそう認めた今、あの夜の光景は、以前よりも生々しい意味を伴ってアリアナの脳裏に蘇っていた。
「あなたを池へ突き落とした女性は?」
アリアナが尋ねると、ユアンの表情が曇った。
「あの方も、お仕事上の協力者だったのですか?」
「いや」
短い否定だった。
ユアンは膝の上で組んでいた指をほどき、わずかに視線を落とした。
「彼女は仕事とは関係がない。僕が関係を終わらせようとしていた、最後の女性だ」
「最後の女性……」
その言葉が、胸の内側へ細い棘のように刺さった。
王家の仕事という理由があれば、まだ割り切れたかもしれない。しかし、あの令嬢は本当にユアンへ心を寄せ、彼との関係を失うことに傷ついていたのだ。
まさに、今の自分と同じように。
ユアンに愛され、優しく囁かれ、そしてそれを失うかもしれない恐怖。あの令嬢が胸の中に抱いていたであろう甘い幸福と、それが崩れ去る瞬間の冷たい絶望。
それは他人の悲劇などではなく、少し足元をすくわれれば、すぐさま自分が立っていたはずの場所だった。
彼を愛してしまったからこそ、その手の温もりを知ってしまったからこそ、ユアンの頬を叩き、池に落とした彼女の痛みが、他人事とは思えなかった。
アリアナはぎゅっと胸元を握りしめた。
「彼女は、あなたが結婚するつもりはないと知っていたのですか?」
「ああ。関係を始める前に伝えていた」
「それなのに、どうしてあれほど傷ついていたの?」
問い詰める声が、思いのほか鋭くなる。
ユアンは言い訳を探すことなく、真っすぐにアリアナの視線を受け止めた。
「初めは、それでいいと言っていた。だが、付き合ううちに彼女の気持ちが変わったんだ」
「あなたは、それに気づかなかったのですか?」
「気づいていたよ」
あまりにも静かな返答に、アリアナは息を詰めた。
「気づいていながら、関係を続けたの?」
「ああ」
ユアンの唇へ、苦い自嘲が浮かぶ。
「彼女の望みに応えるつもりはなかった。それでも、好意を向けられることは心地よかった。僕は最初の約束を破っていないのだから、途中でそれ以上を望んだ彼女の問題だと考えていたんだ」
「卑怯だわ」
「そのとおりだ」
ためらいのない肯定に、かえって腹が立った。
「そこは少しくらい否定してください」
「君に許してもらうための嘘は、つきたくない」
静かな返答に、アリアナは唇を引き結んだ。
心のどこかで、放蕩者という悪評のすべてが王家のために作られた偽物であってほしいと願っていた。
事情さえ聞けば、嫌悪も不安もきれいに消える。ユアンを疑った自分が間違っていたと笑える。
そうすれば、命がけで自分を守り、自由さえ与えようとしてくれるこの人を拒む理由はなくなり、彼を好きでいていいのだと、自分を縛っていた鎖が解けていくはずだった。
そんな都合のよい真実を期待していたのだ。
しかし、目の前にいるユアンは、王家のために危険な仕事をしてきた男であると同時に、女性たちの好意を享受しながら責任を負わずに済む距離を保っていた男でもあった。
どちらか一方だけが、ユアンの本当の姿なのではない。
おそらく、どちらも彼なのだ。
「どうして今になって結婚を考えるようになったのですか?」
アリアナは気持ちを落ち着けるように、ゆっくり息を吸った。
「縁談から逃れるために、そこまでしたのでしょう?」
「状況が変わったんだ」
ユアンの眼差しが、わずかに遠くなる。
「王家の仕事を引き継げる人間が育った。僕が表へ出て女性たちの間を渡り歩かなくても、十分に役目を果たせる者がいる。今回の一件を最後に、僕は諜報の第一線から退く許可を得ている」
「今回の事件が、最後だったの?」
「ああ。それに、父も年を取った。まだ元気ではあるが、いつまでも領地のことを任せきりにはできない。そろそろ僕も、ストーンハーストを継ぐ者として、父から学ばなくてはならないと思った」
故郷で見たユアンの横顔が思い浮かぶ。
朝日を浴びる領地を見つめながら、そこに暮らす人々を背負う責任を語っていた彼の姿だ。
「だから、王都での仕事と暮らしを整理して、少しずつ領地へ軸足を移すつもりだった。将来を考える以上、今までのような生き方を続けるわけにはいかない。女性たちとの関係も、一つずつ終わらせていたんだ」
「その途中で、私と出会ったの?」
「ああ」
ユアンの唇に、苦い笑みが浮かぶ。
「君が目撃したのは、最後に残っていた相手と別れ話をしているところだった。僕がもっと早く、もっと誠実に関係を終わらせていれば、彼女をあれほど傷つけることもなかった」
「池へ落とされたあと、笑っていましたね」
「自業自得だと思ったからだよ。あれで済ませてもらえたのなら、むしろ安いくらいだと思ったから」
アリアナは何も言えず、膝の上で手を握った。
彼は変わろうとしていた。
それは、アリアナと出会ったから突然すべてを改めたという、美しい物語ではない。出会う前から仕事を退く準備を始め、将来へ向けて生活を整理していた。その最後の躓きを、アリアナが目撃した。
少なくとも、婚約してからも陰で女性と関係を続けていたわけではない。
安堵した自分に気づき、同時にひどく腹立たしくなる。
「私は、あなたの過去が嫌です」
はっきりと言葉へすると、胸が痛んだ。
「仕事だった関係と、そうではない関係があることは分かりました。お姉様のことも、結婚を恐れた理由も理解できます。でも、それであなたのしたことを、すべて仕方がなかったとは思えません」
「ああ」
「ほかの女性に触れたことも、甘い言葉を囁いたことも嫌です。私に向ける笑顔まで、誰かに向けていたものと同じではないかと考えてしまうから」
ユアンの表情がわずかに歪む。
傷つけたことは分かった。それでも、言葉を引っ込めるつもりはなかった。
「どんなにあなたを好きになったとしても、疑い続けるかもしれません。帰りが少し遅いだけで、ほかの女性と会っているのではないかと思うかもしれない。仕事だと言われても、本当にそれだけなのかと疑うかもしれません」
「それでもいい」
「私はよくないわ」
「疑う理由を作ったのは僕だ。君に、今すぐ信じろと求めるつもりはないよ」
ユアンはわずかに身を乗り出した。
「僕は、自分が誰も騙していないことを、誰も傷つけていないことと取り違えていた。最初に条件を伝えれば、そのあとの相手の気持ちには責任を負わなくていいと思っていた。今は、それが浅はかだったと分かっている」
「反省したから、許してほしいの?」
「違う」
ユアンはゆっくりと首を横へ振った。
「許してほしいとは言わない。過去は消せないし、君が嫌だと感じることも変えられない。僕にできるのは、これからの行動で、少しずつ信じてもらうことだけだ」
「もし結婚して、私より魅力的な女性に出会ったら?」
「何も起こらないよ」
「今までのあなたなら、そうではなかったでしょう?」
「今までの僕は、誰かと生涯をともにするつもりがなかった。だが、君にはそれを望んでいる」
「言葉だけなら、何とでも言えるわ」
「ああ。だから、言葉だけで信じてもらえるとは思っていない」
ユアンはテーブルの婚約解消の申立書へ目を向けた。
「僕を信じられないなら、そのことを理由に婚約を解消していい。僕の過去を受け入れられないと考えることも、君の権利だ」
「それで、あなたは納得できるの?」
「できないよ」
ユアンは苦しそうに笑った。
「君を失いたくない。けれど、姉を苦しめた男のように、君の自由を奪ってまで手元へ置きたくもないんだ」
アリアナの胸が強く締めつけられた。
同情だけで彼を選んではいけない。それでも、彼の過去を嫌悪する気持ちも、今の彼を信じたいと願う気持ちも、どちらも偽りのない本心だった。
「あなたは、結婚そのものが嫌だったのでしょう?」
「ああ」
「それなのに、今は私と結婚したいの?」
「君とだから、結婚したい」
答えに迷いはなかった。
「どうして私なの?」
「君が、自分の人生を僕へ差し出さない人だからだよ」
「それは褒めているの?」
「もちろん」
ユアンの目元が、ほんの少しだけ和らぐ。
「君は僕が間違っていれば怒るし、嫌なことは嫌だと言う。守られるだけで満足せず、自分で考えて、自分の足で進もうとする。僕と結婚しても、きっといくら望んでも、僕の所有物にはならない人だ」
その声が、静かにアリアナの胸へ届く。
「僕は、そんな君と並んで歩きたい。君の人生を預かるのではなく、互いに自分の人生を持ったまま、一緒に生きていきたいんだ」
それは、アリアナが望みながら、貴族の結婚には存在しないと思っていた関係だった。
胸の奥がじんわりと熱くなり、目の奥へ薄く涙の膜が張る。
この人を信じてよいのだろうか。
セシリアの夫も、結婚前は誠実な紳士だといわれていた。人は甘い言葉で自分を飾ることも、都合よく変わったふりをすることもできる。
けれど、目の前のユアンは、自分に都合のよい嘘をつかなかった。
王家の仕事を理由にすれば、女性たちとの噂をすべて美談へ変えることもできたはずだ。それをせず、自分の浅はかさも、身勝手さも、アリアナへ差し出した。
「ずるい人」
ぽつりと漏れた言葉に、ユアンが眉を下げる。
「そんなふうに正直に話されたら、信じたくなってしまうわ」
「アリアナ……」
「でも、まだあなたの過去を受け入れたわけではありません。これからも、ふとした瞬間に昔の噂を思い出して、嫌な気持ちになると思います。あなたを疑って、嫌な言い方をしてしまうかもしれない」
アリアナは膝の上でドレスを握りしめ、逃げずにユアンの視線を受け止めた。
「まだ不安だから、すぐには答えられません」
「分かっている」
「あなたのお姉様の話を聞いたからといって、過去を許せたわけでもないわ」
「ああ」
「これから先、本当に私だけを選べる人なのか、見極めたいです」
ユアンの瞳へ、小さな希望の光が宿る。
「それは、婚約を続けてくれるという意味?」
「今すぐには解消しないという意味です。結婚を承諾したわけではありませんから」
「では、その間に君を口説くことは?」
「節度を守るなら」
「努力しよう」
「努力では困ります」
「必ず守るよ」
アリアナはしばらく彼の顔を見つめたあと、婚約解消の申立書を手に取った。
ユアンの顔に、隠しきれない緊張が走る。その表情を見ながら、アリアナは書面へ署名する代わりに、二つに折って自分の手元へ置いた。
「これは、私が預かります」
「署名は?」
「今のところは保留です」
ユアンが、止めていた息を静かに吐き出す。安堵に緩んだ表情を見て、アリアナの胸の奥が甘く疼いた。
「ただし、いつでも署名できることを忘れないでください」
「一生、忘れないようにするよ」
「もし、ほかの女性と浮名を流したら、その日のうちに署名します」
「それは困るから、絶対にしない」
「お仕事で女性と親しくする必要ができた場合も、隠さず話してください」
「ああ。事前に伝える」
「私が不安を口にしても、嫉妬深いと笑わないこと」
「笑わない。君が安心できるまで何度でも説明する」
「それから、私に触れるときは――」
「必ず許可を求める」
約束が、丁寧に積み上げられた小さな橋のように、二人の間へ架けられていく。
ユアンが、アリアナへ片手を差し出した。
「手を取っても?」
アリアナは彼の手と、その向こうにある顔を見比べた。
この手を取ったからといって、すべてを許したことにはならない。
それでも、これからの彼を見ていたいという気持ちは確かにあった。
「ええ。いいわ」
差し出された手へ、自分の手を重ねる。
ユアンは指を絡めず、逃げる余地を残すように優しく包んだ。アリアナが手を引かないと分かってから、親指で手袋の縫い目をそっと撫でる。
「ここ、自分で直したの?」
「親指のところが余っていたので」
「君らしいね」
ユアンは縫い目へ視線を落としたあと、もう一度アリアナを見た。
「手袋へ口づけても?」
そこまで尋ねられるとは思わず、アリアナの頬へ熱が集まる。
「……手袋の上なら」
「ありがとう」
ユアンは彼女の手を持ち上げ、アリアナが自分で縫い直した縫い目へ、静かに唇を寄せた。
触れたのは、ほんの一瞬だった。
それでも手袋越しに伝わった熱は、指先から胸の奥までゆっくりと広がっていく。
「借りものではない君の答えを、いつまでも待つよ」
アリアナはすぐには応じなかった。
ただ、重ねた手を振りほどくこともしなかった。
過去を知っても、不安は消えていない。彼を信じられるようになるまで、どれほど時間がかかるかも分からない。何より、彼にとって都合の良い女になる気はない。
それでも今は、この手を離さずにいたい。
窓から差し込む明るい光の中で、アリアナは初めて、自分の意思でそう願った。




