35. 放蕩者の正体1
翌朝、ユアンは約束の時刻ぴったりにアークライト邸を訪れた。
応接室で待っていたアリアナは、扉の向こうから足音が近づいてくるのを聞きながら、自分で縫い直した手袋の親指を何度も撫でていた。
昨夜、姉たちと話したからといって、迷いが消えたわけではない。
ユアンに惹かれていることは、もう否定できなかった。彼のいない未来を思い浮かべれば胸の奥に空白が生まれ、顔を見れば心臓が落ち着きを失う。
だからこそ、怖かった。
彼が本当に、社交界で噂されるような放蕩者だったなら。この先も、ほかの女性へ甘い言葉を囁く男だったなら。
好きになればなるほど、些細なことまで疑ってしまうだろう。そんな思いを抱えたまま結婚生活を続けることなど、アリアナにはできそうもなかった。
「自分の手で結んだ糸なら、簡単にはほどけないもの」
手袋の縫い目を指先で確かめながら、自分へ言い聞かせる。
何も知らないまま婚約を解消することも、疑いを抱えたまま結婚することもできない。
ならば、きちんと向き合うしかない。
「それに、ユアン様はお仕事で仕方無く女性と付き合っていたのかも知れないし」
昨日姉二人に都合よく信じるなと釘を刺されたばかりだというのに、どこかで彼を庇うような理由を探してしまう自分がいた。
「ユアン・ウィリンガム様がお見えになりました」
執事に案内され、ユアンが応接室へ入ってくる。
口元にできた不名誉な傷は完治していたが、脇腹にできた傷の影響はまだ残っているらしく、歩調は普段よりわずかに遅い。それでも濃紺の礼服に身を包んだ姿には隙がなく、社交新聞がこぞって褒めたたえる美貌も健在だった。
こんなときまで見惚れてしまう自分の単純さが、少し腹立たしい。
「おはよう、アリアナ」
「おはようございます」
「ずいぶん緊張しているね」
「誰のせいだと思っているのですか」
「僕だろうね」
ユアンはいつものように笑ったが、どこかぎこちなかった。
そのわずかな硬さに、彼もまた緊張しているのだと気づく。それだけで、アリアナの強張りが少しだけ和らいだ。
紅茶を用意した使用人が下がる。二人きりではあるが、作法に従って扉はわずかに開けられたままだった。
ユアンはアリアナの向かいへ腰を下ろすと、内ポケットから一通の書面を取り出した。
「まず、これを君へ渡しておきたい」
テーブルに置かれた書面へ目を通し、息を詰める。
すでに国王陛下のサインが入った、婚約解消の申立書だった。
ユアンの署名はすでに記されている。あとはアリアナが自分の名を書けば、婚約は正式に解消される状態だった。
「ずいぶん、用意がよろしいのね」
思った以上に冷たい声が出た。
ユアンが、わずかに目を細める。
「君との約束だから」
「法案が成立したら、すぐに私との婚約を解消したかったのですか?」
「まさか」
間を置かず否定され、顔を上げた。
「解消したくないからこそ、僕から渡すべきだと思った。君が自由に選べる状態でなければ、僕を選んでほしいと望むことに意味はないから」
「私が署名したら、引きとめないの?」
「引きとめたいよ」
ユアンは困ったように笑った。その笑みの奥に、隠しきれない切なさが滲んでいるように見えてしまい、心が落ち着かなくなる。
「できることなら、その紙を暖炉へ放り込みたい。けれど、それをすれば、僕も君の意思より自分の都合を優先する男たちと同じになる」
アリアナは書面へ視線を落とした。
自由にしてもらったうえで、自分で選ぶ。
それこそが、セシリアをはじめ、多くの女性たちに与えられてこなかった権利だった。
胸の奥へ生まれた甘い痛みに流されないよう、膝の上で手を握った。
「あなたに、確かめたいことがあります」
「何でも聞いて」
「ベルニエ仕立店で見せた書状には、王家の紋章がありました」
ユアンの表情から、ゆっくりと笑みが消えていく。
「あれは今回の事件に限って、王家から借り受けたものではありませんね?」
「どうしてそう思うの?」
「扱いに慣れすぎていたからです。あなたは王家のために働いているのではありませんか?」
青い瞳が静かにアリアナを見返した。
しばらくの沈黙のあと、ユアンは小さく息を吐く。
「君には隠し事ができそうにないな」
「では、本当に?」
「ああ。表向きの役職はないが、王家の命を受けて、貴族や商人の動向を探っていた」
「諜報活動をしていたということ?」
「そう呼んでも間違いではないよ」
否定されなかったことに驚きながらも、アリアナの中では、いくつもの出来事が一つに繋がっていった。
鍵を開けるための細い道具。追っ手の意図を即座に見抜く洞察力。〈目ざとい子猫たち〉と呼んでいた情報網。そして、王家の紋章が押された協力要請書。
「お仕事では、女性へ近づくこともあったのですか?」
「多かったよ」
ユアンは隠さず答えた。
「男性だけの晩餐会で話される秘密もあれば、夫人たちの茶会や劇場の控え室でしか得られない情報もある。僕の顔と評判は、相手の警戒を解くのに都合がよかったんだ」
アリアナの胸へ、小さな期待が生まれた。
ひょっとすると、放蕩者という悪評のすべては、仕事のために作られた嘘かも知れない。別れた女性たちがユアンを悪く言わないのも、彼女たちが本当は協力者だったから。池へ突き落とした令嬢でさえ、人前で芝居をしていた可能性がある。
「では、あなたが女性たちと浮名を流していたのも、すべて王家のお仕事だったの?」
縋るような声音になってしまったことに、自分でも気づいた。
ユアンはすぐには答えなかった。
そのわずかな沈黙に、アリアナの胸がひやりと冷え込んでいく。
ああ……これは、残念な結果なんだ。
本当であってほしいと願い、いくつもの点と線を繋ぎ合わせて膨らませた期待は、ただ自分にとって都合のよい幻に過ぎなかったと、分かってしまった。
「そうであれば、君にとっても僕にとっても、ずいぶん都合のよい話だっただろうね」
返ってきた声は、静かだった。
「だが、違う」
アリアナの胸が重く沈む。
「噂の中には、仕事のために作ったものもある。情報を得るために親密なふりをした相手もいたし、僕との噂が立つことを承知で協力してくれた女性もいる。けれど、それがすべてではない」
「では、本当に関係を持った女性もいるのですね」
「ああ」
ユアンは目を逸らさなかった。
「仕事とは関係なく、互いに望んで付き合った女性もいた。結婚する意思がないことを最初に伝えたうえで、後腐れのない関係を楽しんでいたんだ」
聞きたくなかった答えだった。
胸の内側へ、黒いものがじわりと広がっていく。それでも、ここで耳を塞ぐわけにはいかない。
「どうして?」
絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。
「どうして、わざわざ放蕩者と呼ばれるような生き方を選んだの?」
ユアンは膝の上で両手を組んだ。
「僕には、十歳上の姉がいたんだ」
過去形で語られたことに気づき、アリアナは自然と背筋が伸びる。
「とても優しい人だった。母を早くに亡くした僕にとっては、母親代わりのような人で、頭がよくて、絵が上手で……僕に初めて鍵の開け方を教えたのも姉だった」
「鍵の開け方を?」
「閉じ込められたとき、自分で逃げられるように、とね」
ユアンはわずかに笑ったが、その目には少しも明るさがなかった。
「姉は結婚を望んでいなかった。それでも家同士の都合で、歴史だけは立派な伯爵家の跡取りへ嫁がされた。結婚した途端、母から受け継いだ財産は夫の管理下へ置かれ、絵を描くことも、友人と会うことも、実家へ手紙を出すことさえ夫の許可が必要になった」
あまりにもセシリアの境遇と似ていた。
「夫は外に何人も女性を作っていた。それなのに姉が不満を口にすれば、貴族の妻としての自覚が足りないと責め、子ができない原因まで、姉一人に押し付けた」
「お姉様は、実家へ戻れなかったのですか?」
「何度か戻ってきたよ。けれど、そのたびに夫のもとへ返された。当時の父も、家同士の関係を壊すわけにはいかないと思っていたんだ。もう少し辛抱すれば夫も落ち着くと、子ができれば変わるはずだと、姉へ我慢を強いてしまった」
組まれたユアンの指に、強く力がこもる。
「姉は少しずつ笑わなくなった。眠れなくなり、食事も取れなくなった。それでも夫は、妻が勝手に塞ぎ込んでいるだけだと言って、向き合おうとしなかった」
低い声の奥には、消えることのない怒りと後悔が滲んでいた。
「最後に会ったとき、姉は僕に言ったんだ。自分の人生なのに、自分のものが一つもない、と」
アリアナは言葉を失った。
「それから間もなく、姉は亡くなった。心だけでなく身体まで衰え、冬を越せなかったんだ」
「そんな……」
「父は今でも、自分が姉を夫のもとへ返したことを悔いている。だから今回の法案を支持した。二度と、姉と同じような女性を生み出さないために」
ストーンハースト侯爵が、父とともに法案成立へ尽力していた理由を、アリアナは初めて知った。
「結婚すれば、妻の財産も時間も身体も夫のものになる。僕は、そんな考え方が嫌いだ」
ユアンは静かに言い切った。
「結婚は契約のはずだ。片方だけが自由で、もう片方だけが縛られるなんて馬鹿げている」
「だから、結婚しないことにしたの?」
「ああ。姉を守れなかった僕が、いつか姉の夫と同じような男になるかもしれない。それも怖かった」
その恐れは理解できた。だが、理解することと、すべてを受け入れることは違う。
「それと、女性たちと遊ぶことに何の関係があるの?」
アリアナは同情に流されないよう、あえて厳しい声で問い返した。
「お姉様のことはお気の毒だと思います。あなたが結婚を嫌うようになった理由も理解できます。でも、結婚を避けるだけなら、次々と浮名を流す必要はなかったでしょう?」
「そのとおりだよ」
ユアンはあっさりと認めた。
「侯爵家の跡取りである以上、いくら断っても縁談が持ち込まれた。だから、結婚相手として不適格だと思われればいいと考えたんだ」
「それで、遊び人になったの?」
「ああ。女性関係の悪評が広まれば、まともな家は娘を僕へ嫁がせたがらない。父も無理に縁談を進められなくなる。王家の仕事で作った噂も利用して、自分から悪評を積み上げた」
「女性たちまで、自分の評判を落とすために利用したのですね」
「そう言われても仕方がない」
ユアンは目を逸らさなかった。
「関係を持つ前に、結婚する意思がないことは伝えた。無理に迫ったことも、結婚を餌に騙したこともない。金銭や贈り物を約束した相手には求められたものを渡したし、別れを告げられても恨まなかった。終わった関係を他人へ話したこともない」
「子供ができた女性は?」
「いない。子供ができれば、責任も非難も女性へ押しつけられる。だからこそ、万が一にもそうならないよう徹底して気を配っていた」
アリアナは逃げ出したくなる気持ちを堪えながら、手袋の縫い目を指先でなぞる。
オリビアから聞いた噂と、ユアンの説明は一致していた。
彼は身分を盾に女性を従わせたわけではない。財産を奪ったわけでも、結婚をちらつかせて騙したわけでもなかったと主張している。それでも、彼が女性たちとの関係を楽しんでいた事実は変わらない。
ユアン・ウィリンガムは、社交新聞に何度も書かれた通り、女の敵だったのだ。




